みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ひとつのノイズ、ふたつの言葉、あるいはみっつの声:尾崎大輔 『写真は私たちの記憶を記録できるのですか?』,サーストン・ムーア『Sensitive/lethal』,鈴木志郎康『声の生地』

nomrakenta2008-04-14


仕事も多少、顔をあげてこなせる心持がついて(というのが勘違いでないよう戒めながら)、立ち止まりたくなる言葉に数度ためらわずに立ち止まった3〜4月です。

写真は私たちの記憶を記録できるのですか?

は、若い写真家・尾崎大輔 というかたの写真集のタイトル。ご自身のHPで、本作の写真のいくつかを見ることができます。

「AMICI」http://www.amicidance.org/という障害者と健常者の混成によるロンドンのダンス・カンパニーに一年参加して、撮影された写真集のようです(AMICI Dance Theatre Company is a unique dance theatre company integrating able-bodied & disabled artists and performers.)。

'AMICI Dance Theatre Company is emphatically, a professional performance company and not a therapy group' Isabel Wolff (The Times)

このタイムズ紙のコメントが正鵠を射ているのだと思う。
写真集を見る限り、セラピーという印象はまったく、少なくとも両者の境が自分にはわからなくなった。
手をただ頭上にかざしているだけなのに、なぜこんなに感情が伝わってくるのだろう。被写体となっている人は皆、なにかを表現するということで漲っている。その身体はどれも、なにかになることを目指しながら、その身体であることの悦びに漲っていて、そして時間は切り取られて、ページの中にある。

シャッタースピードが遅く設定されて、ひとの輪郭や細部が融けて、色彩の動きのようになった数枚の写真を見て、自分の想いは写真集のタイトルに戻っていった。

写真は私たちの記憶を記録できるのですか?

ダンスカンパニーの人に写真家が問いかけられた言葉であるらしい。
写真家が質問者にどう答えたのか、それはわからない。しかし、ときどき極めてぼんやりと思うことがある。
記憶は記録できるものであっただろうか。そもそも写真は何かを記録しているのだろうか。映像と比べれば、流れる時間の中の動きを切り取ったまま動かない映像は、記憶とはまた別のものだ。いかに懐かしく退色した写真であろうと、それを見た時に呼び起こされるのは撮影時とまったくかわらない何かである筈がない。そうではなく、月日によって変形を蒙ったものを、ある時点からこの時点まででいかに変形されてきたのかという実感を、どうやら僕らは記憶と呼ぶ。その場その場で、もはやその時と同じようには感じることのできなくなった自分の現状との間で衝突して砕け散ったそれぞれを縫い合わせて帳尻をつけた想念。それを「記憶」と呼びはしないだろうか。してみると、動かない映像である写真っていうのは、特殊な情景を閉じ込めていると云えつつ、絶えず異様なモメントを生起する「こと」でもあるのだ。

写真は私たちの記憶を記録できるのですか?

写真は私たちの記憶を記録できるのですか?

「記録」という重荷を、僕らは「記憶」の肩から降ろしてやるべきなのだ。多分。
ぼくは踊ったことなどない。でもこの写真集を見ていると、踊りたくなってくる。
それはモダン・ダンスのような、間合いを詰めた緊張のある表現ではなくて、むしろ、後で触れる鈴木志郎康氏の『ダンスの中にむちゃくちゃに』のフォークダンス大会への感情の高ぶりに似ている(PereUbuの『このかわいそうなガキに、モダン・ダンスなんて踊れやしない』asin:B000007OSVって歌のフレーズも木霊しながら/なんで最近、彼らの歌をよく思いだすんだろう、良い曲が多いと思う)。
この写真集を見てはじめて知ったコミュニティ・ダンスに関してはココが詳しいようだった。
共に生きる21世紀のために

ねえ、君 僕の家まできて手伝ってよ。ノイズテープのコレクションをアルファベット順に整理するんだ。
僕らがほんとのお気に入りはたったひとつ。それは、ヘイターズメルツバウの製作禁止になったカセット。
これこそまさに真髄ってやつで。
そして、地下室でジャムってワインとマリファナ。そしたらさ。それは、けっして途切れない天国。
ノイズミュージシャン達に祝福を。彼らは歴史に名を残すだろう。ずっと、ずっと後代まで。
――Thurston Moore "Whisper"『Sensitive/lethal』のジャケット内側より和訳
訳責:ブログ運営者

