みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

本厄耳瞬日乗④非そも論 とその他のはなし

6月7日(金)
風邪をひく。喉の痛みからきて、猛烈にだるくなる。誰からもらったのかはわかっている。会社で背後に座っているユニットマネージャーである。彼も先週変な声をしていた。

突然、わけのわからない以下の義憤(熱のせいだろう)。
「そもそも」と得意そうに前置きする人が嫌いだ。だから「そもそも」自体もさいきん嫌いになってきた。「そもそも論」という言葉もおぞ気が走る。最初から「そもそも」以下の内容からお話しいただきたいし、そういう人の「そもそも」以下の内容がわかりやすくなっていた試しがない。「そもそも」は無意味な接続詞に堕ちてしまっているのではないか。
そもそも(ほら腹立つでしょ)、問題は、論旨をずらし相手を自分から疎外する事に快感を覚えている人、そうしてからでないと言いたい事が言えない人が増えているコトなのではないのか。
(熱のせいだろうか)

6月8日(土)
朝10時になんとか最寄のクリーニング屋にズボンを出しに行く。帰りに図書館。
しばらく行かないうちに本の貸出システムが図書館員による人力からセルフサービスのコンピューターになっていた。本を台にのせて冊数を入力して読み取りさせて、返却期限の書いたレシートが出てくるやつ。スーパーのセルフレジですね。

図解 世界楽器大事典

図解 世界楽器大事典

この本、楽器の分類・派生について初めて教えてくれることが多大で凄い本なのだが、「土人」だとか、表現がなんともこの時代の人のバイアス(当時はバイアスでなかったわけだが)でちょっとエグみが消化臨界点を超えているというか…。
この著者は有名な作曲家で音楽学者で、高砂のブヌンの人々が口にくわえた弓の弦を弾くことによって出る倍音から協和音程、音律、そして歌が発生したとする黒沢学説を唱えた人らしい。

楽器、それは音楽に用いる道具であろうということで、だれも怪しまない。これでは楽器が作られる前にすでに音楽があったことになる。しかし私はこの考えをとらない。楽器とは音楽を作るものだと思っている。つまり楽器のなかった時代には音楽といわれるものがなかったのである。


「楽器の前に音楽というものがあるのではない」という冒頭にさらって書いてみせる見解は、自分のような素人でも深い、その通りだと思う。アルトサックスがなければチャーリー・パーカーのソロではなく、エレキギターやワウ・ペダルでなければ、ジミ・ヘンドリックスヴードゥー・チャイル「では」なかった筈だ。音楽の形相は音楽が空気の振動現象である以上、本質的な事なのだと思うが、これはこの引用文の趣旨とはまた異なる話。
トロンバ・マリーナに関する著述は簡素で正確だけども呼び名はトルムシャイト、とドイツ語になっている。

夜、
酷く咳き込む。咳止めシロップを2杯飲んで眠ったら頭がグワラグワラと揺れだして平たくなって眠ってるのに方向感覚がおかしくなり「あれれー、これが噂にきく…」と思いつつ、そのまま眠ってしまった。中島らも的な夜。

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現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ

現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ

現代思想」フェリックス・ガタリ特集号(6月号)掲載の山森裕毅さんの論文『通過するもの、繁殖するもの』を読む。
山森さんは数年前今とは違うブログで「ガタリ・トレーニング」というカテゴリで、ガタリの思想の基本要素を手探りで仕立て直す作業を綴っておられた。その頃に何度かコメントさせていただいて、書きたての論文を送って頂いたりしました。心斎橋の「afu」で初めて企画したライブにおいで頂いたりもしました(有難うございます)。
山森さんの著書が今月出版される様子ジル・ドゥルーズの哲学がメインの著書の様子ですが、補論として『スキゾ分析とリトルネロ』というテクストが収められていて、この『現代思想』誌のテクストも、この「補論への補論」、という格好になっている、とのこと。
ガタリ・トレーニング」の頃から、通底しているのが、ガタリのエレメントの複雑な絡まりを自力で整理していく丁寧な手つき。このテクストの最後の章は、難解極まりないガタリの『機械状無意識』に分け入る、以下のような部分から始まる。

