みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

極私的隙間問題とすきすきスウィッチ『忘れてもいいよ』


 小さな頃は、もっと隙間があったように思う。




 いや、隙間同士がつながっているのが世界だと理解していた。

 (隙間というものを輪郭し定義するところの、隙間ではない何かが詰まったことになっている空間。というものも、じつは隙間側からすれば「すきま」である、というへ理屈への撞着というものがあるし。)


 つまり人間の領域よりも隙間のほうがおおい、というのが当然の認識だった。


 家と地面のあいだにもたくさんの隙間があって、そこには蜘蛛や百足やネズミや、場合によってはムジナやわけのわからないものがたぶん潜んでいるのであって そこでは循環が共棲して関係していた(ようにも)。

 大人とよばれるものになんとかなってみると、まず第一に、空と自分の頭との間の隙間は確実に五十センチは狭まった。

 ハイウェイのようにすり抜け疾走していた小さな路地も雑で粗くなった視界には入らなくなるか、あるいは本当に無くなってしまった。


 いま、それらの隙間を追いやってしまって、僕は身体も心も、風邪をひきやすくなってしまった(運動不足、ということもある)。


 隙間はただ暗いのではなくて、おだやかな光を孕んでいる。


 何かが入り込む隙間。
 入り込めるように隙間をとっておかなくては。



 鈴木志郎康さんの詩に隙間問題、という詩がある。いちばん新しい詩集『声の生地』に収められていて、前橋文学賞受賞時にも宣伝資料にとりあげられたり、『攻勢の姿勢』に付録の吉増剛造との対談でも、吉増剛造が触れていたように思う(いま『攻勢の姿勢』がおそらく積んである書籍の下のほうにあるようであり確認することができない)。ネット上でもこの詩に対して、その独特の風が吹くような言葉のありかたが話題になった作品で、鈴木志郎康さんの詩の話し言葉ような肌理とふわりと浮かんで次の瞬間にあらぬ方角へ飛んでいくイメージが的確な長さのなかで詰まっていると思う。
 最近この「隙間問題」のことを思い出して、『声の生地』を読み返してから、詩のなかの志郎康さん(なのだろうか?)のように「隙間」が気になりだしてしまった。しかし、どうやら僕の隙間問題は志郎康さんほど軽やかにはいかないみたいだ。


 去年ディスクユニオンから発売が予告されてすぐに注文したのだけれどそのまま忘れていました。
 それが今週のはじめに届いて、なにか突然の贈り物を受け取るときがきた(C忌野清志郎)ような気分。で、そのプレゼントの中身が、素晴らしすぎて。

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 僕が「すきすきスウィッチ」というバンドと「す」文字のジャケットのレコード(ソノシート・セット)があることを知ったのは、地引雄一さんの「ストリートキングダム」を読んだとき(中学生)、でした。でも、そのとき自分がまわれる大阪のどんなレコード屋にもその「す」のレコード『忘れてもいいよ』は置いていなかった。そのころ、レコード店の自主製作盤コーナーにはナゴムやトランスの盤はあっても、テレグラフの盤があったかというとあまり記憶に残っていない。1990年にテレグラフ関係の諸アルバムが徳間ジャパンのWAXから再発された。余談ですが、このWAXレーベルのおかげで、数年遅れたおかげでまったく出会えなかった78〜85年くらいまでのバンドを小遣いと相談しながら聴けるようになったのですが、その再発カタログにこのアルバムも入っていたはずなのに、そのときはなぜか入手しなかった(すぐに興味がNYジャンク・シーンに向かったためか)。そのおかげで、このつど、ここに至って初めて『忘れてもいいよ』を聴く、という幸せにつながったわけです。
 上記の日本のインディーズシーンの黎明を描いた唯一といってもいい著作のなかで、地引雄一さんは「すきすきスウィッチ」を「くじら」につながるインディーズシーンの「うた」の系譜として書いておられたのですが、今読み返してみて、何と的確な表現なのかと思います。

ストリート・キングダム―東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン(DVD付)

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 佐藤幸雄を中心とした、すきすきスウィッチは、79年の末から活動を始めており、“みんなの歌”のような覚えやすいメロディーとカラフルなサウンドで、当時としては他に類をみないユニークなバンドだった。
 その演奏スタイルは何度も変わり、テレグラフと出会った頃にはギターを弾きながら歌う佐藤幸雄とドラムの鈴木惣一郎の二人だけで、即興性の強い自在な演奏と伸びのある力強い歌声によって、心から楽しめるステージを展開していた。何かを批判するのではなく「これだよ」とポジティブなものを示したいと語る佐藤君だが、その歌には聞く者を元気づける内側からのパワーが込められている。
――地引雄一『ストリート・キングダム』p.251-252

