みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

思考のシズル:鈴木志郎康映像作品『極私的に遂に古稀』,『極私的なる多摩王の感傷』

nomrakenta2007-02-01



鈴木志郎康氏の映像作品を拝見し拙いながら感想を書かせていただくシリーズも、今回でとりあえずの最後になります。

(注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。
映画のイメージに関してはこちらの鈴木志郎康氏ご自身によるHPのフィルモグラフィーをご覧いただければと思います。


1:『極私的に遂に古稀(36分)2005年作品 ( After all, I'm 70 years old. 2004 miniDV color 36 min)

2004年から2005年の一年、この間に鈴木志郎康氏は70歳つまり古希になられました。その一年を切り取った作品です。
冒頭インフルエンザで朦朧としながら撮影の状況を語る作家の顔のアップが映ります。これは「15日間」から地続きのセルフ・レポーティングの手法ということで観ている方は了解できるものですが、そこに自嘲気味に「くどいですねえ。」とナレーションが被せられます。
今後はこの「くどさ」を「濃縮」し、内圧として高めていくと宣言され、これが「極私的ラディカリズム」と宣言されもします。自分の身体、それはとても小さなものであり、それこそが「極私の原点」だと改めて定義し、身体の限界に抗して言葉にしていく-それが「極私的ラディカリズム」だと。
心の鏡ともいわれる中庭にシャクヤクのつぼみがあります。それは深い赤紫色のはち切れそうな球体で、ものすごい生命力を内包しています(これは5月に白い花を咲かせます)。と、同時に鈴木さんは枯れていく花のその複雑な様子にこそ心を奪われる、とも呟きます。
この年、鈴木さんは腰の痛みから膝の痛みを感じ、歩けないほどになったとのことです。体重を減らすためにストレッチ運動を始める様子が撮影されます。頭と身体が分離してしまっている。それを埋めなければならない、と。
鈴木さんが奥様にカメラを向けますが、「写さないで」といわれて、素直にカメラをそらすシーンがあります。つづけて「それは作品に使うの?あとで決めるのって、作家ってちょっとずるいところあるわよね」と言われて「むー〜〜ん・・・」とされるところがあります。普通こういうシーンは編集でカットしそうなものですが、鈴木さんはこういう否定的(?)なコメントも隠さない。むしろそこから何かを炙り出そうとしているようにも思えます。見落としそうなシーンですがここは重要なポイントです。
転倒して首にギブス、顔に絆創膏を貼った痛々しい姿も出てきます。
その後、夏の多摩美の卒制合宿や映像演劇科の公演の模様があり、ここでも若い身体の炸裂にあてられ放しだったという反面、アサガオの花の枯れていく様子のものすごさについても熱く語るのです。

身体の落差を落ちるゴウゴウという気分。いいですよ!

こんなある種、破壊的なユーモアも香るコメントの中では、「プアプア詩人」の面目も密やかに躍如している様子があります。

2:『極私的なる多摩王の感傷(35分)2006年作品 (The Sentiment of the Man called King Tama 2004 miniDV color 35 min)

英単語のLastは、確か「最近の」という意味でもあったかと。その意味で「Last」である本作は、鈴木志郎康氏が長年勤務した多摩美術大学の専属を2006年3月をもって退職するにあたっての回想映画、と位置づけられています。冒頭で「わたしの感傷にお付き合いください」と宣言されているように、はっきりと多摩美での生活を振り返ることに徹した内容です。
「多摩王」というのは、右上の写真(ブルーのレーベルの方)に映っている鈴木志郎康氏扮する赤フン赤マントに王冠というものすごい格好の人物で、多摩美の発表会用に作られたキャラクターという事ですが、この辺り、嬉々として成りきっているおられるところが、たまらなくイイです。
映像科の卒業生の進級作品も取り込んであります。8期生の坪田義史さんの『耳プール』(96年度進級作品)は、「耳」をオブジェとして捉えた実験的な作品で、不気味な耳オブジェや首を伸ばす亀(亀の首って長いんですよね)、耳のアップを後ろから棒でなめすように抑える、それだけの断片的な映像が強烈な異物感を感じさせる作品になっています。鈴木志郎康氏はこの作者に対して、

ノイズということが、生としてのノイズに発展している。ノイズのナンセンスが生きていることのナンセンスとして、ものすごいパワーに発展している。

と実に的確な評価を下しています。同じく8期生の小沢和志さんの『青空ジュース』(96年度進級作品)に対する評価も柔軟な視線のものです。作品は、僕にとってはかなりオブセッショナルで倒錯的な印象なのですが、

この作家は、内面に居直る強さ、或は弱い者の声を捉えるアンテナを持っている。そのアンテナで心の弱いところに同調していき、そこに独特の世界をつくっている。

また学生たちに向けたスピーチの映像では

表現するものは、自分の存在感をどう作っていくか。それが重要。メディアに乗る乗らないは関係ない。

と熱く語りかけています。
フラッシュバックのような形で在職中の映像が織り込まれていくのを観ていると、こちらもなんだか、何かを卒業しなくてはいけないような、そんな感慨が押し寄せてきます。
僕自身は鈴木志郎康氏に関しては現代詩の詩人としてしか知識がありませんでしたが、若い学生に囲まれている鈴木志郎康さんは本当に楽しそうで、氏は最高の教師でもあったのだな、と思いました。