なぜ「通過成分」という用語に注目するのか。それはガタリ(そしてドゥルーズ)にとって最重要概念である「リトルネロ」が通過成分だからである。もっといえばリトルネロは通過成分のひとつの在り方である。

ガタリは思想の輪郭ははっきりしない(と、少なくとも自分は思う)。「分子」や「機械」や「三つのエコロジー」や「カオスモーズ」といった詩的なキーワードだけ弄ぼうとしても捉えきれるものではないし、その必要ももしかしたら無いのではないか。少なくとも結晶的な(或いは彫刻的な)思考ではないと思わせる。政治と臨床という現場を目指した思考のようでいて、複雑怪奇な用語やダイヤグラムの多用に煙に巻かれるような気にさせてくれる。
しかし、その文章の一節一節が、特定既存の主体を対象にするのではなくて、これから主体化していくすべての過程のために、「世の中変えたきゃ、自分から変われ」という一言を、他人事にしないために綴られている。そのために、ガタリ個人はどんな道具を仕込んだのか?あるいは仕込み切れなかったのか?という事を、山森さんのテクストは一歩一歩着実に明らかにしていると思う。
にわかなガタリ熱が再発し、ヤフオクガタリで検索すると、これがヒット。

この「現代思想」誌でもインタビューが掲載されている舞踏家の田中 泯 とガタリによる1985年の対談。
ガタリのある意味イタダケナイ部分がこの対談で全開している。自分が聞きたいことしか訊かないのである。こうであってほしいという田中泯像を描いてむしろ自分が言いたいことを自分の言葉の中に織り込んで質問の形にする。それに対する田中 泯 は流石に身体を現場とする芸術家で、読む限りはガタリよりも思考が先に跳んで腑に落ちる。

ガタリ:それでは泯さんにとって動物とは、或いは世界との関係のアニミスト的次元とは重要なものなのですか。泯さんは動物についての何か重要な夢を見たというようなことがありますか。
: 重要かどうかはわかりませんが、動物の夢はよく見ます。でも人間ほどではない。しかし僕にとって夢は日常ですからあまり価値判断はしませんね。むしろ忘れずに放置する。僕は動物園にはしょっちゅう行っていた。でも決して真似はしなかったけれど。僕は動物を自分の体の中に流し込もうとした。そして自分の中にある動物と出会わしたかったんですね。
ガタリ:それこそまさしく私が泯さんから聞きたかったことなのです。
:つまり「動物になる」あるいは真似をするといった時点では中心あるいは階級が始めから決まってしまっている。それでは僕の場合満足できないわけです。成るなんてことでは不十分なわけです。もっともっと驚いてそして解析すれば良いと思うんですが。
−−フェリックス・ガタリ+田中 泯『光速と禅炎』

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6月9日(日)
朝から寝込む。朝から雨が降りそうで降らない天気。台風は近づいてきているらしいが。
去年行ったベルギービール祭りが今年も梅田であるとのI佐さんからのお誘いだが、行けず。
amazonから届いたメレディス・モンクのTZADIK盤を聴く。

Beginnings

Beginnings

初期音源集としてはWERGOから数枚出ていたが、あれらは割とまとまった作品集で、本盤は、本当の初期音源という感じで、あとから正式なアルバムに録音しなおされている曲が多く含まれている。冒頭1曲目はブリティッシュ・フォーク・トラッドのカヴァー。その後のモンクの声の拡張を思えばなんとおとなしいことか。フランク・ザッパマザーズのDon Prestonと共に作ったトラック『Candy Bullets and Moon』は確かにおもしろいけれど、『MILL』(その後『Facing North』に新たな形で収録された)などでモンクの声がぐんぐん張り出してくると、切羽詰った感情が切り立ってくるようで、やっぱり感じるものがある。
http://www.meredithmonk.org/about/chronology.html
メレディス・モンクのクロノロジー
Dolmen Music

