みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

8/9月の蝶番:京都でみた宮永亮『ウォンジナ』,遡って前橋での鈴木志郎康さん講演,『攻勢の姿勢―1958-1971』,「ことばになる」こと

nomrakenta2009-09-06


ここ、数週間のこと。溜まってしまったので、長くなります。

ズラし盆の最終日に訪れた前橋文学館での鈴木志郎康さんのことについて、なにもまとめれずに、衆議院選挙。
予想通りの結果とはいえ、自分のなかのこの気分はなんなのかよくわからず、この内田樹氏のエントリーの「チャンネルをかえた」が一番近い感覚なのかと(不遜ながら)思ってしまった。
http://blog.tatsuru.com/2009/09/01_1200.php
また、かなり通ずるようなトーンでありつつ、ゴッフマンの「スティグマ社会学」のレビューのかたちを借りて、「烙印」から30日以降を書いたこちらの松岡正剛氏にも、うなってしまう。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1317.html
マイナス方向への「有徴」である(決して欠落ではない)「烙印」(スティグマ)から、はなしが広がる広がる…。現状に即して読み、読みが現状を拡充している。やはりここほぼ十年、最強最重量のブックレビューだと思う(思う、どころかほぼ常識なのでしょうが)。

その一日前の29日(土)は、偶然京都で開催されていた最終日間近のふたつの展覧会をお勧めしてもらったので、京都へふらっと行っていました。
ひとつめは、烏丸の京都芸術センターでの「少年少女科学クラブ」のもの。
http://www.opus-design.jp/design20/museum/item_1034.html
理知的で無邪気な空間とも思ったけれど、その実、かなり真面目なコンセプトなのかもしれないと思った。
もうひとつは、十条に移転していた児玉画廊での宮永亮『ウォンジナ』。
http://www.kalons.net/index.php?option=com_content&view=article&id=2258&catid=338&lang=ja
以前は鋳物工場だったという頑健な空間を改装した吹き抜けのある素晴らしい暗闇に、壮絶で甘美な映像作品がエンドレスで投射されていた。現代美術のギャラリーで映像作品を観るという行為が、どうもタブローなどのフェティシズムを絡ませ辛いと思っていて、ちょっとした抵抗感がありましたが、この映像作品(音楽も)を前にすると、心地よく納得するしかありませんでした。
「ウォンジナ」とはオーストラリアの精霊だとか、映像の素材は作家さんの故郷である北海道の自然(海や河?)から抽出した波や水滴、波紋など、主に流動的な原イメージを加工したもの。それらが、うながし合い、重なり合い、呼び込み合って、大きく緩やかなひとつの呼吸をつくっているように思えた。とても言語に回収不可能な物語を語っているのだと思った。最初と最後に、木の葉のように見えるシルエットが最初はチラホラ、やがて増殖して画面一杯を覆いだすのを観て、「ああ、これらは言葉だ、言の葉なんだ」と、なぜか思った。

言の葉というと、やっと8月22日の前橋でのことに自分を繋げることができそうです。


【8月22日】
前橋文学館に入ると、お客は僕ひとりでした。入って右側の部屋で、鈴木志郎康さんの映像作品が展示されている。
以前、DVD-Rを送っていただいて拝見した『草の影を刈る』などが映写されていたと思います。モノクロ16ミリの極く個人的な生活をきりとった映像が与えるインパクトは、強い。
2Fにあがると、萩原朔太郎の展示があり、朔太郎が使用していたマンドリンや書簡が展示されていて、朔太郎が作曲したというマンドリンの小曲が流れていたり、ビデオテークのような装置で、朔太郎の詩の朗読をきくことができる。そのなかの一篇は、朔太郎の肉声での朗読の録音で聞くことができた。
意外と棒読みというか、堅い朗読で、ゴツゴツとした音韻を重ねていく朔太郎の肉声がおもしろかった。

3Fから、鈴木志郎康さんの展示でした。
基本的に、記念冊子の構成(この記念冊子は、非常によくまとまっています)をそのまま空間に展開しているかたちになっていたが、ところどころに、『青鰐』や『凶区』などの歴史的な詩誌や原稿が展示されていて興味をそそられる。
講演のほうは、1時間半くらい(最後は中座してしまいました。大変失礼いたしました)大体以下のような内容だったかと思います(※(注)メモをとりながら、自分が想ったことも書きとめていたので混ざっています)。

タイトル『詩を書くのは楽しい。でもその後は・・・』
この「その後は」は部分が、その詩が社会に向かって開いていくこと。鈴木さんに照らして言えば、具体的には朔太郎賞を受賞して、この場所に立っていることに代表されるようなことであり、日本で詩を書く人の問題。
詩で食べていくことはできない。それは詩が「仕事」ではないから。それは、偶然?とはいえ、小説を書く人が「作家」と呼ばれ「家」なのに対して、「詩人」は「人」のままであることにも表れているように思える。「詩人」というのは、税務署で通じない。それでも日本では、数万人が詩を書いている。
かくいう自分(鈴木さん)は、最近は、日常的に詩を書いているわけではない。「〆切」と「場所」がないと難しい。「詩集」をつくろうということになると、言葉が普段と違ってみえてくる。言葉が活きてくる瞬間がたちあがってくる。例えば、フランスの辞書などを開いてみると、ある種の「異化」が起こる。活きてきた言葉を捕まえて、アレンジメントし直すことで形になっていく。
写真や映像と似ていて、「出会い」の契機が必要。日常の他者のコンテクストで出会う言葉には、大抵、ひとつの意味しかなく、意味がうるさく感じられてしまう。他者が組み込んだ意味のコンテクストから外れたところで事物や言葉を見つけ出すことには、頭が「発火」するような自由がある。
それは言葉と新しい関係を結んでいるから。短歌や俳句においては、その自由が比較的少ないように感じる。詩は、言葉との関係が主役である。
無意味なところから言葉を回収して、編成して、また新しい無意味に返す。読者は無意味なものにも意味を求める。ロジックが成立していないところは、「比喩」として捉えられることがある。人はそうせずにはいられない。現代詩はそのスレスレを目指しているのかもしれない。
1960年代の「プアプア詩」にも同様のことが言えるのであって、通常の意味を汲み取るのは困難な筈。
そのように「詩」を読むことは、本来「わからない」(不安定)なものの筈だが、全体を通して読むと、なんとなくわかってくるものがある。「プアプア詩」にしても、書いた自分が意味がわからないが、書いたときの「調子」が良かったことは、記憶にしっかりと、ある。プログラム言語はコマンド(命令)だが、「詩」は命令ではない。
言葉を話したり書くのは「人間」だけ。逆にいえば、言葉を話したり書けば「人間」になれる!
詩を書くのが楽しいのは、そういった意味で、「人間」になれるから。「主体」になれるから。純粋で無意味な言葉の「主体」者なんて愉快じゃないか。
主体とは、「極私的」になること。(純粋な主体になることが「極私的ラディカリズム」?)
書かれた詩は、読者を求めて叫んでいる!それがストレスになることもある。発表した方がいい。そうしないと、「読まれたがっている言葉」による蜂起が起きます(笑)。
今回、出版される『攻勢の姿勢』に収められた詩を書いた詩人と、今の自分は、もう違う人になっている。それでも当時と現在の詩の状況を比較して考えてみると、「わからなさ」の持つ緊張が薄れてきている。「わからなさ」が様式化しているようにも感じる。互いに衝撃を与えようというコミュニケーションが自覚されていないようにも思える。
「詩」の流通は、「贈与」であって、「商品として」ではない。
「言葉」というのは、意味や内容。「形態」というのは、音声や字のイメージ。「比喩」は、というとこれが難しく、なぜ比喩が使えるのか?という問題は、「約束事」の共有であることからも、「紙幣」の使用と関連があるだろう。
言葉を連ねると、そこにスタイルが出来る。現代詩は、詩人それぞれのスタイル、形態を独特化していくことで「美感」をつくっていく。そのことに集中していくために、「わけ」がわからなくなっていく。そういう問題は自覚されている。
現在は、状況が多様化してバラバラになってきている。
60年代にはまだ共通の意識のありかたがあった。たとえば「戦後詩」へのリスペクトなどがそうだったし、言葉自体を詩作の対象として、言葉によって何が出来るかが、問題だった。言葉のこころみ。そこが共通の問題意識だったが、今はその意識は希薄(違いであって、欠如ということではない)。
今は、それぞれが「詩」の効用を求めている。たとえば最近の「現代詩手帖」の「これからの詩、どうなる?」といったタイトルには、詩をどうにかしたい、かのようなファッショ的な感じがしてしまう。
個人が「詩の言葉」の主体者であることで、どうやって「詩の言葉」から効能を受け取っていくかが、今の問題。極私的ラディカリズムと表現したのは、一歩、自分の内面に引き下がって、輪郭をはっきりさせながら、言葉の主体者となって「攻める」、そういう基本的なスタンス。
(ここから、鈴木さんが関わっている新しい詩人の2冊の詩集の紹介に。)

ところどころ、笑いを誘うような飄飄とした雰囲気を醸しながら、論旨じたいは、しなやかに通っていて、頭の芯が心地よく、ぼうっとなるものでしたが、このあたりで列車に乗り遅れそうになったので残念ながら、退席。ひとことごあいさつできれば、とは思っていたのですが。