 たしかに、NHKの「みんなの歌」に入れてもよさそうな歌がぎっしりではある。しかし、本来全てのバンドは「みんなの歌」を目指すべきなのではないのか、という感慨さえ湧いてくる。そこを目指す感性を持ちえないことが今日のバンドの不幸の源のひとつなのである。ふちがみとふなとは目指せる。

 それがパンクやニュー・ウェイブを経験し、その感性を体得している点で、形は似ていてもフォークやニュー・ミュージックなどとは明確に異なったものといえる。その特質は斬新なリズム感や硬質な乾いた叙情性などに表れているが、これまでに述べた新しい時代の都市生活者の音楽としてのストリート・ミュージックの特性をそのまま備えているといっていい。
――地引雄一『ストリート・キングダム』p.252

 僕はここを読み落としており、なぜだか「すきすきスウィッチ」の「すきすき」は単なる「好き好き」でしかなく、バンドブームのはしりのような素直な歌を歌ったバンド、という思い込みをしていました。
 しかし、今回の完全復刻盤の佐藤幸雄さんのライナーから、バンド名の「すきすき」が「好き好き」であるだけではなく、「隙き隙き」であり、「透き透き」でもあったし、「空き空き」でもあり、「数寄数寄」でもあり、「漉き」でも「梳き」でも「犂」でも「鋤」でもあったのだ/あり得るのだ、と知った。そして、まったくの蛇足ですが、隙間(すきま)をバンド名にすると、どうもスイッチを付け加えたくなるもののようですが、某バンドの「スイッチ」よりも「スィッチ」である分、バンド名のセンスだけでも佐藤幸雄さんのほうが典雅であった、といえる。

 この二枚のディスクに収められた音源を一枚目から順番に聴いていく充実感に匹敵するのは、たぶん、突然段ボールの『アイ・ラヴ・ラヴ』(「私は何人か」は突段の「星の数ほど自分が」への返歌とのこと)くらいだろう。

 ぼくあなたにとても似てきたよ / だから このままじゃ ともだおれ ともだおれ

 『むだ』のように、いかにも優しげで実直な歌われように反して、抜き差しならない歌詞、それをまた実直に歌っているのだという、やっぱり真っ直ぐであるあり様にも動かされてしまうし、ポストパンクな状況を日本で真正面から受け止めたバンドの、足りなさ(人数的)を武器にする定型の無さ(「スイッチ」という曲ではドラマーにミルフォード・グレイヴス!!!を聴かせた、と書いてあります)に、こんなバンドがあったのかと臆面もなく衝撃を受けてしまう。

 きみのおみやげはなにかな / わからないことがないことがなかった

 『おみやげ』は、極小かつ基本的な贈与を歌っている。

 テクノポップや、フライングリザーズ、レジデンツなど、ポストパンク的な音楽への自由さの坩堝でもあるし、そこに佐藤幸雄さんの歌が一本筋道をつけていることがやはりあって、いやしかしポストパンクなんていう言葉はこの際どうでもいいのである。
 野暮を承知で書くならば、歌にしても音楽にしても、良質のミニマリズムを経由していて、その効果は、ろ過ではなく圧縮になっているのではないかと思う。
 こんなバンドがあったのなら、もっと早くに聴いておけば良かった、などとは思わない。ある時代に、おもいっきり音楽した人たちがいたということを最大限に伝えてくれるこの盤を今聴けることに、そのまま感謝したい。

 聴いたことがある人、もっと少ない見たことがある人、そこに残っている印象というものがあるのだとすると、そこから呼び起こされるものがあるのだとすると、それはバンドそのものにではなく、聴いたあなたの中にそれがあったということなのだ。
――ライナーノーツより

 これほどまでに謙虚で本当のことを書いていいのだろうか、と感じてしまうこの言葉に続き、文章全体を締めくくる十数行は、胸をうつ。「忘れてもいいよ」なんて言われたって「忘れられるわけないよ」。このバンドに必要な「否定」はこのひとつだけ、だと思う。
 こんなに書いてしまってはいけない。
 音楽との隙間が大事なのだ。隙間がないと息が詰まってしまう。
 だから、隙間が問題。