手話シンポジウムにいってみた。@みんぱく (と、「かえる目」とサンフォーナ(ハーディガーディ))
仕事で携わったイベントのDVD作成に、土曜日でやっと目処がついたので、日曜日、万博公園の「みんぱく」で開催された『手話言語学と音声言語学に関する国際シンポジウム(SSLL2)「言語の語順と文構造」』というシンポジウムに、関係者でもないのにただの視聴者として参加してきた。
手話に関して何か人よりも詳しいわけでもなく、ただ、混み合った地下鉄で隣で論争しているらしき人たちがあまりに音声的に静かなので気づいたら聾者の人たちで、その両手によるサインだけでなく表情もすべて使い切って行っているらしい「手話」というコミュニケーションが、やたらまっとうに、自分には思えたという、ただそれだけの理由で、10年くらい手話のことが気になってきた、それだけの理由しか自分にはないのですが、その間に、ニコラ・フィリベール のドキュメンタリー佳作『音のない世界で』を見て静かで深い感銘を受けたり、オリバー・サックスの『手話の世界へ 』や遺伝的に聾者が多かったというマーサズヴィンヤード島の本(『みんなが手話で話した島』)を読んだり、偶然知り合った手話で話せる女の子にかろうじて手話での自己紹介のやり方だけ教えてもらったりしたりしてきてはいたのだった。
ま、万博公園も久しぶりだったので。
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で、このイベントは、どうも昨年もあったみたいだが、自分は知らなかった。
加えて、シンポジウムなるものに参加したのも初めてで、誰でも無資格かつ無料で、興味ある分野の専門家の第一線の発表をきけるというのは、さすが「みんぱく」だなあと思った。自分と同じような立ち位置のひとがどれだけいるのかはわかりませんが。
日曜日以前に数日、ワークショップがあって、シンポジウムはそのまとめ、みたいなものだったのかもしれないが、自分にはそれで十分だった。シンポジウムは以下のようなプログラムになっていた。
午前
「手話言語の語順」スーザン・フィッシャー(ニューヨーク市立大学大学院センター/国立民族学博物館)
「手話言語の語順―問題と課題」ヨーク・スハウト(アムステルダム大学)
「音声言語研究からみたコメント―音声言語の語順」プラシャント・パルデシ(国立国語研究所)
「ロシア手話とオランダ手話における情報構造の線状性と非線状性」ヴァディム・キンメルマン(アムステルダム大学)
「インドネシアの手話言語における否定と完結に関する統語論」ニック・パルフレイマン(セントラル・ランカシャー大学)【(ヨーロッパ)国際手話】
午後
コメント:音声言語 ドーリス・ペイン(オレゴン大学)
「会話における文と順番:手話言語と音声言語の類似性と相違性の観点から」坊農真弓(国立情報学研究所)
「言語と文化のインターフェイス:カクチケル語(グアテマラ、マヤ系言語)における目の動きと文や身ぶりの生成の相関性」酒井弘(広島大学)
「一般に対するコメント」(ジェスチャー研究の視点から)細馬宏通(滋賀県立大学)
パネルディスカッション 発表者全員 (←途中退席につき未聴講)
シンポジウムとして当然に、パネラーはみんな英語で話した。ただ一人、ニック・パルフレイマン氏は手話で話して、フィールドワーカーとしての矜持をみせていた。イベントの性格上、すべての発表にJSL、 ASL、とあとひとつが壇上で同時通訳されていた。自分はところどころ日本語の通訳を聴いていた。聴衆の半分は聾者のようだった。
二番目のヨーク・スハウト氏はイヌイット手話をフィールドにした発表だったが、ここで興味深かったのは、共同体の聾者の子供が、みな将来を考えて最初からASLを取得していき、固有の手話言語の存続が、どちらかというと、聾者の周りの二重言語者(音声言語のネイティブで、手話を話す人)によって維持される傾向がある、という点だった。固有の手話言語が、本来想定された(という表現こそが微妙だが)話者によって使用されない、という事象はたしかに言語学的・民俗学的には損失としかいいようのないことかもしれないが、いってみれば他者の必要性によって周縁的に護られていくというのが(つまり、「環状島」的に、ともいえる)、なぜか自分にはとても「言語的」なことだと感じられた。
門外漢の自分からすると、午前の部の後半に発表した、「ロシア手話とオランダ手話における情報構造の線状性と非線状性」ヴァディム・キンメルマン氏と「インドネシアの手話言語における否定と完結に関する統語論」ニック・パルフレイマン氏が、具体的な事例に収斂した話で、一番興味をそそられた。
