みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

改装した紀伊国屋阪急梅田店への回想と、役立たずの彼方に非常階段。

nomrakenta2010-09-19


 2・3日台湾にゆくので、旅行準備の買い物にと思って梅田に出ると、紀伊国屋の店舗改装が完了していた。
 阪急梅田駅の中央改札への階段を挟んで、梅田の紀伊国屋には左右に出入口があるけれども、改装前(と、いうか私が紀伊国屋を認識しだしてからずっとの永きにわたって)左右の出入口、どちらでもよいが入店すると、入口付近の雑誌新刊売り場から入り込むと、おおきな店内はグリッドで区切られていて、別の書棚グリッドへ移るのにカクカクとした動きをせねばならないのでわりと不便といえば不便だった。とはいえ、長年その構成であったために、梅田紀伊国屋とはそういった本屋なのだと認識して特段不平はなかったのではあります。
 しかし、今回の改装では、この左右の入口それぞれから大きな通路が互いに店内を斜めにすうっと伸びて、つまり通路が広い店内において大きな二等辺三角形を描いているのであって、客は以前のグリッドごとの/ごとへの、パックマン的な動きを強いられることはなく、ただこの二等辺三角形を悠々と店内で歩行すれば、全体の書棚のジャンル配分を把握できるという仕掛けになっているのだった。これはなかなかな発想だ。
 思えば、この紀伊国屋、いち立読者(ときに購買者)としては、周囲に着実に新しい大型書店が出店していくというのに、店内の構成はそれほど機敏に対応してこなかったような印象をもっていたのであり、立地への甘えなのか、それとも大型書店ゆえの身動きのとれなさなのか、それは自分にはわからなかったのであるが。
 しかし、このような改装は真面目なはなし、本を見て回ること自体をもういちど楽しくさせてくれる(運動にもなるしな)。店員さんによる企画棚も随分増えたみたいだし、これはこれで今後が楽しみな方向ではある。

 そういえば、20年以上も前、ここの紀伊国屋の奥にはまだレコードCD売り場があった。そのインディー棚で、自分ははじめて「たま」という変な名前のバンドのLPを見つけたのだが、そのときは「しおしお」というバンドの「たま」というアルバムだと思っていた。「さかな」の名作『マッチを擦る』や『水』、『夏』を購入したのも紀伊国屋だし、T・レックスのアナログ盤ジャケットを眺めたり、オーネット・コールマンの『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』をどきどきしながらレジに持っていったのも、紀伊国屋の音楽コーナーだったなあ。
平凡極まりないが、時代は変わる(あらゆる過剰や逸脱は、ひとつの平凡を目指している、のか)。

京都の古書肆「砂の書」さんから通販で届いた『役立たずの彼方に|大里俊晴に捧ぐ』を読み終わる。
http://d.hatena.ne.jp/officeosato/
読み終わる、といっても2009年11月に亡くなった元「ガセネタ」ベーシストであり音楽学者・大里俊晴さんの生前を知る錚々たる面子の方々が追悼文を寄せた冊子なので、最初から最後まで順に読みとおす、という書物でもないはずなのですが、ジム・オルークの題字から、巻頭折込になった吉増剛造の詩(草稿の写真)、最初の青山真治氏の文章から、ずっとじっくり読んでしまう。ひとりの人間の不在の受けとめかたというのは執筆者個人によって異なるし、また通底しているものもあるように思える。その通底しているなにかが、もしかしたら大里俊晴というひとの感触なのかもしれない。多くのひとが触れ想起する、新宿の元ヤクザの部屋を、膨大なレコード、CDや本のアーカイヴにしてしまったというお住まいは、これを読むと、たぶんみんないちど見てみたかったと思うにちがいない。


しかし、ジム・オルーク達筆。吉増剛造さんの生原稿と張り合ってるよ!

エクスペリメンタル・ミュージック―実験音楽ディスクガイド

エクスペリメンタル・ミュージック―実験音楽ディスクガイド

はじめて知ったのは、NTT出版から出ていたフィリップ・ロベール『エクスペリメンタル・ミュージック―実験音楽ディスクガイド』は、もともと大里俊晴さんが翻訳する話だったらしいこと。

Sooner or Later

Sooner or Later

ガセネタ。はじめて聴いたときどう感じたのか、もう忘れてしまっている。4曲しかないんか、と思ったろうし、タイトルが変やなあとも「あぶらだこ」みたいな感じやなあとか思った筈だ。今聴くと、「父ちゃんのポー」のベースラインかっこいい。