Dolmen Music

数曲、そういえばこちら↑にも収録されている。自分が持っているのはどこかのレコ屋で見つけたアナログ盤。
Underground Overlays From The Cistern Chapel

Underground Overlays From The Cistern Chapel

さらに、スチュアート・デンプスターのこの盤も、まどろみながら聴く。まどろみながら覚醒する耳の部分がある。この音楽はその耳にまっとうに響く。

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6月10日(月)
大分と右足に力が入るようになってきたので、松葉杖をやめてステッキで通勤してみる。最寄のバス停まで坂道をあがる時、見事な青紫のアジサイの群生を見かける。今年も雨の季節がやってきているのだなあと。足がむき出しなので雨天は嫌だが。

ジァンジァン狂宴

ジァンジァン狂宴

千里中央の本屋で買ったこの本を読み始める。

6月11日(火)
Ftarriに注文していたCD届く。
Christian Wolff: 8 Duos

Christian Wolff: 8 Duos

Art of David Tudor (1963-1992)

Art of David Tudor (1963-1992)

他に、広瀬淳二さんの自作楽器即興演奏ソロ「SSI-4」。高岡大祐さん録音・コンパイルの秀作「solos vol.2 "BLOW"」にも広瀬淳二さんの壮絶なテナー・サックスソロが収められていましたが、こちらは自作楽器による。自分が広瀬さんの自作楽器の演奏を見たのは地引雄一『EATER’90S』付属DVDでみた本木良憲 氏とのライブ映像がはじめて。激しく自壊自爆する本木氏の隣で黙々とメタルジャンクノイズを織り出し生産し続けていた広瀬さんに強烈なインパクトを覚えた。その演奏そのままに近いのがこのCD。

これはHitorriレーベルから出ている。 Hitorriレーベルって台湾で作ってるんだな…と毎回思う。
Eva-Maria Houbenが始めた自分自身のレーベル「Diafani」から同時リリースされた中から「Chords」と「Yosemite--Duo I/II」の二枚。Eva-Maria Houbenもとんでもない作曲家だと思うが、彼女の作品の中で最も強烈な印象を受けたアルバムは他にある…のでまた別の機会に。
アマゾンから本も届く。
Japanoise: Music at the Edge of Circulation (Sign, Storage, Transmission)

Japanoise: Music at the Edge of Circulation (Sign, Storage, Transmission)

ジャパノイズ本。なぜ今、ということを考えながら読むのがおもしろそう。

6月14日(金)
会社あがりにアメリカ村まで足を伸ばす。久しぶりにキングコングとタイムボム。
大分と右足に力は入るようになっているが、ふとしたコンクリの出っ張りなどに右足を乗せてしまってそこに体重もかかってしまうと身体の奥にまで達する鈍い痛みがくる。これがつらい。あと、階段の降りが怖いのも継続中。

ミュージック・コンクレートの作曲家Michel CHION のCDが数枚キングコングに置いてあった。値段も手頃だったので、どれか一枚と思って、「レクイエム」本を読み終わった後でもあったので本作を。連綿と続くレクイエムの歴史の中でも異色中の異色であり続けるのだろうなこのレクイエムは。グレゴリオ聖歌とはまったく関連を見出せない(或いは断片も含まれているのかもしれませんが)ヴォイスコラージュのどこを切っても爆弾。ガタリにしてもこの時代のフランス人はいい具合に狂ってます。

GUILTY C.とビートメイカーBLAHMUZIKのデュオ『GRIM TALKERS』。サンプラー、カセット・テープ、ノイズエレクトロニクスとフィールドレコーディング素材のミックス。塗れたアスファルトだけが吸い込める空気がある。
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6月15日(土)
ついに雨降る。クリーニングにも散髪にも行く気になれない。一日中本読みつつ寝る。
6月16日(日)
散髪。1時間待ち。隣のミスド箕面にあるのは第一号店なのです)でコーヒーを飲みながら待つ。昨日は雨で客が来ず、その分今日殺到したのだということ。午後から片付けたいものを車に積んで倉庫へ。山森さんのテクストですっかり再燃したのでガタリを読み直そうと数冊持ち帰る。