フェリックス・ガタリのインナーマッスル :山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』を読む
ここ数年、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの二人に関しては『ドゥルーズ・ガタリの現在』『交差的評伝』が翻訳出版されたり、特にガタリに関しては『アンチ・オイディプス草稿』や『精神病院と社会のはざまで』が翻訳されたりして、文献の数もドゥルーズに物量的に追いついていく傾向がある(続いて欲しいとおもう、個人的に、最後に述べるような理由で)。
学会の事情などは知る由もない自分が出版状況だけをみても、日本語になったガタリの読者というのが少なからずいるのだなと思わせてくれる。書かれるものの内容も、80年代のブーム的なものから、ドゥルーズとガタリを確実に知的インフラとして構築していく地道なものになってきています。
特に、大阪大学の山森裕毅さんは、ブログで「ガタリ・トレーニング」という(今はもう閉じられてしまったけれど)、今日紹介する論文に結実していくようなコンテンツを継続して積み重ねておられるのを継続して読ませていただくことが数年あって、ひとつひとつ結論があるような形態ではなかったけれど「本当にガタリは何を書いたのか」を真正面から腑分けしていく態度がとても新鮮だったし、これは後々何らかのかたちになるべきものだ、とも独り興奮していました。
『スキゾ分析とリトルネロ』は、この6月に、人文書院から出版された、山森裕毅さんの著書『 ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』の後半におさめられた論文です。
著者である山森さんにお許しをいただいて、こちらのガタリ論から読み始めた。
(そして感想をまとめようとしたこの文章、こんなレベルでも、ちゃんとまとめるのに、本をお送りいただいてから数ヶ月かかってしまいました…。)
本の献呈を頂いてしまったのは人生はじめての経験(そして多分最後の、)で、そのうれしさが、読み進める楽しみを昂進させていたのは確かなことですが、それを差し引いても、一読者の感想として、この論文を読めば、ガタリを読みあぐねていたりする読者は何らかの「碇」のようなものを受け取れるんじゃないかと思います。
山森さんの論の進め方がまず、自分にはとても好ましい。「もっといえば、」「さらにいえば、」のあとに、非常に明快な腑分けが入るのである。まったく逃げない。読者を逸らさない。見習いたい。
また、『現代思想』6月号にも、この補論についての補論が掲載されています。
論中、フェリックス・ガタリの『機械状無意識』までの著作の中で「リトルネロ」がどのような文脈で使用されている概念なのか、について前提となる「スキゾ分析」を踏まえながら論が進められています。
特に、論文後半リトルネロ(ガタリがプルーストの小説にどんなリトルネロを見出したか)いたるまでのスキゾ分析での複雑怪奇に錯綜する用語・思考・文脈の整理が、非常に有難かった。
リトルネロはいうまでもなくドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』にでてくる重要なキー概念ですが、正確に理解するのはこれまで至難の業、だったと思う。個人的に恥ずかしいのはリトルネロを音楽的な「リフレイン」の延長上の概念だと思い込んでいたことです。でも、リトルネロを、暗闇で子供が口ずさむ歌とかプランテーションで酷使される労働者たちの歌とかリフの最小単位とかとだけ考えていても理解が進んだ気にはならない。率直な読後感として、この論文を読めば、少なくとも入り口で誤解は避けていけるのものになっているんじゃないか。
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そこでリトルネロについてですが、これは先に『現代思想』の補論でもはっきりと述べられているのですが、通過成分ということになるらしい。
リトルネロは通過成分であり、問題は、通過成分とは何なのか。
以下は、ガタリの『機械状無意識』中のリトルネロ部分を抽出して、山森さんが説明を加えているところ。
ガタリは鳥の巣作りと求愛の関係を木の枝の記号論で説明している。そこでは、巣作りに利用される木の枝が、メスに求愛するための指標になる。つまり表現の素材として木の枝を見た場合、それは巣(つまりテリトリー)を表現する物から、求愛を表現する物へと変化しており、テリトリー形成のアジャンスマンから求愛へのアジャンスマンへの移行を媒介しているのである。