この言葉は、昨年の『Trees Outside the Academy』から数ヶ月で早くも届けられたソニック・ユースサーストン・ムーアの3rdソロ作『Sensitive/lethal』asin:B0014YKRAE
(ブルックリンのno fun productionsからリリース)の紙ジャケットの内側に刷られていた「Whisper」と題された短い文章。初期の現代音楽の実験的な試みからたぶん即興音楽などの「アカデミック」な側からのノイズと、メタルマシーンミュージックasin:B000GG4ZTUから始まってポスト・パンク〜インダストリアル以降のそれ、ジャパノイズ、そして自分の周辺の活動まで包摂するであろう「ロック」側からのノイズ、その二つの太い流れの全部を含みこんだかたちの「非音楽」たちとその歴史への強烈なオマージュが、なんの衒いもなく綴られていて、サーストンが有名なノイズミュージックフリークであるという大前提を差し引いても、拍子抜けするような率直さです。
と同時に、なにやら、いけないノイズパーティへの招待状みたいです。特に「 alphabeticize my noise tapes 」なんていう表現に、なぜだかニヤニヤしてしまいます。
音のほうも、文章に恥じない「率直な」ノイズです。しかし単純なのでは、ない。前作『Trees Outside the Academy』での叙情歌もの路線はいったいどこへいった、といいたくなる「ノイジシャン」ぶり発揮の全2曲。1トラックこそなにやらアコギも鳴っているように聴こえますが、2トラック目はもう・・・延々と伸びやかにギターノイズが鼓膜の満たしていくのに身を委ねるしかない。
昔からいろんな側面をそれにあったチャンネルで使い分けるイメージのあるサーストンですけれど、叙情も引き攣ったノイズも、そのどちらもが本気のサーストンであることを、ファンなら誰でも知っている筈なのですね。
折に触れて思うのですが、サーストンの「ノイズ」って、好きで好きでたまらないっていうピュアさが絶対感じられるので、いくらハードにギターをアンプに擦り付けても、どこかナイーブな十代の顔をしているように思える時があり、本作でもそんな瞬間が何度かありました。
しかも、上記のような「ささやき(あるいはつぶやき)」なものだから、ノイズミュージックに対する内面的なケジメでもあるんだろか、異様な高揚感でぶっちぎっていく演奏には、そのあたりを大きくリセットしようとする感慨が伝わってくるのですが・・・。いや、そもそもSYの新作はどうなるんであろうか、などと邪推する余地を十分に与えてくれる最近のサーストン・ムーアは、なにやら頼もしい。

蛇足ですが、ジャケットも、10年以上前にサイド・プロジェクトをそれこそ月毎に出していた頃の『Mirro/Dash』っていうわけのわかんない7インチシングルの子供時代のモノクロ写真ジャケットを彷彿させてくれます(って、また誰にも通じない・・・そのころのジャンクなバンドの7インチのジャケットに使用頻度が多かったRaymond Pettibonのイラストは、もちろんSYの『Goo』のジャケ絵の余波だったけれども、1000円で買える芸術作品でした)。



詩は言葉で書かれているけど、言葉ではない。
と言い放つと、
光の中に立つ人が見えてくる。

――鈴木志郎康「光の中の人」 『声の生地』p.22

みっつめは言葉・・・というより、僕にはまるごと詩集一冊がそれこそ「声」の肌理細かなテクスチュアの集積ように思えた、鈴木志郎康さんの新しい詩集『声の生地』asin:4879957348から。

この二十三冊目の詩集は、読む人を選ぶのではなくて、読む人によって、<言葉>のなかを風が吹き抜ける(その風は、それこそ戦前から現在まで、一瞬で、しかしゆったりと吹き抜けてくるような)その角度を変えるような一冊ではないかと感じています。
特に、後半の本書のために書き下ろされた『記憶の書き出し』4篇から最後の『詩について』までは、大袈裟な物言いではなく、鈴木志郎康氏の個人史が(個人詩、としても)書き抜けられていて、それらは、およそ「現代詩的な」ごてごてとした単語の逆接や断層からもっとも遠い種類の、時代を追った逐次的な文章が淡いリズムと呼吸をもって綴られていくので、必読のものだと思います。


