ロスコー・ミッチェル『L-R-G/The Maze/SⅡ Examples』、天沢退二郎『宮澤賢治の彼方へ』
今年も、酷い花粉症でして。
夜中に思わず起きてしまい、そのあと一時間くらい鼻をかんで朦朧としながら過ごしたりしている。市販の抗アレルギー薬で平日は凌いでいるものの、身体が慣れてしまうと効き目もなくなるだろうと予想がつくのがこわい。数年前にレーザーで鼻腔の奥を灼く施術を受けたのだけれど、組織が完全に復活して元の状態に戻ってしまった。逞しい組織に腹がたつ。また、レーザーを受けるかどうか迷うところです。
昨日、そんなわけでぐずぐずの鼻で瀧道を登っていったら、山道に入ったとたんになぜか楽になった。瀧は一昨日の夜の雨でごうごうといっていた。
オリンピックは、浅田真央選手のくやし泣きにちょっとぐっと来た。今年思ったのはカーリングっておもしろそうだ、ということ。昔吉田聡の「ちょっとヨロシク!」という漫画があって、主人公たちがとっかえひっかえ部でやるスポーツを変えていくなかで、カーリングというスポーツを知ったのですが、漫画では放ったストーンの前方をブラシで掃くときに「スウィ〜〜〜プ!」と掛声していて成程と思っていた記憶があるんですが(だいぶ昔なので定かではありません)、今回オリンピック見ていてもそういった声はなかったみたいだ。近所にカーリング場をつくってほしいなあ。
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『ゲラシム・ルカ』は1週間くらい前に読了。まったく未知のシュルレアリスト詩人の本を飽きずに読みとおせるものか、と驚くくらい、最後までテンションが落ちない読み応えのある論稿でした。
結局のところ、ある思考や欲望が普遍性を主張できないことを示すだけなら、さほど難しいことではない。私たちは任意の命題について―オイディプス的ファミリー・ロマンスについて、詩や絵画がもたらしてくれるはずの真実について、あるいは国家や宗教の正当性について―、「それは幻想だ」といつでもいい放つことができるし、多くの場合それが「幻想」であることの一定の根拠を示すこともできる。だがそれだけで「別の」欲望を生み出すことはできないだろう。これとは逆に、発音するはずの音声を発音し損ねたとき、見つかるはずのイメージを見つけ損ねたときにだけ、つまりは自らの思考や視線を齟齬として経験するときにだけ、私たちは自らの欲望を、起源における喪失によって規定され続けてきたそれでなく、生成しつつあるものとして体験する可能性を持つのである。
――鈴木雅雄『ゲラシム・ルカ―ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時)』p.185
ゲラシム・ルカは、安易なイメージや言語のユートピアを厳しく自らに禁じて、自分をひとつの「エラー・システム」としたわけだ。その文学的・音声的・絵画的「吃音」は、新たに「欲望」するための果てしない準備だったんだろうか。
ゲラシム・ルカ―ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時)
- 作者: 鈴木雅雄
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2009/11/01
- メディア: 単行本
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『Roscoe Mitchel: L-R-G / The Maze / SⅡ Examples』
年始に京都のワークショップ・レコードで数枚買ったフリージャズのアナログ盤のうちの一枚。アート・アンサンブル・オブ・シカゴのロスコー・ミッチェルの1978年のソロ2枚組で、Nessaというレーベルからリリースされている。1978年という、フリージャズにとっては盛りも過ぎた時代だったんではないかと思いますが、かなり実験的な作品のようです。
A/B面は、「L-R-G」というタイトルで、高低管のトリオのためのもので、タイトルのLRGはそのまま演奏者の
- Leo Smith(trumpet,pocket trumpet,flugelhorn)、
- Roscoe Mithcel(piccoro,flute,oboe,clarinet,soprano,alto,tenor,baritone and bass saxophones)、
- George Lewis(sousaphone,Wagner tuba,alto and tenor trombones)
を差しているようす。完全な即興なのかは不明ですが、図形楽譜といわれても納得できる、隙間の多い感じのアブストラクトな演奏で、高低の管はそれぞれほとんど同時に鳴らされて混じり合ったりすることがなく、間欠的に空間を埋めていく感じで、どことなくAECに通じるユーモラスな響きもある。
C面は「The Maze」という8人の打楽器奏者による作品。
この内ジャケの写真がたぶん、この「The Maze」のセットと思われます。ところ狭しとならべられた打楽器群を、
- Roscoe Mitchel、
- Thurman Baker、
- Anthony Braxton(!!)、
- Douglas Ewart、
- Malachi Favors、
- Joseph Jarman、
- Don Moye、
- Henry Thredgill(!!)