---P.311 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』:『ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』収録(人文書院)
乱暴にいうと、ここでの木の枝が通過成分であり、リトルネロということになる。何を通過するのか?というと、テリトリーのジャンルと求愛という別のジャンルの間を、であり、複数の異なる状況に架橋したもの、あるいはひとつの状況から別の状況への移行を促すことができるもの、同一の素材が複数の異なるコンテクストで別の用途でもって有用である場合、その素材は通過成分である、と考えてもいいんじゃないかと。
機械状につらなる全シーンを繋ぐ「蝶番機械」が通過成分=リトルネロ、とでもかんがえておこうか。
僕のたとえでは、まだまだわかりにくいのだけれど。
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本書は、他にも、ガタリ概念について解きほぐしてくれるような示唆に富んでいます。
以下、引用列記させていただきます。
(1)たとえば、チョムスキーとの関連。
『機械状無意識』においてガタリは、自身の概念群のいくつかを生成文法理論を参照しながら作っている。例えばガタリは「抽象機械」という概念を普遍文法と比較する仕方で論じている。どういうことかというと、あらゆる個別言語のもとになる普遍文法は、見方を換えればあらゆる個別言語から抽象された文法を意味する。そして普遍文法はあらゆる個別文法の起源とされる。それに対してガタリのいう抽象機械はあらゆる具体的機械から抽象(抽出)されたものではあるが、決してそれらの起源ではない。起源ではなく、ある具体的機械から別の具体的機械へ(他にも、あるアジャンスマンから別のアジャンスマンへ)変化するための理論上の中継器や変換器として考えられているのである。要するに具体的なものの変遷の間にある抽象的な「媒介」であって、そのため抽象機械は「深層」にある「普遍的なもの」からの「樹枝状の発生・派生」という考え方を必要としない。
---P.282 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
ガタリの思考の重心が「変形」にあることがわかる。これを一種の記号過程の研究と見なすことができる。こうした思考傾向から考案されるのが「抽象機械」であり、「スキゾ分析」であり、「地図作成法」であり、「リトルネロ」である。ガタリの重要概念からは「変形」や「過程」を捉えるための強い意志と試行錯誤を見てとることができる。こうしたガタリの思考傾向は、変形に対して生成を重視するチョムスキーのそれと正反対のものといえる。
---P.291 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
この思考の焦点がわかっていなければ、すべての用語が宙に浮くのだと気づいたときの、読者としての興奮。
(2)また、言語や記号についても。
機械は記号との関係で作動するものである。ここでの記号とは語用論における記号のことである。
---P.286 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
非常に重要なセンテンスだとおもう。
なによりもガタリ概念は拡張された語用論に、精神分析や政治をぶちこんだものらしいのだ(焦り過ぎか)。
ガタリの関心は、無意識や言語、記号に具体的な政治的、社会的、経済的、科学技術的諸領域を認めることである。言い換えれば、無意識がどのような構造をしているかではなく、どのような環境のもとで作動しているかを、言語や記号との関係で捉えたいのである。
---P.284 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書)
山森さんは、ガタリの記号論が、ドゥルーズのそれよりもはるかに複雑であり(ドゥルーズが素朴に思えるほどに、と山森さんは書く)、静的なものではなく、語用論(pragmatics)である、とも書いている。
ガタリの特徴的なところだと思ったのは、この語用論の対象が、通常の発話・言表行為にとどまらず、態度・行為・状態、それらを包括したものとして現れ得る「症状」にも適用されるという点。
繰り返しになってしまうけれども、精神分析を語用論の中に放り込んで思考実験プログラムとして鍛え直そうとしたのが、ガタリのスキゾ分析だ、ということではないかと。「スキゾ(分裂)」というタームに惑わされるのはもっと後で好きなだけやれば良い。ここまでくると、80年代の「スキゾ万歳」な持ち上げ方がいかに…いえ、やめておきます。
