「ねむみ」と「ドン・キホーテ」と「集落のおしえ」
一般に、「まろみ」とか「とろみ」とか、「えぐみ」とか「くさみ」とか、要するに「み」を後にくっつけることで、形容を状態名詞になっているものがあります。この「み」は、たぶん「味」なんでしょうから、そのものの状態をそう呼ぶ話者の鑑賞的な意識を一種のベースにしているとはかろうじて申せましょう。そういう理屈は関係なく、こどもの頃に自分で名付けた状態に「ねむみ」というのがあります。
これは今思い直してみると「眠味」と書くことになるわけで、眠いのを愉しんでいるような感がありますが、要は「眠くてたまらない」という状態をそう名前をつけてみたのです。どうも頭も身体の先もぼんやりして甘ったるい感覚は、その時点で、モコとした名前をつけてみるほうがふさわしい気がしたのだろうなあ、と思う。そういうわけで、今朝も「ねむみ」の中、まどろんだ身体を駅へと運ぶ。
日常のストレスが、夢に現れるというのは、誰しも認めることで。
夢見ている間に起床時に処理できなかった視覚情報や認識まで到達していない情報を処理しようとして投影しているのかと思う(これは前に書いたな)が、昨夜みた夢はまったくその通りだった。
最近、評価のパラダイムの変化が激しく、ベテランのオペレーターもそこに合わせることが困難になってきているのも一部存在するところに、業績の悪化である。
そのせいか応答率もいきなり90%になってしまうのだから(月末でこの数字はありえない)(昨年夏から60%台が続いていた。この数値もありえないといえばありえない)、管理者一同、苦笑いを通り越して悪寒が走り顔がひきつっている。
インバウンドのコスト部署である、という点も、気持ち的な逃げ場をなくしていることは言うまでもない。
そういうストレスのためだとは、もちろん断定はできないのだけれど、次年度、契約更改をしないベテラン・オペレーターが数名出る見通しで、会社側もあえてそれを引き止めないであろう、という根も葉もない噂が流れるのも、これは無理はない。
ここまでが現実の、いってみれば個人的な夢の背景で、場面は、いきなり、朝礼でベテラン2名が、退社の挨拶をする、というアナウンスからはじまる。まさか、とは思っていたが、自分のチームからである。もちろん一言の相談もない(設定になっている)。そこが自分の気持ちをワサワサと責め立てている(心理から、夢場面が始まる)。
ベテランの女性2名はセンタースタッフ全員の前に部長と立ちながら、部長のそういった説明をきいている。こちらの葛藤を知ってか、ときおり目配せをして大丈夫、みたいな合図を送ってくる。なにが大丈夫なのだ、きいてないぞ、こんな話、と穏やかではないのは自分だけではなく、残るセンタースタッフも、不安げな様子ではある。
挨拶を求められて皆の前に立った彼女らは、普段通りの勝ち気な態度で、さっぱりとした挨拶をする。残る我々への配慮だろうか。そのまま朝礼は送別会の立食パーティ会場になってしまう。
彼女たちはこのまま、フェリーにのってこの国を去るのだそうだ。見送ろうとするが、フェリーまでたどり着くのに、何段階ものボディーチェックがある。
身体に付着したばい菌の類をとるために、ひとりひとり網を潜らせるのだ、という説明をされるが、こんなものでばい菌がとれるのだろうか。特に粘着性のなにかが塗ってあるわけでもなく、要するに障害物競走なんかで使うただの伏せたネットである。ただ潜らせたいだけとしか思われない。
それでも、一行は粛々と網を潜るのだが、係員は色を無くした顔の上に色を無くしたツバ付きの帽子をかぶり無関心な態度で、網を抜けて立ち上がる我々を先へと促す。
そのあとも秘密工場のような薄暗い建物の内部を彷徨わされて、やっと港湾を「見降ろせる」場所に出してもらえたが、お約束のようにフェリーはすでに海の遠くの小さな影になっている。
すぐ眼下に位置する艀(はしけ)では、結婚式とおぼしきとてもフェリーニ的なお祭り騒ぎをしている。意識がそちらに向かうと、夢の中だから、フェリーのことは映像としても認識としても消えてしまう。結婚式の雰囲気は、たぶん映画の「アンダーグランウンド」のラストシーンからとってきたものだろう。水のうえに浮いたパーティー会場には、物語のはじまりで既に死んでしまった一家の母親や、息子夫婦、裏切りをした友人などが仲良く集っていて、それがゆらゆらと遠ざかっていく。それは、ヨーロッパの地図から消えた祖国の元に流れ着くのことを映画自体が想いながら漂うような感じだった、フェリーニ的かどうかは別として大好きなラストシーンだった。