非常階段 A STORY OF THE KING OF NOISE

非常階段 A STORY OF THE KING OF NOISE

非常階段の思い出というのは恐縮ですがほとんどない。上のほうの紀伊国屋に音楽コーナーがあったとき、もちろん非常階段の名前は知っていたが、アルケミーレコードはおそらく発足した当初であって(そういうことを本書を読みながら考えながら愉しかった)、花電車やアウシュヴィッツのLPは、紀伊国屋には置いてなかったような気がして、難波のプランタンにはいっていた輸入盤屋の日本インディーコーナーでそれらのジャケットを拝見していた。そのあたりで自分はたしかに非常階段の「キング・オブ・ノイズ」の赤ちゃんジャケを見ており、ナイスなジャケットセンスに「むうう!」と唸りはしたけれどそのまま棚に戻した記憶がある。ジーザス&メリーチェインの12インチシングルなんぞを買ってお金の余裕も、また「ノイズ」という恐ろしげな(非?)音楽に手を出す勇気も持ちあわせていなかったのだ(すでに写真家・っ地引雄一氏の著作「ストリートキングダム」で本書の表紙にも使用されているパフォーマンスの写真を見ており、この尋常でない形相にびびっていた)。本書を読むと、このアルバムジャケの選択に以下のような思いがあったことが確認できて嬉しい。

また、ジャケットはその当時ノイズやインダストリアル系の音楽では定番となっていたエログロなものを避け、友人の子供の写真を大きく使用した。一見かわいい女の子の顔、しかしそこに何か意味があるのではないかと見た人が感じてくれるようなものにしたかったのだ。
――『非常階段 A Story of The King of The Noise』p.167

そのとおり感じてしまった人間のひとりでした僕は(買わなかったけれど)。タイトルは林直人氏によるランナウェイズの「クイーン・オブ・ノイズ」のもじりということであったようだけれども、本書の副題(A Story of The King of The Noise)が堂々と反論する余地もないものになっていることから、余裕でもじりから本家になっているだろう。
上のような事情で、非常階段の音楽についてどうこう書けるわけではないので、早々とこの辺りで退却するほうが賢明なのではありますが、本文や附録のDVDを
見てあらためて思ったのは、「非常階段」がインテリ指向であったことは一度もなく、それこそ観客目がけて汚物を撒き散らしていた最初期から、パワフルなライブバンドとしてあったのだということでした。それがわかっただけでも自分にとって本書は意味があった。

 なぜそういう現象が起きたのかについてはいろいろな仮説が考えられるだろうが、ひとつには日本のリスナーがノイズを、ロックやパンク、あるいはテクノなどと同じように、自分たちが普段ライブハウスやクラブで接するかっこいい音楽のひとつとして捉えてきたことが何よりも大きい。非常階段にしろ、インキャパシタンツにしろ、ライヴ・パフォーマンスとしての視覚的なおもしろさはパンクやロックのそれと変わらないからである。
――『非常階段 A Story of The King of The Noise』p.235

自分がノイズのライブを初めて観たのは随分遅く、たしかすでに「ジャパノイズ」という言葉はあったような気がする2000年の高円寺でのことだった。インキャパシタンツの「グワーッ」とくる感じには小賢しい言葉はひとつも要らない、そういうことにやっと気付いたのだった。

Watertown

Watertown

Twitterで、Yさんに教えてもらったシナトラの60年代末のアルバム。これまでの浅く薄い自分のシナトラ像を軽く覆されるアルバム(異色作ではあるのかもしれないが)。オーケストレーションなどはあるにはあるけれど、シナトラのイメージからは意外なほど、焦点を絞ったというか小さく構えているというのか、要するにホールではなくてコーヒーショップの客に向けて歌っているような風情があり、ポップス的なアレンジも効いていると思う。Velvetsに通じる空気がある、とのYさんの推薦のことばに嘘はなかった。一聴して想起したのは、ジョン・ケイルのファースト『Vintage Violence』の質感でしたが。ルー・リードもケイルもボブ・ディランが大嫌いだったらしいし、むしろ彼らはシナトラのように歌いたかったのもしれないなあ、と聴きながら妄想。
付け加えると、ジャケ絵が微妙にシュールでたまらない。WatertownってNY州にもあるし他の州にもそういう名前の町自体はあるみたいだけれど、このアルバムのいうWatertownがそのいずれかを特定しているのかどうかは僕にはわかりません。ただ、この、カンタベリーロックのジャケット絵のような雰囲気の絵を見ていると、駅のホームから降り立った男の足元に、自分の影が「水面に」映っている。また裏でも街路と思しきところを歩く親子の足元も傍の街灯も同様になっているから、なんとも不思議な「水浸しの町」の情景になっており、それがどことなく奇妙な印象を醸しつつ郷愁まで感じさせるのかもしれない。
ジョビンとの共演盤のリイシューも良かったし、今年は案外シナトラ年かもしれない。

新装の紀伊国屋をぶらついて購入した文庫。「フビライ」じゃなくて「クビライ」のほうが当時の発音に近いらしい。まだ序章しか読み進めていないので、なにが「挑戦」なのかわからないのだが、本書自体が世界史上拭いがたい偏見としてある「野蛮で文明を殺戮したモンゴル」やウォーラーステイン型の「近代世界システム」観(15世紀大航海時代を起点とするあくまで西欧目線での「世界は「世界」になった」的発想)を果敢に書き替えようという「挑戦」でもあるようなのが、いい。モンゴル帝国の時代の文献からの検証は、西側からのペルシア語経由、東側からの漢字圏経由両方の付き合わせが必要らしく、なかなか難しいみたいで、それもまた今後長く興味がつきない予感が。