みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

4つ目の停止原基のための土曜日 あるいは、自分のエンドルフィンくらい

nomrakenta2009-02-07



全体的に「もすっ」(「ねむみ」に不快感を乗算したもの)とした朝であったので、コーヒーを飲んでみてもそれは晴れなかったので、もすもすと瀧道へと出かけた。

昨夜みたテレビでは、苦いコーヒーを何故年をとるとおいしく感じるのか、という問題が、漫才コンビの「麒麟」のプレゼンで説明されていた。もともと「苦み」は自然界では即「毒」を意味していたが、苦みを乗り越えて慣れることによって、質の高いエンドルフィンが分泌される、高いハードルを越えたことによって、快楽が増し、そうした学習によって知り得た味は格別なものになっていくそうだ。
いろんなことに当てはまりそうなことだ。

瀧道の登り口で、皮膚の荒れた男性が、本を読みながらゆっくりとしたペースで坂をのぼっていくのを追い越した。
瀧の上にでると、いくらか気分が良くなってきた。自然研究路が工事で封鎖されているので、そのままドライブウェイを登って「政の茶屋」までいく。秋が終わってしまうと、山から一気に色彩がなくなっていくし、今年は山で雪に出会っていない。デジカメを持っていくのが億劫になっていたが、今日は持ってきたので、陽光のなかの葉っぱや羊歯、なんかを撮る。
帰りの下り道では、足下にもしっくり馴染んだ感覚が戻っていた。酒を呑み過ぎた覚えはないので、運動不足だったのだろ、と独りごちる。
瀧に到達したころに、登り口で追い越した読書歩きの男性の背中が見えた。今度は追い越しがてら、なにを読んでいらっしゃるのか確認してみようと思った(通勤電車の中でも人がなにを読んでいるのか気になる派です)ら、昔の講談社の現代新書だった。タイトルまでは見えなかった。たぶんこの人は瀧壷の前で座って30分くらいずっと読んで、また下りもこうやって熱心に読みながらとことこ降りていくのだろう。下りの半ばでは、女性のバード・ウォッチャーとすれ違った。
瀧道の下の方に、府営の昆虫館という施設があるが、これは自分が小学生だった頃に出来たものだ。だんだんと手作り感覚が横溢するようになってきた(右肩写真の下部分)のが微笑ましい。

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山麓線に降りてきて眼下の箕面の町と千里を見下ろしたとき、突如、「4つ目の停止原基のためのソナタとインターリュード」という曲名を思いつく(笑)。
「停止原基」というのは、デュシャンの「停止原基の雨の目」の停止原基(Stoppage)だ。デュシャンは絵画のスケールを紐を床に落としたときの形に委ねたわけで、その最後までパッケージングしてみせるスタイルが、ほかの偶然性で美学の連綿を切断しようとしたダダたちとは、本質的に異なっている。
1913ー14年にデュシャンが制作した「停止原基」は3つ。
http://arthist.binghamton.edu/duchamp/Standard%20Stoppages.html
「停止原基」そのものは、その後の「停止原基の網目」で使用され、「大ガラス」(「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」)でも使用された(と、ものの本には書いてあるのだが、どこに使用しているのか、帰宅してデュシャンの画集を確認しても自分にはすぐにはわからない。上の方のガラスの幾本かの線の形態が、自分には停止原基のカーブに似ている気がする)。架空の4つめのためのソナタジョン・ケージが書きそうで、書くわけもなかったような音楽、という気分とでもいうか。思いついたといっても、それで曲をねつ造できるスキルがあるわけでもないので、とりあえず、ここに書き残しておくのです。

と、書いてみたあとで、自宅のデュシャン関連本を調べてみたら「停止原基」についてはこんな文章があった。

 決まった手順にしたがって忍耐強く実験にとりくむ科学者のように、白い縫い糸をちょうど一メートルの長さに切り、それを手に持ってピンと張り、プルシアン・ブルーに塗った長方形のカンヴァスの上一メートルの位置で手を放し、落下させた。同じことをあと二本の糸で行い、それぞれ「好きなように捩れながら」、別々のカンヴァス上に落ちるにまかせて、糸のとった形のままニスを滴らして固定した。こうしてできあがったのが、<三つの停止原基>で、デュシャンはここで「わたしの未来を動かすおもなエネルギー源に手をつけた」と語っている。「停止」と訳したフランス語の“stoppage”には「かけはぎ」の意味もある。デュシャンは何をしたかというと、フランスが定めた長さの単位、政府の金庫に定温定湿の状態で保管されたプラチナ棒の印二つによって確定される計量単位を繕う、というより修正したのだった。この「長さの単位の新しいイメージ」は輪郭も偶然に定まったもので、そこには戯れの物理学の精神が息づき、デュシャンはのちにこれを美術家としての成長過程で重要な意味をもった作品のひとつと見なす。「これ自体はたいした作品ではない」とデュシャンは語る。「けれどもわたしにとっては、ここから新しい道―昔ながらの美術につきものの伝統的な表現方法から逃れる道が開けた。当時は思いがけず行きあたったものに自分でも気づかなかった。何か新しいものを掘りあてても、それが何の音かはすぐにはわからない。たいがいあとになってからわかるものだよ。わたしにとって<三つの停止原基>は、過去からみずからを解き放つ最初の一歩だった。」
――カルヴィン・トムキンズ「DUCHAMP」みすず書房 p.134