* * * * * * *

こうして、ほぼ全作品を拝見して、少なくともこのフィルモグラフィーの主要な作品は、しかるべきメーカーからリリースされ「映像表現」に関心のある人が探せばちゃんと手に入る、そんな状態にあることが本当に望ましいのだろうと感じています。

そもそも鈴木志郎康さんの「極私的表現」は、イデオロギーから自由でいようとする/あるいはそうたやすく同化できるわけではない残余としての個人から出発し、また収斂する手法であったように、僕には思えます。それは狭隘な「個人」の「日常」の中に埋もれてしまうのではないか、という危惧は、もちろん最初から作家の中に大きな問題意識としてあるいは表現の起点として存在していました。

わたしは、既に一度や二度ならず、自分の姿をフィルムやビデオで撮影している。初めて自分で撮影した自分の姿を見る恥ずかしさは、譬えようがなかった。それは、他人が撮影した自分の映像とは違って、わたしにとって全くの異物であった。それは見たことのない自分の姿だった。自分が見たことのない姿で存在しているのを知った。他人が見ているわたしの姿とは異なる、つまりわたし自身もまた知り得ないわたしの姿なのだ。わたしが絶対知り得ない自分の姿があるというそのことによって、わたしはわたしであって、他人ではない存在であることを明確に意識した。と同時に、わたしは自分の姿を撮影することによって、自分のイメージをくぐり抜けるスリルを感じた。
  『透明の誘惑』〜詩集「石の風」より p.58

引用がとても長くなりましたが、これは『15日間』での強烈な体験を想起せずにはいれない文章です。思えばこのような「震えるような期待」というか「ドキドキするまなざし」が、鈴木さんの映像作品を貫いていることに気付きます。
日本の個人映画の草分けともいえそうな1977年のモノクロ長編『草の影を刈る』から、自己言及性を突き詰めた1980年の『15日間』、魚眼レンズで雲の動きを駒撮りした1989年の『風の積分』など実験的な手法自体が、詩情と分かちがたいものになっていた事、それが今、強く思い出されます。
『極詩的にEBIZUKA』以降は、カメラが16ミリからminiDVに変わり、固定的なフレームの中で対象を捉えるやりかたから、対象の中に入っていく形になりました。個人的な事を言いますと、以前ボリビアの映画製作グループ・ウカマウ集団の映画が、16ミリからminiDVになった時、映像的にものすごい落胆を味わったので、正直内心どうだろうかと危惧を持ってましたが、鈴木志郎康氏の場合はそういった落胆はなかった。平坦な「物語」から、変わらない個人にひきつけた位置に立つ映像とナレーション、そしてより撮影者の心の動きまで映すようになった映像が、そういったありがちな落胆から観る者を自由にしてくれたのだと思います。
もうひとつ、特に『15日間』からいえることかと思いますが、鈴木志郎康氏の「極私的映画」集は、中庭の植物たちの「物語」としても観ることができました。これは、植物の名前を言え、と言われると相当困ってしまう僕のような「植物音痴」でも、豊饒さを感じ取ることができた程ですから、すごいものだと思います。「植物的感性」もひとつのキーワードであったのかもしれません。毎日更新されている「Blosxomblog」にも引き継がれているようで、興味が絶えません。そんな意味で、『あじさいならい』や『野辺逃れ』といった小品は忘れがたい味わいを持った作品でした。豊饒さによってモダニズムを超えるという点では、柔らかな叙事詩といった趣の『風を追って』に最も感銘を受けました。
これらの「極私的」映画のひと連なりは、他者の語りと眼差しを内包しながら、イデオロギッシュな時代を潜り抜けて、個人の中から(個人の身体から、といってもいいのかもしれません)新しいヴォキャブラリーを作り出そう、という試みだったように僕には思え、映像を編集していく思考そのものが、こんどは鑑賞者の眼差しに触れることで、「思考のシズル感」とでも言っていいようなものを醸しだしているように思えるのです。
手法としての「極私」を問い詰めて最後に残るもの、それを積み重ねることこそが、他者や社会に向かって開かれうるものなのだ。そう、30年を優に超える鈴木志郎康氏のフィルモグラフィーは語りかけているように思えてならないのです。
くどいですねえ(笑)。
考えてみれば、『極私的』という言葉がとっかかりでした。この自分も何気なく使用する言葉を「発明」されたのが詩人の鈴木志郎康氏だった、ということを知ったエントリーをこのブログに書いてから、鈴木志郎康氏ご本人に映像作品を昨年末からお借りすることが出来、その作品を制作年順に拝見することが出来たのでした。映像作品に対するこのような深い体験は今まで経験したことのないものでした。拙文が作品の印象を歪めていないことを祈っています。
最後に、この機会を与えていただきました鈴木志郎康氏に深く感謝いたします。
有難うございました。