最初から、どうも、講演の途中で東京に引き返さなくてならなさそうな予感があったので、せめて、と思って、初期の詩篇を集成した『攻勢の姿勢1968−1971』(書肆山田)のサイン本を物販で購入していました。

asin:4879957704
弁当箱と見間違えそうな、非常にたのもしい形状になっている。「現代詩文庫」22の最初の鈴木志郎康詩集は、結構入手しにくくなっているのだろうか。収録の初期詩に加えて、前半の『攻勢のスクリーン』には、これまで表に出ることがなかった詩が多く含まれています。「プアプア」に至る以前の、割と直戴なイメージと調子の詩のことば。そして広島から東京への挑戦状でもあったという「プアプア」詩群の、猥雑ねっとりしつつ、からっと破壊的でもある言葉の表面、否や断面の蝟集蟻集……遅く見積もっても1971年なのである。『アンチ・オイディプス』は、まだ原著すら刊行されていない。この異様さが伝わるでしょうか。
そんな、<生な力>(イギー・ポップ的な意味合いでもいい)を漲らせながら、世に出てきた頃の全てを収めていることになっている。と、同時に、当時であってさえ、「プアプア」の言葉たちへの微妙な(拒絶にも似た)距離感があとがきに綴られていたことにも、やっと気付く。

私の場合は、自ら言葉に封をすると同時にその封を切ってしまうというように消費するのだ。この過程が私の詩作行為と考えられないだろうか。言葉に封をするということは、言葉に一般的な意味が流入するのを止めてしまうということなのだ。「私小説的プアプア」の第一行目がこれである。プアプアとはつまり、言葉の処女膜なのだ。〜(中略)〜以前はいずれにしろ詩は作られていたといえる。しかし、今はもう私は詩を作っているのではない。私の生活のすべてを言葉にしてしまわなくてはならない。そこには言葉の湧出以外にテーマはないのだ。しかし、テーマそのものが言葉であるということは時間を拒んでくるので、私はたちまちのうちに絶句して耐え切れない真空がそこに発生してしまう。それは本当に恐ろしい状態だ。
私はこここから逃げ出すために、プアプアとの交渉を時間的にした。つまり、殆ど現実的な行為のように言葉にしてしまった。そのために「プアプア」は人格をそなえてしまって、私の生命の完全な言語による露呈は失敗に帰したといえるだろう。
それでも始めのうちは、プアプアとの交渉のありさまも意識内の出来事として、現実の言語化を一応導いていたといえるが、段々と言葉自体の自己運動(連想作用その他)と私の意識の独立性との間の争いに重点が移って行ってしまう。最後の「番外私小説的プキアプキア家庭的大惨事」ではほぼ前者に統一されてしまっている。それのは一種の筋書きさせ読み取れる程だ。このような明らさまな偽の時間があみ出されたことは、私の生命をひどく辱めるものである。私の生命ははるかに自由である筈ではないか。或いは又言葉による直接的な生命の露呈は不可能なのかも知れない。「番外」は実に七回も書き直したのだった。
――p.362-363『極私的分析覚え書』より

書かれた言葉を「表現」とみなして、なにかしらの内面の表出であると考えることは、実は限定的にしか有効ではない読み方なのだ、ということは、果たして常識になっているのだろうか?上で書かれている「言葉の湧出」そのものになり変る、という詩の言葉のあり方は、そのような読み方では掬い取れない種類のものであることは明らかだ。鈴木さんの講演の中のことばも、そして、プアプア当時からの距離感も、それを物語っているように、僕は思えます。
『攻勢の姿勢1958-1971』刊行を記念した附録のちいさな冊子には、鈴木さんと吉増剛造氏との対談が納められていて、こちらもまた、興味深い・刺激的な発言の宝庫となっていました。

ぼくらは最初に焼跡で「違うんじゃないの!」という体験をして、どういう意味があるとかを云々する前に、初めから「違うんだ!」と撥ねのけてしまう。そういうことから「口辺筋肉感覚説による抒情的作品抄」を「これは詩だ!」と出してしまうことになったと思います。ただ、ぼくの場合は、それを紙に書くというところが吉増さんとは違う。吉増さんは歩く、歩いて行くスピードがそのまま詩の行の中に出て来る。ぼくの場合はそれがない。『攻勢の姿勢』を校正しながら読んでいて、はっきりとそう思いました。行の中に自分が生きている空間の移動が無いんだよね。完全に意識でもって言葉を辿って、言葉で語り出さなければならない、その言葉の中に自分自身が変身してしまわなければならない、という姿勢です。でも、吉増さんは、言葉は投げるものだって(笑)……ぼくには投げるものじゃないんですよ。