マルセル・デュシャン

マルセル・デュシャン

―「三つの停止原基」は三枚の細長いガラス板からなっていて、その上にカンヴァスが貼りつけられ、三本の縫糸の台座になっています。全体はクロケーのスティックの箱に収められ、あなたはそれを<罐詰された偶然>と定義されました。
〜引用者・中略〜
 純粋な偶然は、論理的な現実に対抗するものとして興味がありました。カンヴァスの上に、あるいは紙きれの上に、何かを置くこと、一メートルの高さから水平な面の上に落下する長さ一メートルのまっすぐで水平な糸というアイディアを、その固有の、勝手気ままな変形のアイディアと結びつけること。それがおもしろかったのです。私に何かすることを決めさせるのは、いつも<おもしろい>アイディアなのです。そしてそれは三回繰り返された…。
 私にとって、三という数は重要なものです。でもそれは秘教的な観点からというのでは全然なく、単に記数法の上でのことですが。一、それは単位です。二は二倍、二元性。そして三は、残り全部です。三という言葉に近づいていけば、三百万だって手にすることができます。それは三と同じものです。
 私は自分が望むものを手にいれるために、三回繰り返すことに決めました。私の「三つの停止原基」が三回の実験によって得られたもので、少しずつ形が違っています。私は線を保存し、変形した一メートルを得たのです。それは罐詰にされた一メートル、お望みなら、罐詰にされた偶然です。偶然を罐詰にするというのは愉快だ。
――ピエール・カバンヌ×マルセル・デュシャンデュシャンとの対話」ちくま学芸文庫 p.90

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

つまり「停止原基」が3つであることに、デュシャンとしては、十分な意図を込めていることになるが、まあ、いいか。残り全部からも漏れてしまう純然な付け足しの余白が4つめ…。常用漢字の数だって、一二三はみたまんまだけれど、四から異なるステージに移行しているような感があるし(納得の理由になっていない)。
単に投げやりであることを美学としているかような浅はかな印象を、いつのまにか乗り越えて、単純な真実として誠実な美術家としてデュシャンがいい、と思えるようになったのと、芸術を絶対的客体とするのではなくて、むしろ現実の余白(余力、といってしまったいいとさえ今は思う)をどれだけ気持ちよく再統合して見せるかの経験の持続なのかも、と思えるようになったのは、ほぼ同時だったように、今は思う。上述のコーヒーの味の話ではないけれど、そこで自分の中で、エンドルフィン分泌への回路が、用意されたのだろうという理解にしておきたい気持ち。わかりますか(ヴォネガットの真似)。
デュシャン NBS-J (タッシェン・ニューベーシック・アート・シリーズ)

デュシャン NBS-J (タッシェン・ニューベーシック・アート・シリーズ)

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最近購入したCDをかけながら、読書。
ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション2「エッセイの思想」をパラパラ。本命は取録されている「物語作者」。最近読みかけているピーター・ブルックスの「精神分析と物語」精神分析と物語 (松柏社叢書―言語科学の冒険)にこのエッセイについて触れている章があるので、下読み。精神分析と物語という題名が指し示すような関係については、トマス・ハリスが、緊張感からいえば駄作と思える「ハンニバル」で、かつてのレクター教授の看守に「博士は精神分析を科学だとは認めていません。あれは文学です。」と言わせるのを読んでから、ずっと興味がありました。
まずはブルックスによっても引用されているベンヤミンの有名な警句を。

この経験は私たちに、物語る技術がいま終焉に向かいつつあることを告げている。まともに何かを物語ることができる人に出会うことは、ますますまれになってきている。そして、なにかを物語(ゲシヒテ)をしてほしいという声があがると、その周囲に戸惑いの気配が広がっていくことがしばしばである。まるで、私たちから失われることなどありえないと思われていた能力、確かなもののなかでも最も確かだと思われていたものが、私たちから奪われていくようだ。すなわち、経験を交換するという能力が。
――ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」ちくま学芸文庫P.284

ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)

上の引用でベンヤミンが嘆く状況が、第一次世界大戦後の傷付いたヨーロッパだけに限定されるものであるのか、ないのか。不謹慎かもしれないが、実はそのあたりに興味はない。質を問わず消費されるものとして、あるいは生きられるものとして物語は溢れている。だから、ここは「まともに物語るべき物語を持っている人は」と言い換えるか、「まともに物語を消費できる人は」と落ち着けるくらいになるのが妥当なのか。
物語論は時に内容と形式を分けずに、必然性に居直るか、記号の照応関係のモザイクに呆けて、不健康な方向に流れていってしまう。そういったときは、下記に引用するような、藤井貞和の静かな怒りの細やかさを想起して、あるいはジョン・フルシアンテが自身の音楽について語るように(最近の「ギター・マガジン」のインタビューで読んだのだ)、頭でつくるものではなく、実際に手を動かしてつくる経験としての「物語」という作業を思い起こしてみるべきなのかも。

物語文学はけっして語られることからもたらされるものではなく、語りと密接にかかわりながらも、あくまで書かれる生産(あるいは消費)としてあります。そこを突き詰めてゆくことから、あるバランスが失われます。書くことは語りとの緊張関係のもとに流動しはじめます。書くことと語りとが緊張して格闘する、その様子が見えて来ないはずはありません。
 〜引用者による中略:ここで有名な源氏物語の書き出しが引用されている〜
この有名な物語の冒頭の一文について、これを何か動かすべからざる言語のテクストであるかのように神聖化してありがたがる必要はどこまでありますか。物語の激しく動き続ける情動のなかから選ばれた一文であっても、物語の冒頭の書き方がこれ以外にあって悪いはずがない。極端にいうと、作家である人に、源氏物語の冒頭をもう一度書いてくれとわれわれがせがんだとして、作家は再び同じ一文を書いて示すことでしょうか。二度と同じ文を書かないという気がします。
――藤井貞和「物語の方法」P.101

もちろん、その通りだ。

物語の方法

物語の方法

話がずれてきているのはわかっている。
また、ここには戻ってこよう(これは、高橋悠治エリック・サティ論の真似)。

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聴いていた音楽はといえば、These Are Powersというブルックリンの当世バンド。
1ST「Teriffic Seasons」は、NoNEWYORKそのまんまなサウンド
No Wave: Post-Punk. Underground. New York 1976-1980ボーカルもMARSかDNAのアート・リンゼイが蘇ったように錯覚。ノイズまじりのメタル・パーカッションの引きずるようなテンションにメロディーというものがあることを知らないような痙攣ギター、言語を忘れ去りたいかのようなボーカル、とくればNoNewYorkを経由した80年代の典型的なUSアングラ・ジャンク・バンドだが、聴いていて意外にエピゴーネンくさくなってこないのは、こうしたスタイルをとることに彼らなりの必然性があるのだろう(と簡単に片づけていますが)。ライナーによると、彼らは自らを「GHORST PUNK」と形容しているそうな。なろほど?「BAD MOON RISING」あたりのソニック・ユースに霊感を受けているのは明らかだし、ここまでそっくりであることに、割と戸惑いを感じてしまう、おっさんリスナーでもあるのですが、鬱屈しながらもヒリヒリとした感触は、久しぶりだし、ひとまず気持ちよい。

Terrific Seasons

Terrific Seasons

次のミニアルバム「Taro Tarot」では、明らかにそこから脱皮してスケールが大きくなって、ある意味、聴きやすく、独自のおもしろさに突入している感じがする。
Taro Tarot

Taro Tarot

そして直近のアルバムである2NDフル・アルバム「All Aboard Future」では、女性ボーカルがフロントに出てきて、ノイジーなビートがさらにコミカルといっていいほど際立つ仕上がりになっていておもしろさに脳がかゆくなる錯覚がする。音楽も、ジャンク・バンド然とした前の2作から比べると、ジャーマン・ロックめいた冷えたトリップ感が出てきているようにも。
ジャケットのアートワークもアウトなドローイングから離れて、ローファイな魔術性と諧謔が感じられるアートワークに変わった。彼らの代表作といわれるようになるのは本作なのでは、と自分には思える。とはいえ、最近はCDというか、アルバムという形態が岐路に立たされているそう(自分としては、お気に入りの一曲だけをダウンロードしてそれがどうした、と思ってしまう人間)だから、そんなパラダイムが形成されるのかどうか、責任はもてませんし、責任はありません。昨年から当世風のロックを避けてきたけれど、これならいける。
All Aboard Future

