みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

大切なものを囲む複数の「声」または、こどもへの領分:藤井貞和朗読作品『パンダ来るな』、『泥の海』(高橋悠治:音楽)、『言葉と戦争』『ピューリファイ!』、『ピューリファイ、ピューリファイ!』など

nomrakenta2007-12-30


このエントリーは長くなります。
ほぼ一年の読書(と音源聴取)生活の継続した一部をここで全部とは言わないまでもある程度片付けてしまおう、ということです。

またもや極私的な告白からはじめると、まず、現代詩というものが朗読されるものであることを永らく無視してきた覚えがあり、ビートニクスの朗読などは知ってはいたものの、日本の現代詩の詩人が朗読するという状況に立ち会ったこともなければ、なぜかそれをとてつもなく気恥ずかしいものであるかのようにもじぶんの観念を先入させてきたわけです。
詩のことばが「こえ」をともなって自分の像を結んだのは、先日の講演会での藤井貞和さんの朗読を聴いてから、なのでした。


藤井貞和さんには少なくとも3つの側面があって、それらは、

古代〜現代・聖俗・性別を様々な「こえ」をもって、言葉の実験としての(つまりルサンチマンではなく)現代詩を作り続ける詩人としての、それ。
また、和歌に句読点をつけて読む、その独特な提案、57・75調を日本語の詩的リズムのとして特権化することに抗する→琉球(8音6音が主体)・アイヌそして大和を等価に含めたところでの「日本」のウタの仕切り直し、また「物語」の話者として第四人称を喚起する(「カムイ・ユーカラ」に想を得ている)、等など、詩的跳躍、異論をおそれない豊饒な日本文学研究者としての、それ。
反戦・非武装論の強靭な思弁者としての、それ。

であったりもするのだと思われます。


先日の講演会は、主にの側面であり、今年出版された『言葉と戦争』のプロモーションも兼ねたものでもあった筈。
この③の側面は、著書でいうと1994年に出版された湾岸戦争論』から継続されてきた思弁である筈で、『湾岸戦争論』は、1991年5月から12月にかけて主に「現代詩手帖」で展開された藤井貞和と瀬尾育生との間で交わされた湾岸戦争詩論争」藤井貞和側からまとめた本です。この論争については、講演会主宰の立命館大学先端総合学術研究科公募研究会「文学研究会」の方々が用意されたHP・資料が非常によく簡潔にまとめられていますので、勝手ながら引用させていただきますと、

1991年湾岸戦争勃発に際して藤井が書いた戦争詩を、瀬尾育生らは、詩人としてなすべきではない「真情」の表明に陥ったと批判。<湾岸戦争詩論争>が展開され、現代詩と詩人と戦争の問題が露わにされた。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2007/1222.htm
となる。
瀬尾育生は1991年「ひとこと言いたくなったこと」で、藤井さんの『アメリカ政府は核兵器を使用する』について

懺悔に近い文体はとてもいやな感じがする。詩に望みを託してきたものにとってこの自嘲は腹立たしいものだ

また、

かつてないタイプの戦争を前にして、それに拮抗し得るまでに自らの詩の言葉を鍛えようとしているのか。それともこの戦争をめぐってこの国に飛びかっている苛立たしい言説どものなかに、詩にだけ可能な鮮烈な亀裂を走らせようとしているのだろうか。そのどちらともいえない

「戦争にNOと言うべきである」と語る藤井の詩は、彼の「真情」、さらには九条を有効化する日本国民の、そしてそれを象徴する天皇の「真情」を書いたものである

と指摘し、同時に

藤井の湾岸詩は単なる反戦詩でなく、「どこかで戦争を欲望して」おり、「その衝動においてむしろ戦争詩と呼ばれるべき」であるとその詩の魅力にも触れている

のだそう。正津勉も、北村太郎へのインタビューで

「やばいとしか思えない」、政治情勢を吟味しない「短見」だと評した。北村もこの意見に賛成し、「詩の言葉は無力に決まっているんだよ」と藤井の詩を一蹴した。

とのこと。
藤井さんも応戦(折口信夫が受けて立て、私ならやります、と夢枕に)。

「慎重に言葉を選んで、断じて『無力』という語は使用していない」と瀬尾らの誤読を指摘し、「このクソ詩のなかに、ある『力』を試した」と、詩の「予言」的な役割を強調した。他方で、詩人には現実に戦争を阻止することはできないのだから、無力を覚悟の上で、「なしうることは一言論人としてNOを言い続けようとすることだけ」として、自身の反戦の姿勢を明確化してもいる。

また、

「戦争に対して詩人がNOというのは、そのなかで詩が殺されるから」、つまり「詩は欲望の根源に向かう衝動をやめられない以上、戦争によって死ぬ。それがこわいなら、詩人は戦争へのNOを言い続けるしかない」

と強調。ほぼ、論争のしめくくりとして書かれた『湾岸戦争論』(1993年)では

長い冷戦の構造のなかで麻痺した感性の最終としてまともに湾岸戦争に対応できなかったわれわれを、詩は責め立てない。ひとり「日本」の知識人や文学者たちだけの憾みや嘆きではないはずだから、ぜんぜん責め立てられるべきことではない。ただし、いま必要なことは、居直りではなく、また忘れ去ることでもなく、九〇年代のためにする深い反省の時間の確保であろう。それをいましないのなら、責め立てられてもしかたなかろう。

--藤井貞和湾岸戦争論』p.76

と書いていき、結局のところ、決着のようなものはついていないとのこと。

藤井さんの詩や態度に対する当時の詩人たちのアレルギー反応は、僕の中では、例えば洋楽の世界で80年代の『ウィー・アー・ザ・ワールド』とか『ノー・ニュークス』などのエイド・ブームに対する硬派な評論家の反応(グリール・マーカスとか)を即座に回想させてくれました。

湾岸戦争の頃、僕は大学生で、その「ニンテンドー」といわれた戦争のはなしや夜間爆撃のCNNの映像を観ながら、他のほとんどの友人と同じように言葉を失っていました。
今は鬼籍にはいってしまったフランスの哲学者は、『湾岸戦争は起こらなかった』と本気で言い出して、その様が今思えば、本当に「ポストモダン」なるものの最期だったとは今思うことです。実際は、『湾岸戦争では終わらなかった』と言わなければならない9.11も通りすぎた2007年の12月に出版された藤井さんの『言葉と戦争』。

言葉と戦争

言葉と戦争

前半の長い同名の論考は、戦争の起源を探りながら、言葉がどう関わるか考察する上での難問をひとつひとつ吟味し、読者に共有を持ちかけます。後半は主に90年代以降に書かれた、冷戦後の常時戦争、「ナショナリズム」の土俵にのった言葉の担い手のポジショニングに関するテクストが収められていて、その中にはこんな文章がある。

 第一次湾岸戦争のときには、文学者たちが声明を出すことをはじめとして(『湾岸戦争論』参照)、言葉という行為、言葉による行為の有効性が必死になって問いかけられた。言葉をしごととすることの根拠(あるいは無根拠)が状況のなかで、まさにまっすぐに問い詰められる思いをだれもが持った。言葉を使いたいならば、日本国の参戦に抗議することが先決だった。このたびの第二次湾岸戦争では、もう取り立てて、あるいは大きく、言葉が話題になることもなかった(ように思う)。

--藤井貞和『言葉と戦争』2007年

冷戦の構造下に隠されたようになって、言語と民族との堅い関係が温存されていまに至る結果、政治的抗争やひいては戦争の根源にある、《民族》という現実へ、言語が荷担してしまうことがあたかも自明のように思われるために、心ある言語の担い手(詩人といおう)は、現実から逃避することによって、個人の言語行為を守りぬこうとします。

--『詩のするしごと』1996年

 もし、民俗学といえば帝国主義の手先のように思われているとしても、それがあるときに、とんでない力を発揮して、「日本民族などという、存在はないんだ」と「実証」してしまうなら、国粋的な、社会からはえらく反動的な、科学となって、すくなくとも民族主義的には戦争をする、理由がなくなってしまう。
--『日本語の領域』2005年

このラジカリズムは単に左翼的なものなのではなくどちらかというとアナキズムに親近するように思えます。小熊英二の『単一民族神話の起源』を持ち出してもいいかもしれません。


先日の講演会の藤井さんの講演の流れそのものは著書『言葉と戦争』の内容を掻い摘みつつなぞっていく形で展開しました。
当日とったメモによると、まず、現実主義者のいう「現実」が物語にすぎないことを踏まえながら、石川達三の1938年の『生きている兵隊』が日本国内で即発禁となったにも関わらず、中国では同年に翻訳された読まれていたことの驚き、またその驚きを中国の詩人に表明したところ、逆にアジアと日本をあくまで切り離して考える不自然さを指摘されたというエピソード。それから、冷戦を前提とした思想であったポストモダンがその役割を終えてから90年代を説明する思想がないこと。その空白に向けられた本としての『言葉と戦争』ということで、より詳細に入っていき、まず戦争の起源を、狩猟≠戦争と短絡せず、「平家物語」の語りをサンプルとして、死霊と鎮魂のコンテクストが、むしろ戦争の起源と直結している可能性(狩猟≠戦争≒死霊・鎮魂)。また、共同体内部で調達・解消されていた人身供犠のサイクルが、外化するモメントが戦争の起源とも考えられることを挙げておられました。そして『言葉と戦争』の思弁の礎になったものとして、文化人類学者エドマンド・リーチによる1977年の『未開社会とテロリズムを挙げ、1977年の段階で、21世紀のファースト・ディケイドの様相を射程において見通したその分析力をできることなら召喚したい、という概ねの進行だっと思います。

質疑応答では、やはり「湾岸戦争詩論争」の起点ともなった詩アメリカ政府は核兵器を使用する』(『飾粽』4月号)で、「有能な預言者が予言すると、予言された現実の方が恐れをなして逃げてゆく」という説話からくるロジックを、ぎりぎり最後の希望の梃子として、詩と呼ばれる言説を、ひとつの祈りとした、藤井さんのとった手法について、よくわからない、という意見などがきかれました。
また、『湾岸戦争論』に比べて『言葉と戦争』が、なにか切っ先の鈍いものを感じるという意味のことを参加者の若い詩人の方が感想として仰っていたことには、実は自分も感じていたことで、「論争」というアクティブな形である意味言葉の届け先が明確であり、意志も明確であった『湾岸戦争論』の後、資料にあるように、瀬尾育生氏が論争当時の自らの態度を振り返って「非政治性を主張しながら、政治的な論理と詩的な論理・文学とを『分ける』という発想をしていた」と発言したように(2004年)論争自体は収束した、しかし、問題点そのものは藤井さんの中で(もちろん世界の中で)継続されよりアジア的な視点をもって(いるように僕には思える)今回の『言葉の戦争』の思弁ということで、その点はあらためて腑に落ちることです。

湾岸戦争論争」は、人が語るほど、表層的なものではなかった筈で、瀬尾育生にしても、うすっぺらな言葉を書いてそのままのような人では、(よく知らないが)ないと思われます。
その後の瀬尾育生の試論集『新しい手の種族』asin:4906010725には、湾岸戦争詩を収録した藤井さんの詩集『大切なものを収める家』asin:4783704171についてこう書いてもいるのでした。

《詩でしかあらわしえない言葉》とはここで、日本語に内在するある特性を詩の形で最大限に開き切った日本語のことを意味している。詩集『大切なものを収める家』を読んで、あらためて藤井貞和の詩の言葉の不可解で奥深い力に触れた、と言っておかなければならない。そこではひとつの言語のなかであらゆるものが口を開いている。詩人は校門圧死の女子高生であり八十二歳の老人でありランボーふうの男娼であり霊であり物語でありおれでありワタシでありわたくしでありぼくである。それはまぎれもなく日本語の生理がもつ魔力と魅力とを知悉した言葉の使い手の手になるもの、藤井の言う古代的な「ウタ状態」のオルギーのようだ。

--『日本語が笑っている 藤井貞和『大切なものを収める家』』(1993年):瀬尾育生『新しい手の種族』(五柳書院・1996年)』p.216

としながらも、

八〇年代の日本のポストモダニズムが開放した日本語の怪物的な生理は、藤井貞和の才能と力によってその可能性を開ききった。詩人は日本語の生理に憑くことによって、苦しんでいる存在、強い否定的な情感を凝縮させている存在に、直接現在にひびく声で語らせるという話法を駆使してみせた。このとき彼は、どのような主体に何を語らせるかを選択する主体の位置にひとつの堅固な倫理的主体を棲みつかせた。
〜〜(中略)〜〜
だがしかし、その主体はどのような声で語るのだろう。空白を空白のままにしておくかわりに藤井貞和は空白の家に《大切なもの》を収めた。そのときその家から語りだすのははたして誰の声なのか。


--『日本語が笑っている 藤井貞和『大切なものを収める家』』(1993年):瀬尾育生『新しい手の種族』(五柳書院・1996年)』p.229

と、文脈からすれば明らかに日本人の心性として刻まれた天皇制へと矛先を新たにして、留保を置いているのかと。

アンユナイテッド・ネイションズ

アンユナイテッド・ネイションズ


   *  *  *  *  *


しかし、ここまで乱文を連ねてきてなんですが、自分の本音をいうと、今日は藤井貞和さんの作品をより享楽的に感受したい、というのが本心ではあり、だから2007年の締めくくりとして考えたいのは、むしろ講演会の内容よりも、その後の詩の朗読で受けた感銘について、なのです。


自分として、藤井貞和という詩人を知ったきっかけを思い出す手間はいらず、それは回想を起動するほど古びていない、ちょうど一年前のことだからです。ちゃんと記録もこのブログに残っています(こういう時、ほんと便利なツールだなあ、ブログって)。
極私のオリジンである詩人・鈴木志郎康さんの映画『風を追って』を観る機会があった、その時です。
『風を追って』は、決してそのものを撮ることができない「風」を撮ろうとする映画です。
風の中でざわざわする草木や花、風にたわみいきもののような動きをする取り壊し中の隣家に張られた作業用のブルーシート。地下鉄の構内。荒川の河川敷。指笛(実際は鳥笛)、陽光の中でゆれる洗濯物。そういった個人の視線から軌跡を追うことで柔らかに「風」を捉えようとしていたその映画の中には、鈴木志郎康さんの知り合いによる二つの個人映画がなくてはならない動機付けとして織り込まれて入れ子細工になっていました。
ひとつは言語学者西江雅之氏のアフリカ旅行の映像で、もう一つが詩人・藤井貞和氏の撮った『風』という超短編アニメ(?)だったわけです。『風』は、こんな字幕で始まっていました。

突然、風が失われた。

風を知らない子が増えてきた。

気象庁は閉鎖され、

風速計は壊された。

辞書から「風」文字は抹消された。

違和感をもよおすような凝ったこと言い回しはありません。単語もいたって簡単。しかし確実に世界を変質させるような機微を持った語りでした。こんな「声」をすんなりと書けるひとに興味を持ったのでした。
しかし、そのときはそのままにしていました。
しばらくして、手元のCDを整理しているときに仰天しました。
中古CD店で見つけた時に買っておりた高橋悠治の『泥の海』という作品集(2000年にライブ録音)が、まさしく藤井貞和さんの詩を元にしたオペラという仕掛けになっていました。

リアルタイム10 「寝物語」「泥の海」

リアルタイム10 「寝物語」「泥の海」

『寝物語』は同名の詩作品(1984年の『ピューリファイ!』に収録、写真ムラサキイロ)を箏とヴォーカルでリアライゼーションしたもの。寝たきりの男の子の夢うつつな内言の「かたち・かたり」を借りた詩の言葉のつらなり。一瞬不意にそこだけ暴力的な空気が切り込んでくる「金属バット」(実際は「キンゾクバッ」)や「はぶらし・まぶらし・やぶらし・わぶらし」、「さりません・しりません・すりません・せりません・そりません」といった言葉遊びも推力としながら、次第に柔らかな乳白色の衰弱に沈んでいくなかで、その語り手の幽かな存在がリアルな言語体験として感じられます。
「上演」のされ方もかなり意表をついた形のようで、ライナーの高橋悠治によれば、

『寝物語』は、床に仰向けになった歌手と箏奏者のために書かれた。歌手は、登場人物にむすびついたメロディーの変化以外は、ほとんど一音上で語る。箏はいくつかの型にもとづいて、自由に演奏する。照明は床に置かれたランプだけ。これは、フィリピンのバワラン島の叙事詩や、日本古代のコトによる託宣にヒントを得た。

--高橋悠治『泥の海』ライナーノート

スイジャクオペラとされた『泥の海』は1990年の『ピューリファイ、ピューリファイ!』(写真ミドリイロ)に収録の「スイジャク」「蛭子」「泥の海」「道具衆」「島」「時の巫女」「歌姫」ジープ」「五穀」といった作品を、詩人本人の朗読と男女ソロと合唱・若干の打楽器によってオペラ化したもの。
同じくライナーの高橋悠治の解説によれば、

『泥の海』は、合唱のための舞台作品であり、ヨーロッパのオペラではなく、日本の村々でまだ演じられている神楽をモデルとしている。男女のソロ歌手は、2人のプロンプターに操られる人形としてあつかわれる。男女に分かれた合唱は床に座って竹筒を打ち、吹き鳴らし、時に中央の演技空間に進み出る。2人の打楽器奏者が、当り鉦、榊の枝、桶、梓弓、すりざさら、神楽鈴を打つ。詩人自身は司祭役として、神事の開始と終了の祝詞をよむ。

--高橋悠治『泥の海』ライナーノート

「式一番、式二番」と各曲の最初にナレーションも入り、通常のオペラとは全く異なった「こと」(言/事)と「おと」の「かたり」の空間となっていて、詩集での印刷され固定された文章がどうしても自分のモノローグとしても重なって静的な音像として登録されるのに比べて、複数(しかも多性)の「声」に振り分けられて演劇的で動的な構成をされたスイジャクオペラは勇壮でさえあって、一瞬アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンかと思う瞬間もあったりもするのです。
ただし、この重厚さからは逃れたいとも思う。
もっといえば、藤井貞和の詩は、もっと素朴な「声」のあり方を必要としているんじゃないのか、というような気持ち。

   *  *  *  *  *

このスイジャクオペラの音源で、はじめて詩人の肉声を耳にしたにも関わらず、古代〜現代をない交ぜにして機能不全に陥らない言葉のイメージが気になりはしたものの、詩人の朗読自体はこのときは気にならない程度の印象でした。物腰の柔らかそうな口調だったな、という程度の。

その後、難波の本屋で『ピューリファイ、ピューリファイ!』の現代詩の詩集としては意表をつくような鮮やかな若草色の装丁を見つけました。『泥の海』で聴けた詩が収録されていることがわかったので即手に入れました。特に、『蛭子』という詩が、今は気になります。

あいつは物語を侮蔑する。
でも蛭子は生まれる、
ちいさな捨てられた物語から。
つのぐむ芽のように、
うぶ声を立てて。
蛭子は生まれる、
うぶ声を立てて。
ここに書いてください、
その物語のなまえを。

(中略、したくないけども、引用者)

ここに書いてください。
あのナイフで、
はっきりと書いてください。
蛭子を流木のように流したあの、
悪い人、男たらしで、
同時に女たらしで、
失恋を逸らした指にくらげの輪が光る、
あの悪い人、
悪い人の名を。


蛭子はもう帰らない。
帰らない。
荒野の学校へ、
登校拒否をする。
貯蓄された問題児のかずの一人になる。
帰らない。


蛭子はもう、
悪い人のこどもではない。


--「蛭子」:藤井貞和『ピューリファイ、ピューリファイ!』(書肆山田)1990年

言うまでもないかと思われますが、以下は古事記の上つ巻・伊邪那岐命伊邪那美命から参考までに。

然れどもくみどに興して埋める子は、水蛭子(*注)。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき。

*ひるのような骨無し子の意か。

--『古事記』倉野憲司校注 p.20 岩波文庫

藤井貞和の『蛭子』は、古事記ヒルコ神(恵比寿)のエピソードから誰しもが受ける原罪のような感覚を下敷きにしながら、そこに憧憬するのに留まらず、気が付けば、その呪詛とも糾弾ともつかない言葉が、当然のように現代に振り向けられて、生きられている。
それも、語り直されるという風でもなくて、今はじめて蛭子の話が語られているかのように。
立ち上がることができない筈のヒルコに、しかし、後半からは決別のイメージが、虐待された子供の全てのそれらとモアレのように重なりながらどこか溜飲を下げさせてくれるような感想を、僕は持っています。


それから一年は、日々の生活と他の読書の合間を縫って藤井貞和さんの著書を、見つけては読み見つけては読みすることが、いつの間にか続いていました(気がつけば、年が変わります)。
源氏物語入門』は、僕のような源氏物語本編を読まないものでも「予言は実現するか」、「主題をたぐりよせる」「物語の時間を決める」といった章立ての切り込みの入れ方に思わずひきつけられ、滞らずに読みぬけてしまったし、『物語の起源』における「フルコト」「モノ」「カタリ」は目から鱗でした。

源氏物語入門 (講談社学術文庫 (1211))

源氏物語入門 (講談社学術文庫 (1211))

『物語理論講義』は、ロラン・バルトの言う「作者の死」を向こうに回して、

物語化ということは(それが四人称的表現にほかならないが)、けっして一人称自体を排除するシステムではない、ということである。ある意味から言うと、より一人称に近づくこと、一人称そのものの生を生き生きと取り返すことでなければならない。普遍において個別が生きられることの理由をそこにもとめるのだ。われわれが虚構という文学を人生において所有することの最深の欲求もそこに根ざしていると考えられる。

--藤井貞和:『物語理論講義』p.160

として、「語り手」を生き返らせます。

物語理論講義 (Liberal arts)

物語理論講義 (Liberal arts)