(3)ガタリ独特の用語「機械状」の位置。
ガタリは、すべてはあらかじめ決定されているという発想や、重々しい過去(記憶)が現在を規定し、その現在が未来を制限してしまっているという考えを批判する。その代わり、後から起こることが前に起こったことを修正すること、つまり未来が過去を修正することを肯定する。過去が未来を規定することもあれば、未来が過去を修正することもありうるのである。こうした相互作用をガタリは「機械状」と形容するのである。
---P.285 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
ここは、ガタリがサルトルから受け取って自分の血肉にした仁義なのだと感じた。もうひとつ。作家・安部公房と同じモチーフを共有していたのように思えてならなかった。たとえば、『第四間氷期』や『榎本武揚』で反復される過去・現在・未来を誰が語るのか/語れるのか、というテーマ。
(4)「地図」について。地図は、いわゆる(僕の苦手な)「アジャンスマン」と関わる。
この地図作成の作業の最も重要な点は、図表化された変形過程を操作し、地図を修正することを可能にすることである。ドゥルーズ=ガタリ研究でしばしば使われる「逃走線」という用語も、こうした地図作成と関連させれば理解しやすいだろう。
こうした地図作成法に関するガタリによる注意は、「普遍的な地図作成法は存在しない」、「あらゆる語用論的[スキゾ分析]地図の一般地図を描くことも望みえない」というものである。いつでも、どこでも、誰にでも適用可能な地図作成法はない。つまり、地図作成はその度ごとにひとつの「実験」といえる。
---P.305 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
たとえば、ガタリは記憶を信用しない。記憶は、規制にならされた現在から過去を再編集する行為と同義だから。
同様におそらく記録も信用しないだろう。記録を編集するもの(つまり、取捨選択するもの)が飼いならされていない可能性は低いという理由で。
そのかわりに、現在に踏みとどまって変形へと至らせるために「地図作成」を実行する。ガタリが決然と仁義を切っている部分だとおもう。
スキゾ分析的アジャンスマンが、以前から存在するアジャンスマンを対象とするのか、そこから新しいアジャンスマンを創造しようとしているのかによって、その働きを前に私たちが述べた生成語用論か、あるいは変形語用論に結びつけることができる。
---P.306 ガタリによる[機械状無意識]内の原文引用 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
(5)冗長性という用語についての解説まるごと
冗長性とは、余分なものや余計なものを意味する言葉である。情報理論においては言語が持つメッセージ以外の要素を意味する。もっといえば、必要最小限のメッセージに付加される余分な情報のことであり、メッセージの伝達を安定化させる働きを持つ。「冗長性が高い」というと無駄な情報が多いことを意味するが、その反面、情報の一部が破損しても、メッセージの伝達を損なうことが少ない(欠損したメッセージの予測が可能になる)ということである。ガタリの文脈では、その意味を解釈されるシニフィアン以外の記号(精神分析や記号学にとっては余計なもの)を指すと考えられる。ガタリは顔貌性やリトルネロを冗長性に属する記号として捉えており、この余計なものが精神に及ぼす記号論的な効果を探求していく。
---P.286 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
ここを読んだとき、自分のなかで『倍音』のことが木霊するようだった。
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(6)
ガタリは、ある子供の「学校で割り算ができない」という事態を学校権力による抑圧の結果としては捉えない。そうではなく、「論理的ディスクールの拒否」という子供による学校権力への抵抗戦略として捉えるのである。この子供は割り算を拒否するという仕方で、自分を取り囲む状況(アジャンスマン)を自身で組織化し、包括しようとする。〜(中略)〜スキゾ分析の焦点のひとつは「記号や言語の運用の主導権がどのように争われているか」であるといえるのではないだろうか。
---P.296 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