しばらく前に、鈴木志郎康さんのフィルモグラフィーのうちかなりの本数をまとめてDVDをお借りして観させていただくという幸運に恵まれました。自分は、鈴木志郎康さんの詩に、現代詩文庫から接するというもっともありふれた初心者だったわけですが、それがいきなりブログを書いているということで、詩と併行して積み重ねられてきた、通常観る機会のない作品群に触れることができたのですが、その幸運にも増して、「極私的」な映像の世界が、次第にじぶんのなかに浸蝕してくるような体験もした、のだと思います。
そんな経験をした後、鈴木志郎康さんの二十三冊目となる詩集を心待ちにして読むことができた、というのも考えてみれば、もの凄い事なのであって。
そのためか、どの詩の言葉も、氏が映像作品中語られるナレーションの声を想像しながら読み進めるという次第で、それはわずか2ページの詩『蟻を水に流す』や『朝顔の花』、『雨の朝の朝顔の花』でさえそうなのです(といいますか、鈴木志郎康さんの映画に頻出するご自宅中庭の花々の映像を思い浮かべないこと、それはもう不可能です)仕舞いには新たな鈴木志郎康の映像作品が自分の脳内で上映され始めるという、なんと贅沢な体験なのか、ともちろん思います。
(鈴木志郎康氏は今最新の映像作品『極私的にコアの花たち』を制作中とのことです。)

こうやって読むと、詩というものは、書き言葉と朗読の中間にある何かなのではなくて、2点を支点として立脚した上空の場所に想像し得る<言葉>の「新たな空間」(from ガタリ×ネグリ『自由の新たな空間』)*1でもありうる(ずっとそうして、あった)のではないのか、と思ったりもしました。現代詩っていうのは、とにかく物騒な字面で行が埋められていて、エクリチュアル(っていう表現は変?)なもの、っていう印象が強いですが、鈴木さんのこの新しい詩集のなかの言葉の重心は、より、はなしことばの声色・トーン・リズムや発声のためらい・言い淀みを、字と字、行と行の「隙間」に(『隙間問題』っていう詩があります)、自由に棲まわせるように書かれているのだと思います。

鈴木志郎康氏の詩作品について語られるとき、もしかしたら初期の「プアプア詩」の爆裂から、結婚生活や日々の観想へと重心を移していった「極私的」な作風への変化を、現代詩をとりまく環境の変遷と捉える向きも、的外れではないのかもしれません。しかし、それでは、本当の「極私」の核が何なのだったか。それがまったく掬い取れないままのようにも感じるのです。

生きる自由だ、
詩は。
他人から遠く、
密かに、
元手も掛けずに、
言葉を社会から奪って、
世界を名付ける
声、
突き動かす
声、
願望が
時間を濃縮する、
瞬間の自由だ、
詩は。

――鈴木志郎康「詩について」『声の生地』p.175-176

あらためて、解説が必要でしょうか?
「プアプア」の、シュールを極限までグツグツ煮立ててエログロに昇華したような言語遊戯から、数十年経過して、あらためて宣言し直される「極私的ラディカリズム」まで、決してぶれないもの。それは、それぞれの「固有」や「隙間」や「身体」や「顔」や「花々」であって、それらすべての「小さなもの/限定のうちにあるもの」への賛歌、なのだと思うのです。
経済活動が、いのちがけの跳躍なのであれば、詩の言葉を書き/読む作業自体もまた、等しくいのちがけで「言葉を社会から奪って、世界を名付ける声」なのです。
そして、これはもちろん僕の「極私的」な結論であって、ひとりひとりの読者が、とりわけ本書の後半を読み抜けることで、自分の中の「ゆずれないのに、しなやかなもの」を照らし出す作業を始め、それぞれの鈴木志郎康とのリンク具合もしくは乖離具合を発見するときに、詩の<言葉>は生きはじめるのだとも、今は思います。

*1:クレジットはガタリが先なのです、絶対。個人的に。