「プアプア詩」の土壌としての詩誌『凶区』について。

いえ、「凶区」でなければだめだったでしょう。「凶区」のメンバーのどの人という意識がぼくの中にはあるんです。〜(中略)〜それらの関係の中にいる一人一人の詩人・表現者に向けて<プアプア詩>は書かれたんです。誰に向かってはこれを投げつける、あるいは誰ならこれを受け止めてくれるだろう、そういった気持ちがありました。だから、他の雑誌ではあり得なかったことです。

『浴室にて、鰐が』の後、小説に向かわなかったことについて。

言葉にならないから言葉に成り変るというし方を採るしかない。言葉に書くのではなくて、言葉に成り変るしかない。このことは、吉増さんにも通じることで、吉増さんの『黄金詩篇』を読んでましたら、「私は人間の姿をしていない、言葉だ!」とあって、ああ、やはりそうだったんだ、と思いました。たとえば、啄木の『ローマ字日記』があるでしょう?言葉に成り変る、成り変わらなければだめだ!という感覚は、これに似ていると思う。啄木は妻に見られるとまずいからなんて言っていますが、そうじゃない。彼は小説を書いても書いても失敗の連続だったんです。いくら書いてもだめだった時に書いたのがローマ字の日記で、これはもう凄い作品です。本当のことを書く自分の表現がちゃんと出来た。『攻勢のスクリーン』を書いていた頃のぼくは、啄木にとってのローマ字と同じ地平で、自分が言葉にならなくてはならないと思い続けていました。自分の中から出て来る言葉から言葉へ、言葉から言葉へと、言ってみれば、突っ走ることによって、言葉そのものが自分なのだという実現のされ方を掴もうとしていたんだろう、と思います。

言葉に成り変る。
「ことばになる」ということ。この概念に、がーん!とする。
ことばとの距離を消滅させて、その方法そのものになることが詩であるということだったのかも。ことばになるという言葉を抽出すると、それは、一定の没入的で、ある種ヒロイックなロマンを分泌するように思える。
しかし、そのようなロマンを、一切の抑制を解いて書き抜けた印象があるのは、「プアプア」詩群ではなく、むしろ、ドゥルーズを思わせそうな敷布の「襞」から、とまらない内的観想の爆発的疾走へ導火する詩的エッセイ「浴室にて、鰐が」だと思う。この襞の導入部は、しかも、ジャン・ジュネが獄中で文学的なエクリチュールへの欲動を芽生えさせたという、絵葉書のでこぼこした純白のテクスチャーにも、どこかで繋がっている。

でも、鈴木志郎康さんのこの集成の重み(物理的かつ精神経験的な。内的経験だけに照準するならば、逆に、収められた言葉の密度重量からいえば「軽ろみ」とさえいえるかも)は、そこに我を忘れて沈み込んでいくことに対して、結果的に均衡を欠いてはいけないのだ、という伝え難いことを伝えようとしているのだと思った。
「ことばになる」ことが、実は、「読ませること」との関係を危うくすること、その「詩の言葉」の事態そのものを、その対価を支払った人の記録として『攻勢の姿勢』はこれからの、おそらくは、「詩の」だけではない読者たちのために、何度でも立ち上がってくるような、そんな可能性を内包させることに、成功しているのだと思う。「詩の」だけでない読者、というのは、気が向いたから書いてみたのではなく、鈴木志郎康さんの最近の詩集(『声の生地』(2008年)はそのものだし、ちょっと遡及して『胡桃ポインタ』(2001年)や『石の風』(1996年)あるいは『虹飲み老』(1987年)でもいい)の頁を開いてみればわかるように、日常の言葉と詩の言葉の垣根が、巧みに、これ以上ないくらいに除去されていることがわかるから。

なんども書くように、僕は、いかにも現代詩的な「詩のことば」の賛同者だったり、熱心な受容者ではない。ただ、現代詩も現代文学も現代哲学も現代音楽も現代絵画も、カテゴリチュアルな言葉としてもすでに幸福な幻想を付帯できるほど有効なものでなくなって随分の時間が経過している代物だけれど、かつて持っていた時代の質量というか、背景の空間が、とても好きなのだと思う。そこから、言葉なり、イメージなり、音塊なり旋律なりが、どれだけこちらに向かって「抜けてくる」のか、が自分にとっては唯一(そして最大の)の関心事なのだ。

啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)

**

31日(月)は、仕事で自分のチームにいた人が退社する日になっていて、最後の挨拶をしてもらって花束などをお渡しして皆で送りだしながら、ちょっと涙ぐんでいる自分がいた。


写真は、諏訪大社へ行く道で撮ったごみの缶。これで、今年の夏を終われそうだ。書きあげて、夕方散歩に出かけたら、吹く風はもうすでに夏のものではなかった。