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(アップしたのは深夜でも、書いたのはポメラで、朝のコーヒースタンドです。)
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アマゾンで注文していた「Miguel de Cervantes, Don Quijote de la Mancha」が届いた。
2007年に出た20世紀の音楽史をアヴァンギャルドなうごめきも漏らさずまとめた力作「The Rest is Noise」の著者で、
The Rest Is Noise: Listening to the Twentieth Century
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Don Quijote De La Mancha Romances Y Musicas
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説明によると、これはセルバンテス「ドン・キホーテ」の朗読と、セルバンテスの時代のスペインのロマンス歌曲や即興曲、宗教曲をコンパイルしたものの様子。「ドン・キホーテ」各場面に合わせた選曲をしてある。
当時のロマンスに関してライナーでこんなことが書いてある。
ロマンスは文学作品の登場人物の口を通して姿を現す。ロマンスは新しい喜劇の中で使われる詩の手法だっただけではなく、多くの場合、喜劇の歌唱部分や幕間狂言がロマンスそのものであった。小説や演劇では、恋するものは夜、恋人の窓辺でセレナードを歌い、様々な詩的な要素で彩をつけた。そのうちの一つがロマンスである。時には、実際の人生で起こったように、登場人物がロマンスの一節を格言や諺として引用することまであった。というのは、これらの歌のあるものはあまりにも有名で、その一節は大衆格言研究に編入されるまでに至っているからだ。
セルバンテスはこうした全容の例外ではない。この時代の人間として多くのロマンスを覚えていた。また、この時代の作家として新作ロマンスを作った。そのうちのいくつかは彼の物語作品や演劇作品に挿入されている。
――スペイン科学技術理事会 パロマ・ディアス・マスによる解説より
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Disc1から聴いていると、インクリーディブル・ストリング・バンドがやりそうな旋律が随所で出てくるのは気のせいなんだろうか。
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打海文三の小説をもうすぐ読み尽くす見通し。
女性の描き方がある意味ワンパターンだが魅力的、というのが僕の打海文三への作家像です。少年の描き方はわりとかき分けている印象あります。「ロビンソンの家」を半分くらい読んでいる段階で、「ハルビンカフェ」にも残響していた原広司の「集落の教え100」からの引用が、作中のRの家を設計した建築家の台詞に含まれているのに気づいて感慨深くなってきた。
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実は、夢のもち方、共有のされ方は多様であるにしても、共同幻想だけが、集落をはじめとして建築を実現させることができる。最も希薄な共同幻想は、住み手ではい支配者が単に量の増大をはかって、慣習化された集落のモデルを繰り返し実現する場合にみられる。制度的な踏襲。それと対極となる濃密な共同幻想が、弱い自然の生産力をもった土地に、かろうじて生きてゆくために建設した集落に見いだされる。
前者の行為は、すでに効果が明らかなものを反復するという意味で、<定義する>であり、後者の行為は、実験的精神と不安と夢でもって<仕掛ける>のである。
――「集落の教え100」p.20
まるでシュールリアリストたちの無意識への操作が、遠大な過去からの宿題でさえあったかのような錯覚をもよおさせる文章。で、終わればまだ可愛いものだと思うが、なお、下のように締めくくるところ、がこの本の非凡なところなのだ。
今日まで残る仕掛けられた集落のほかに、歴史の中に消えていった多くの集落の事例があるにちがいない。それだけに、今日まで残る仕掛けられた集落は、およそ信じがたいまでの非現実性をただよわせている。
――「集落の教え100」p.20
- 作者: 原広司
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