このシンポジウムは手話と音声言語の共通点と差異から初めて新しい言語観に到達するというコンセプトだったので、キンメルマン氏の線形・非線形のメタな切り口は先ずわかりやすかった。パルフレイマン氏は、インドネシアのSoloとMakassarという二つの都市に題材を絞って、手話言語における「否定形」と「完了形」を題材にして「語順」の問題を豊富な映像素材で炙り出していた。
以下は午前・午後のプログラムを通して頭のなかにメモッた事項。
手話言語の語順が、音声言語のそれに比べて非線形であり、マルチモーダルであり、ダブリング(反復・再帰)など多数のマーキングを含むものである(なぜ非線形的なのかというと、音声言語にある時間軸的な縛りが、両手のサインと表情、身体の位置なども手段としてもつ手話言語においては若干緩く、同じ時間のテーブルにのせることができる素材とチャンネルが多い、ということになる)。手指だけに絞って考えてみても、右手と左手のふたつのチャンネルがある、というのは、考えてみれば凄いことである。
両者に共通して、語順の生成には視線の移動が絡む(酒井弘)。
図柄をみせて物語らせる実験から統計される視線の移動軌跡からいっても、SOV型の言語が多いこと(日本語もSOV型である)は裏付けられる。
ここまでが朝からのプレゼンで、素人にもわかった内容だった。しかし、このままでは自分としてはどうも「それで?」という感じが拭えなかった。
それを拭い去ってくれたのは最後に15分の短いコメントを発した、滋賀県立大学のジェスチャー研究の細馬宏通氏だった。そう、「おっさんの体にユーミンが宿る」歌ものユニット『かえる目』の、あの「かえるさん」こと細馬宏道さんである。ちなみに、ライブではなくてアカデミックな場での(つまり本業での)細馬さんを拝見するのははじめての体験だった。
まず、細馬さんがサンプルとして流した短い映像では、オリエンテーリングの説明をしている男女のやりとりが映っていたのだが、「スタンプを押すの?」と訊ねる女の子のスタンプを押すおおぶりなジェスチャーが、音声による男の子の「ちょっと違うんだけど」という発話があるまで続くところは、いかに無意識に僕らがマルチモーダルに会話しているかの、一つの証拠だった。
細馬さんは「投射」というひとつのキーワードを付け加えることで、この日のパネラー全員の発表をさらに高い次元に押し上げていた。
語順、というのは、手話、音声問わず勿論ある、しかし、それに加えて、会話がなされるコンテクストでは、聴き手による「投射」が必ず為される。話しの結論は、話し手に対する聴き手の情報量、感情移入の度合いによって、全ての文が完成されない時点で、殆ど了解される。
場合によっては、Sと、Oの半分位で了解が成り立つ。その時成立して機能しているのは、勿論、マルチモーダルな発話行為なのだといえる。語順の問題は、多分にテクストに落とし込めることへの学究的な安堵がどこかにあるのではないか?
ここまで細馬さんが言ったわけではないが、細馬さんの「投射」という事象の提言でここまでのことを考えさせられたのは確か。
かえる目『街の名は渋谷』(2分30秒後にちゃんと演奏しているメンバーが映るのでご安心を)
ちなみに「投射」ときいて、自分がまず高柳昌行の『集団投射』を想起してしまったのはいうまでもないことです(どうでもいい!)。
*
みんぱくの物販で購入したCD。
『サンフォーナ、その歴史的録音1927-1949/ファウスティーノ・サンタリセス』(ビーンズ・レコード)
ジャケ写を見ればわかるかもしれないが、サンフォーナというのは「ハーディガーディ」のことだ。このCDは、スペイン・ガリシア地方の伝統的な歌をハーディガーディにのせて歌った名手サンタリセスの唯一にして全ての音源らしい。
昨年から「ハーディガーディ」の音を追い求めている感じがする自分だが、このCDもまた、新しい世界を聴かせてくれるものになりました。録音的には、どちらかというとサンタリセスの堂々たる歌唱にフォーカスされているように思える。だから、ハーディガーディのドローン的な側面のみを求める向きには少し肩透かしであることもありえる。ハーディガーディの音はちょっと小さめにサンタリセスの歌唱の背後で響いているので、サンタリセスが最初に手にとった楽器だというバグパイプの音のように聴こえなくもない。
実際、音楽が鳴っている場所では、もっと歌唱とハーディガーディの音が同じレンジで溶け合っていたのではないかな、あえていうと、そういう録音で聴きたかったなという個人的な思いもあるにはあるが、それは置いておいて、ここまで歌に添い遂げるハーディガーディを聴けることは、もしかすると、この録音を除いてほとんど皆無なのではないかと。
楽しさと悲しみが表裏一体、というといかにもありきたりな表現だが、そうとしかいえない感情を惹起させる確固とした音楽がここに収められている。