ガタリにとっては、記号や言語の運用が思考の最終目的地ではない(勿論それを分析する段階は必要)、それらの主導権がどのように誰によって争われているのか?にまで思い至らなければ片手落ちも甚だしいのである。
ガタリにおいて「症状」は、意識・無意識に関わらず主体の発話行為に等しいものと捉えられているらしい。ひとつの概念を別の広い次元に置く「発想」というより「思考のインナーマッスル」だ。
晩年に、エコロジーにも三つある(環境の、社会の、そして精神の、)としたガタリ思想の始まりとしてもなんとなく腑に落ちる話でもある。
Félix Guattari - Université de Vincennes 1975
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ここで論文の流れを追うのは中断して、もっとミクロかつ自分に落とし込んだ捉え方がどれくらい出来るものなのか、について考えてみたい。
といっても、すぐにリトルネロだとか機械だとかの用語が仕事環境で使用されるわけではもちろん、ない。
仕事柄、オペレーターをコーチングする時に、マインドマップの欠片のようなものをオペレーターと一緒に作ってみることがある。明解な答えがありそれを伝えられるケースではなくて、彼/彼女が煮詰まってしまっていて業務のなかでどうやって課題を見出していけばいいかわからないときに限った話だけれど。
簡単にいえばメモレベルの図式化だ。これが上で引用紹介してきたようなガタリの地図作成と直接関わる話なのかというと、とてもそんな話ではないと自分でも分かっているけれど、もうちょっとおつきあいください。
このとき指導というよりも、二人で問題を共有しあうことを最初に目標とする。決して、ああしろこうしろ、という流れにはしないことになっている。自発的な目標設定でないと意味がないからだ。
つぎに、どのようにして短時間で、言葉にならないモヤモヤを目標化するか、の生産性が問われてくる。
けっして明解なメソッドがあるとはいえないけれど、コーチングの本をいろいろ読んでみたり心理学の本に手を出して座礁したりという経験をしつつ、実践で試して右往左往しながら、とりあえず、まあこんなもんかというところにまでは、どうにか辿り着いたつもりになっている。
この疑似(エア)マインドマップを、相手に紙に書いてもらうことはじつは稀で、オペレーターの口述をもとに僕が紙に書いてあげたり(というより、会話しながら勝手に僕がメモをとりだす、それに相手が興味を持ちはじめる…というナガレが最も理想的)、最終的には、そこにひとこと書き加えたり、印をつけたりしてもらうだけというのが多い。また単に、会話上ふたりの頭の中に形成するだけであることもある。
「そこ」から一緒に外を眺めることを装いながら、「成る」へ動こうとする、というのか。
この時、自分の担当する範囲で得意なもの、苦手なもの関わらず、挙げていってもらう。こちらの発言は、相手が話しやすい状況をつくることにほとんどを費やす。このとき、すべてが出来ているかどうかは一切不問。むしろマップにこの単元を書いたが、実はほとんど自分としては出来ていなくて「本来出来ていなければいけないもの」という位置にあるものをあぶり出すためにやる。
こういったやり方がスキゾ分析の神髄的なものなのかといえば、恐らく全然違うのだろうけれど、山森さんが読み解いていくガタリの「変性スキゾ分析」と「生成スキゾ分析」が本来分けることが出来ないというのは、少なくとも、ああ確かにそういうものだろうな、と自然に腑に落ちることなのだ。
スキゾ分析地図であろうと、出来損ないのマインドマップだろうと、単なる「お話し」であろうと、成ろうとして未だ果たせていないモチベーションを持たない人は少ないだろうし(そんな人に指導面談は必要ない、というより他者は必要ない)、成ろうとする像を言葉にしようとして、いまどうであるのかを土台にせず欲望だけを語るのは素っ頓狂すぎることに変わりはない。だからといって、図と地の関係は絶えず入れ替わり続けて良いし(無理矢理ひっくり返してみるのもひとつのやり方だ)、一回のコーチングの場で「である」と「成る(変わっていく)」は並存していて互いに潜み合っていると考えればいい。
スキゾ分析の原則も山森さんの手でいくつか整理されているが非常にわかりやすい。
スキゾ分析においては、つけ加えても取り去ってもいけない。進行中の生成変化の傍らに居ながらぎりぎりのところで留まり、そしてできる限り控える、こういった態度が求められる。
---P.312 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
分析する者もまた図表を形成する一要素なのである。