という、AECの面々も助っ人合流した(なぜにレスター・ボウイが不参加なのか?)と思しき錚々たる面子で(というか「吹かない」Anthony BraxtonとHenry Thredgillって、どうなのか?)どんな阿鼻叫喚の集団即興地獄絵巻か?と思っていたら、これも、複数の楽器が同時に鳴り重ねられることが殆どない、どちらかというと知的な現代音楽のように聴こえる仕上がり。それぞれに考え抜かれた打楽器の音の粒子がぱらぱらときらめいて散ばされるなか、たしかに迷宮のなかを進んでいかされるようなミステリアスな感じがある(かも)。
D面「SⅡ Examples」は、ロスコーのソプラノサックスによるソロ。音色・トーンというよりも、空気を通した結果、音が出る「くだ(管)」としてソプラノサックスを選択したかのようにも思える異形(異音)のソロ。同時期のスティーヴ・レイシーと聴き比べてみるのもおもしろいかも。
1978年にして、このアヴァンギャルド…頼もしいレコードです。
2009年の映像で、ロスコー・ミッチェルが作曲した「ニューオリンズのための鐘」という曲を、ウィリアム・ワイナンが演奏しているものがあった。
停止したような曲の雰囲気が、『L-R-G / The Maze / SⅡ Examples』から通じているおもむきも。
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数年前から、ちゃんと読もうと思っていながら読めていない作家は結構いるのですが、その中のひとりが宮澤賢治だった。
だれでも国語の教科書で短編のひとつくらいは読むだろうと思うけれど、『なめとこ山の熊』だけは例外的に最後の情景が好きだったけれど、いままで『銀河鉄道の夜』も『風の又三郎』も『ポラーノの広場』もあえて避けて読まずにきていた。なんとなく宮澤賢治というひとがやっかいな人のように思えて敬遠してきたということがある。
ひとつには、童話はさておき、詩集である『春と修羅』の「修羅」という激しい言葉の選択が、僕からすると戸惑いの象徴でした。
序文で自らを「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」をいってみせたのは、どことなく萩原朔太郎の夜に震える不健康な感性からの地続きがあると思っていたのだけれど、「わたしといふ現象は」と言い切ってしまう詩人と童話作家との間に深いクレバスでも横たわっているような気がしてきました。
そして、読み進めようとすると途端に、詩人は「唾し はぎしりゆききするおれはひとりの修羅」なのだと書きつける。そうすると、鬱屈して視野も狭窄していそうな危ない目つきの青年しか目に浮かばなくなってしまう。そしてそれも宮澤賢治なのでした。
副題が「(mental sketch modified)」となっているのも、詩ではなくて「心象スケッチ」だから「mental sketch」はいいとして、「modified」とはなんなのか、目にするたびにいつも座りがよくない感じがした。
「永訣の朝」も史的な事実として妹の死の悲しさということは読む前から添付済みの了解事項であって、むしろ「まがったてっぽうだまのように」みぞれの中にとびだしていく詩人のギチギチいいそうな感情と、数文字分低くして詩行に差し込まれる「(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」という妹の言葉の響きの違和感がとてつもなく昇華されてしまって、もはや違和とは思えないようなかんじであるとか、たんに悲しいという感情移入を誘う詩とはとても思えず、強烈に不穏なものを感じていた。
こういうときは、解説本を読んで大体のあたりをつけてから本丸に乗りこんでいくのが得策だと経験上知っているので、長いあいだ自分にとって<宮澤賢治>への水先案内人となるような本を探していたところ、遅まきながらやっと読むことができたのが本書。
『宮沢賢治の彼方へ (ちくま学芸文庫) 天沢退二郎』
そういえば、と手元の「ちくま文庫」の宮澤賢治全集のばらばらに古本屋で購入している一冊のあとがきをみると、ちゃんと天沢退二郎によるものだった。
なんとなく宮澤賢治はヤバい人だ、それも本質的に「詩の言葉の人」としてやっかいな人である筈だ、と思ってきたことが、同じ詩人である天沢退二郎の激しく蠢惑的な言葉でなぞり直されていた。