All Aboard Future

1STあたりのライブ映像を観ていると、「ソニック・ユース・チルドレン」っていってもいいのかな、なんて思ったりしたが、最近作の曲の映像を観ると、それはちょっと違う。These Are Powers、この人たちは、自分たちのリズムと痙攣に夢中なのだと思う。


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もう一枚。
FAMILY VINEYARDからリリースされたLoren ConnersとJim O'rourkeの「Two Nice Catholic Boys」。1997年ヨーロッパの各所でのギターデュオ即興を3つ納めている。1997年といえば、オルークが自身のレーベル「DEXTER'S CIGAR」からコナーズの名作「IN PITTSBURGH」をリイシューし、コナーズとアラン・リクトのプロジェクトである「HOFFMAN ESTATES」のプロデュースを準備していた頃らしく、ふたりにとっての蜜月だったのかもしれない。
内容は、はっきりいって想像つく通りの、スローモーション即興で、滲み出してきたブルース未満(ゆえにまたブルース)の淀みを、ノイズでまたゆっくりと攪拌する永久遅延運動。コナーズ節が好きな人/あるいは人生の一部をコナーズ節で無くした人(→わたし)には、演奏がはじまった瞬間に心の細胞壁が蒸散してしまいそうなくらい、たまらないものになっております。
3つの演奏のタイトルのつけかたが、また適当でいい按配。
1)Maybe Paris (たぶんパリで。22分6秒)
2)Or Possibly Koln (あるいは、ケルンかも。14分16秒)
3)Most Definitely Not Koln (ほとんど絶対にケルンじゃない。10分41秒)

Two Nice Catholic Boys

Two Nice Catholic Boys

これはアラン・リクトとのデュオ。大差ないといえば大差ないんですけども…。

これはアラン・リクトのインスタレーション。たまらない雰囲気だ。

これも貼っておきます。

ノイズ・ギタリスト、アラン・リクトは文化人としても面白い人で、昔ドラッグシティーから出た極私的80年代文化回想録「マーサ・クインへの激情的な想い出(An Emotional Memoir of Martha Quinn)」が面白かった。自分で日本語訳してみたい、と思ったほどだ。マーサ・クインというのは、MTVの初代ヴィデオ・ジョッキーらしい。アングラ一途なアラン・リクト側からの思い出だから、このあたりはニヒル(死語としても聴かないな)である。
An Emotional Memoir of Martha Quinn

An Emotional Memoir of Martha Quinn

この頃、「レーベル買い」をしていた唯一のレーベル「ドラッグ・シティー」はロックの梟雄メイヨ・トンプソンのレッド・クレイヨラを現場に戻したり、John Faheyのおそらくは唯一の著書を出版したりしていた事も思い出す(アマルコルド!)。
How Bluegrass Music Destroyed My Life: Stories

How Bluegrass Music Destroyed My Life: Stories

(これは未読)
このあたりでYouTubeをさぐっていたら、デレク・ベイリー御大の映像を見つけた。友人に囲まれて和んだ雰囲気のなかで、御大としては珍しく、わかりやすいコードをポロポロと弾いてみせているではないですか。でも、そのあとすぐに流麗とすら形容できそうな、御大の即興に雪崩れ込んでいくその切断面の滑らかさにこそ、僕らは耳を啓くべきかと。
フリー・インプロヴィゼーションを好きな人であってさえ、ベイリーの音楽の、音楽的語法からの分離・隔絶ばかりを話題にし過ぎている、と僕は思う。問題は音楽のアーティキュレーションであって、ベイリーこそが初めて、純粋にアーティキュレーションを聴衆の前に差し出してくれたのだ。もちろん最高級のアーティキュレーションであることは言うまでもない。
「音楽」を掴んでしまえば、ほら。
どこからでも始めることができるし、
終わりから始めることだってできる。
それに音楽に終わりがなければ、なによりだろ?
とでもベイリーは言っているように、僕には思える。

ちなみに、御大の後ろに立って微笑んでいるのがアラン・リクトではないかと思う。
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あとは、オリヴィエ・メシアンの「鳥のカタログ」。鳥のさえずりを採譜したというエピソードから安易に想像してしまうような音楽ではまったくないある種、厳格なところに興味がつきない。

Messiaen:Catalogue D'oiseau

Messiaen:Catalogue D'oiseau

ひさしぶりにコレ↓を聴く。やっぱりマーティン・デニーの唄が好きなんだな、僕は。
UNHALF BRICKING

UNHALF BRICKING

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい