みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

鈴木志郎康映像作品

花たちのリトルネロ:鈴木志郎康『極私的にコアの花たち』@京都ドイツ文化センター

*画像は、鈴木志郎康作品『極私的にコアの花たち』とはまったく関係のないものです。 5月の光というのは一種の懐かしさをもっている光なんですね。冬の光だともたせたくなるし。夏の光だと避けたくなる。で、5月の光というのはそういうことがなくて、その…

思考のシズル:鈴木志郎康映像作品『極私的に遂に古稀』,『極私的なる多摩王の感傷』

鈴木志郎康氏の映像作品を拝見し拙いながら感想を書かせていただくシリーズも、今回でとりあえずの最後になります。(注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。 映画のイメージに関してはこちらの鈴木志郎…

ことばの衰退/からだの臨界:鈴木志郎康映像作品『衰退いろいろ2002』,『極私的に臨界2003』

(注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。 映画のイメージに関してはこちらの鈴木志郎康氏ご自身によるHPのフィルモグラフィーをご覧いただければと思います。鈴木志郎康氏の映像作品を年の『草の影を…

モノであってモノでないもの/コトバであってコトバでないもの:鈴木志郎康映像作品『極私的にEBIZUKA』,『山北作業所』

(注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。 映画のイメージに関してはこちらの鈴木志郎康氏ご自身によるHPのフィルモグラフィーをご覧いただければと思います。今回の2点は、鈴木志郎康さんが多摩美大…

内面と内言とゴーストと。:鈴木志郎康映像作品『内面のお話』

(注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。 昨年の11月から鈴木志郎康さんに映像作品のDVDをお借りできることになりました。 そして、これまで何回か拙いレビューをゴソゴソと書いてまいりました。 …

鈴木志郎康映像作品『風を追って』,『オブリク振り』,『風の積分』,『隠喩の手』,『時には眼を止めて』,『角の辺り』を観て、風/ななめ/手/メタファーについて考えさせられる

(注)右の画像は映像作品とは無関係です。あまりにテキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。鈴木志郎康さんが発明した「極私的」という言葉のことをブログに書いたとき「映像作品観たいなあ・・・」などと最後に書き付けたところ、ご本人からコメン…

まなざしならい:鈴木志郎康映像作品『比呂美−毛を抜く話』,『眺め斜め』,『荒れ切れ』,『あじさいならい』

先日、鈴木志郎康さんにお借りできたDVDで、初期の3作品(『日没の印象』(1975)、『草の影を刈る』(1977)、『15日間』(1980))と最近の作品(『野辺逃れ』(1993))を拝見することが出来(詳細はこちら)、両者の間にかなり違いがあることが気になりま…

そして、<極私的>へと。:鈴木志郎康映像作品『日没の印象』,『草の影を刈る』,『15日間』,『野辺逃れ』

(注)右の画像は映像作品とは無関係です。あまりにテキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。 先日<極私的>というコトバについて書いたエントリーで、自分も含めて今では誰もが何気なく使用している言葉を「発明」された現代詩人・映像作家の鈴…

<極私的>というコトバは:『鈴木志郎康詩集』『続・鈴木志郎康詩集』

ためしに「ことば」は極私的な用法にも耐えうるからこそ、社会にも繋がっていけるのか、と考えてみる。それともその逆で、社会的であるからこそ、極私にまで落とし込める素材なのか、とも。ヴィゴツキーのいう「外言」と「内言」のプロセスをどこかで同型反…