この日みぞれが降っていたのは偶然であったかもしれないが、そのみぞれがふっておもてはへんにあかるいのだと詩人が書きしるしたとき、それはもう偶然でなどありえない。その年があけてまもない頃『カーバイト倉庫』で同じみぞれにすっかりぬれたからと、煙草に一本火をつけたとき、詩人の前にはうす明るい未来しかなく、かれの身体はほてってかすかに汗ばんでいた。しかしいまびちょびちょと窓の外に降りおちるみぞれは、未来というものの全く考えられない地点にいる詩人の陰惨な心象をかたちづくりつつ、同時に、詩人の意識の窓外をかれのものになることなくかすめ落ちていく詩の言語の原形質たち、もしくは発芽前の核たちである。
そのときまるで啓示のように妹のことばが賢治の耳を打つ。(あめゆじゆとてちてけんじや)。このことばが純粋な方言のまま、うむをいわせず詩人の詩句のあいだへ割りこみ定着してしまうのを詩人とぼくらは驚きの目をみはって目撃する。≪あのみぞれを取ってきてちょうだい≫というとし子の直截な願いは単なる頼みではなくて、詩人の心象状況のまさに要めへささりこみ、詩の潜在的な言語の絃へ熱い指をのばす、象徴的な影響力を賢治に与えたのだ。それは孤独のまま進行していた賢治の詩の営為へ他者が、それも愛する妹が、はじめて自ら投げ入れてきた参加のブイであった。全部ひらがなで方言のまま、経文か呪文のように賢治がそれをカッコでくくってくりかえし書きつけるのも、そうした感動のさしせまった表出である。
――天沢退二郎『宮澤賢治の彼方へ』p.174
降りしきるみぞれが、詩のことばの原形質にたとえられている。こういう読み方が可能か、というよりは、天沢退二郎の厳しい移入を通すと、これはもう「永訣の朝」というひと括りの言葉のむれは、このように定着されたのだとしか思えなくなってきもする。
ここでの天沢退二郎は、詩作の現場をまるで「見てきたかのように書いている」のではなく、そのようにしか駆動するはずもなかった言葉の運動あるいはモメントとして<宮澤賢治>を再生してみせている。宮澤賢治のみていた彼方を同じように見ようとしている、という自負でもって。
「(mental sketch modified)」についても以下のように。
ありのまま記録された心象風景が事後に変改(モディファイ)されたものであるよりむしろ、最初から変改(モディファイ)しながら、変改(モディファイ)されたかたちの心象が書きとられていくとき、その変改行為みずからが心象スケッチの実体的韻律をかたちづくった、そのような方法によるものであったと思われる。
――天沢退二郎『宮澤賢治の彼方へ』p.151
言葉のアクション・ペインティングのような「(mental sketch modified)」。
いわゆる「宮澤賢治的」な世界というのは、すでに「ジブリ的」なものとして社会的には「同化」が完了しているのかもしれない。
あとに残っているのは、やっかいで、そう易々とは噛み砕けない「異文化」としての、「ぼくは文学でしかなく、それ以外のものであり得ず、またありたいとも思わない」と呟いたカフカとほとんど同じ時代に、一回きり生成した言語活動としての<宮澤賢治>だ。
宮澤賢治が「書いたもの」ではなく、「書くことで」見ていた<彼方>を、迷いも含めて達しようとしている天沢退二郎の本書が、もうひとつ自分にとって魅力的な理由は、書籍化される前の連載が、鈴木志郎康さんなどが集っていた詩誌『凶区』においてなされた、という情報に拠ったものでもあります。
「アマタイ」の<宮澤賢治>論には続編があるので、続きを読んでみるのも楽しみです。
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不思議なインスト4人組で、本作はセカンド。なんとジョン・レッキーのプロデュース。自分としては久し振りに目にする名前ですが、それ以上に、このバンドの音作りは、衝撃的というのではなくて静かに耳を傾けたくなる興味深いもの。
21世紀生まれの「ハングドラム」をメインに使用して、全編はジャジーなマナーで好感持てます。
http://ytmusik.web.fc2.com/page/column/inst_hang.html
↑ググッてみると(死語ですか?)ハングドラムっておもしろい形。
自分で持っている「ハピ・ドラム」も同じようにスチールドラムで手やマレットで演奏する。最近あまり触れていないので、保管場所からひっぱり出したくなっています。
もちろん、こんなにうまく演奏できるわけがない。