多分そのころに『水牛通信』のWEBサイトhttp://www.suigyu.com/で、藤井貞和さん自身による詩の朗読を収めたCD『パンダ来るな』があること知った筈なのですが、なかなか手に入れようとまでは思わなかった。
しかし、今月(2007年12月)立命館大学で講演会があり、さらに朗読会もあることを知って、やっと取り寄せて聴いてみました(なんと、ここまでは前置きだったのです)。

CDに収録されているのは、「パンダ来るな」「大切なものを収める家」「ウォー」「地名は地面へ帰ることをおもえ」「カナリヤのうた」「表現の自由詩--苦闘点」「寝物語」「ビラヴド」「そら飛びまりも」「ラブホテルの大家族」「あけがたには」「つきねぷと言ってみた」「母韻」といった重要かつ、音読されてこそ、その面白さが伝わる作品がほぼ網羅的に収められているといっていいのかも。

このあいだの講演会の朗読でもあらためて確認することができたのですが、藤井貞和さんの詩を詠みあげる声はとにかくやさしい。特に、こどもへの視線というか「子供」「つぎねぷと言ってみた」といった詩が詠まれるときのこどもに語りかけるような、語りかけながら、自分のなかのこどもの領分も呼びさましていくような感じ。
これは、印刷された詩集を読むだけではまったく伝わってこないことでした。

つぎねぷ
ぷとつぎねぷトいってみる
まくらコトばがあるト
ねてみたくなる

--「つぎねぷと言ってみた」:藤井貞和『ピューリファイ!』(書肆山田)1984年

ここにきて、やっと藤井貞和さんの詩のどれもが固有の「こえ」をもっていて、それらは不可分、というのは言いすぎとしても、詩にとっても、紙の上で無言の文字の連なりとしてこねくり回されることだけが本分なのではなく、肉声で語られる-詠まれる-音読されることが、前提としても創作されいるのだ、という極めて自然なことに気付いたのでした。

舌のまだよくまわらない子供が
「やきぼそ」といったので
おれは
やきそばのかわりに
ほそい「やきぼそ」をいためて食うたさ

--「子供」:藤井貞和『ピューリファイ!』(書肆山田)1984年

藤井さんの朗読は、もちろんどもったり、言い淀んだりしたりもするのだけれど、イントネーションに、こう言って良ければ、「小文字的」(コモジと言いたいのであって、小ブンガクではない)な豊かさがたくさんあって、それらが柔らかくせめぎ合っていて、それがどうも捨て置けない印象をもたらしいるのだと思います。この感触は、生で朗読を聴いた後、『パンダ来るな』のCDを今聴きながら、でも全く変わるところがない。
この声を通じて、詩集に印刷されている詩にも音の肉付けがされて読めるようになってきました。

詩を生き直させる(と書いてしまうと、詩は死んでいたのか?という突っ込みが予想されますが)、詠む「声」の、その柔らかさこそが、新しく聴くひとに衝撃を与えて止まない筈、と書いたら、自分もまた気恥ずかしいひとのひとりであり、「いまだけでいいから すぐれた」気恥ずかしい人「でありたいと思わずにはいられ」*1ないのでした。

詩はどこにあるのか、ではない。詩は追放されてあるとともに、追放されてあるものの場所だ。パンダはなぜ可愛いのか(という学術論文を発表したひとがいる)。
パンダが詩にならないのはなぜだろう。ちがう、滅ぶパンダのなかにパンダはいるのだ。ちがう、滅ぶパンダが詩のなかにいるのだ。

パンダ来るなパ
ンダ来るなパン
ダ来るなパンダ
来るなパンダ来
るなパンダ来る
なパンダ来るな

--「パンダ来るな」:藤井貞和『ラブホテルの大家族』(書肆山田)1981年

   *  *  *  *  *


最後に思い出したこと。
朗読会で、藤井さんは『神の子犬』を詠まれたとき、ご自分でお書きになった「襤褸」という言葉に躊躇って、「これ・・・ぼろかな?」と仰ったとき、会場に笑いが起こりました。と、書いてもそれは、嘲笑のように冷たく余所余所しいものとは異なっていて、詩人が絶対的な創造者≒提供者なのではなくて、その「声」は聴く人の行為からも提供されるという認識を、詩人の側からの「つまづき」をもって、その場の両者が分有する、そういった暖かいものだったのでした。

*1:藤井貞和さんの『アメリカ政府は核兵器を使用する』の最期の部分から、声をお借りしました