---P.314 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書
以上、まるでコーチングの原則を読んでいる気になるほど、当たり前のことである。
ガタリのいう地図というのが、そのたびごとに生まれでる状況だということがわかったこと。これが自分にとっては一番大きい。
ここでもうひとつ、トラウマ医療人類学の研究者・宮地尚子の「環状島」のイメージも思い出した。ガタリの「アジャンスマン」は要するに「その度ごと」の状況だから、その度ごとの状況にひとつずつの「環状島」のイメージを重ね合わせる手間は、絶えずメンバーをある方向に導かなくてはならない仕事柄、的外れではないと思ったりもした。
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指導面談やコーチング、あるいは精神分析の場でのスキゾ分析が、地図作成が、その度ごとの実験である、ということはつまり、その度ごとの環状島である、と考えてみるチャンスを与えてくれる。
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変形やせめぎ合いを読みこむ人としてのガタリ。山森さんが浮き彫りにしてくれるのはこのガタリ像だと思った。
山森さんが論中指摘するとおり、ガタリが「機械」や「スキゾ」といった用語で説明しようとした事は、何も特殊で異常な状況に限定されるのではなく、いつでも・どこでも・誰にでも・どのような関係においても、起こりえる普通の状況をどのように捉えていくのか、それはその度ごとの状況を当たり前で動かしがたい静物画のようなものとしたままにする事の反対であって、まずは自分自身が変化してことで状況を変えていく、自分をそういう過程として考えていくには、どんな道具が、どんな通過成分(リトルネロ)があり、またこれから要るのか、という事なのだろう。
Joséphine et Félix Guattari (1986) by Gérard Courant - Couple #22
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今、意味があるのは、ガタリのいったことが現在すぐに何かに「使えるか」ではないのかもしれない。
ガタリは、絶対的な理想を建立してみせたのではなくて、ほとんどの普通の生活者が自覚無く試みていることを、自身の語彙で「機械状」に再構成してみせてくれただけなのかもしれない。
ではなぜ、ガタリ没後20年経過した時代を生きている読者が、独自概念の密林に踏み込む必要があるだろうか?
少しでも、昨日より先に進まなくてはならない人々のために、ガタリの思想が資するところはあるのだろうか?
ドゥルーズが聞いたら一笑に付されそうな疑問かもしれないが、申し訳ないがここは結構、身銭を切っているいち読者には切実な問題だ。
ある、と思う。
そこで道に迷いながら、たとえば山森さんの明快な論旨に救われながら、どんな経験をしたフェリックス・ガタリがこう書かざるを得なかったのか。書き進めるうちにどのような手順を踏んで、なぜこの用語を選んだのか、なぜこの概念には説明がまったくないのか、それを知ることには、これまでのように概念を濫用するよりもきっと意味がある。
穏当なことをとりあえず書いてお茶を濁しておきたいのではない。もし「哲学」というものに力があるのなら、ここに、その力が凝集しているのだと思うし、そこにアクセスするには、読者はやはり読みこむしかない。読んで悩んで仕事し生活するしかない。それはすぐに結果がでるスマートフォンではない。しかし、インナーマッスルのように効いてくるはずなのだ。
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山森さんのテクストを読んで、いまようやくフェリックス・ガタリという思考の実践者に出会った、と思えるのです。
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4月のゴールデン・ウィーク直前に折ってしまった右足が大分癒えてきたこの時期に、このエントリーを仕上げることができたのも、何かの符牒だろうか。
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salyu × salyu 「じぶんがいない」 "jibunngainai" studio live ver.
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Loop Stationを踏む、Salyu。