みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

徹底的に、遅らばせながら、ルー・リード「ベルリン」を観る

先日のエントリーで触れたアントニーとルー・リードの『キャンディ・セッズ』の映像。2006年にブルックリンで演奏された『LOU REED'S BERLIN』のアンコールのものだと今日知って、赤面。
いや、冒頭からコーラスで喉を鳴らすアントニーを観た瞬間に、「あ」と思ったのですが…。

ルー・リード/ベルリン [DVD]

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ルー・リードは「ベルリン」を1973年に録音した。それは商業的な不成功で終わった。彼はその後33年間ライブで封印した。

というコメントに対して、さして驚きは感じないくらいの、ルー・リードのリスナーではあるかなと思うし、Sad Songなんかは、確かブートのライブ盤なんかで確かやってなかったっけ、とさえ思うのですが、ルー・リードの73年作「ベルリン」について、何か思い入れを込めた文章を書けるわけではないです。

むしろ、Velvets時代や、「ワイルドサイドを歩け」や、「コニー・アイランド・ベイビー」や「ストリート・ハッスル」や、「ライブ・イン・イタリー」や「ブルー・マスク」だとか、「NEW YORK」(来日公演を観た)以降のアルバムは好きだったけれど、なぜか「ベルリン」だけは(もちろん耳を通してはいたけども)何かルー・リードのキャリアの中でも特異な印象で、アルバムを所有したりはついぞしかなかった作品でした。
一聴したときの「The KIDS」や「The BED」の印象が、「Sweet Jane」が好きな身としては、どうにもドラマ立てられ「過ぎ」のように思えたのかもしれません。
自分にとって、「ベルリン」といえば、当然コレです。

ベルリン・天使の詩 デジタルニューマスター版 [DVD]

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それは、どうでも良いとして。


過去の曲を再演するにあたって、リードの年老いた声帯がもはや不適当だという、生物学的なファンの認識或いは危惧は、この「ベルリン」でも見事にはぐらかされていて、むしろ年を経て、歌というよりさらに語りに近く、ドスが効くようになったリードの発声は、この架空のベルリンの娼婦を巡る三角関係とお定まりの悲劇らしき「ドラマ」部分に(リテラルな部分に)、さらに追い打ちをかけるような凄味(リアリティ?)を与えているのではないかと思います。

そして、アルバムを聴いたときから、ぼんやりと思っていたはいたのですが、このアルバムののドラマ的な部分と、音楽的な部分の、いってみれば、「乖離」のようなものが、「ベルリン」に作品としての生命力を与え続けている、という感慨も、本作でのルー・リード・バンド(ギターは当時のギタリスト、スティーブ・ハンターを起用)のマグマのようでもあり鋼のようでもある演奏と、ブルックリンの少年少女コーラス隊、ダウンラウンのジャズの精鋭を選りすぐったような面子が織りなす音楽の恵みを聴いていると、さらに強くなりました。

コーラスが、むしろ至福の音楽的体験をもたらす「Sad Song(悲しみの歌)」を聴きながら、自分の「ベルリン」への読みの浅さを思いました。
これまで、語り手である(限りなくルー・リードに近かったであろうと想定できる)「俺」が、娼婦であり、子の母親でもあったキャロラインの自死を嘆いての「悲しみの歌」だと思っていたのですが、たぶん、そうではない。
この歌では「人は間違いを犯すもの/時間を無駄にするのはやめよう/もしほかの男なら彼女の腕を折っただろう」というフレーズが、幾分、希望を持てるかのようなオーケストレーションをバックに繰り返されます。受取かたはそれこそ人それぞれだと思いますが、ここでは、最愛の人の死と子供との別離を乗り越えてさえ、平常に戻ろうとする人間の強さと酷さが不離なものとして、しかも性質悪いことに、美しさを伴って表出されているのだろう、と思いました。

そして、シュナーベルが監督した本作は、「ベルリン」収録の「Sad Song」で終わっているのではない。
その後のアントニーがソロをとる「キャンディ・セッズ」、それからシュナーベルたってのリクエストだったという「ロック・メヌエット」まで、ルー・リードの街角に奉げられれた子守唄は、闇と憐憫をさらに増しながら終わってはいなかった。特異だと思うのは、ルー・リードの場合、その憐憫は、語り手や登場人物の自己憐憫とは全く関係がなく、徹底的にドライに「彼女や彼ら」の生態を描写することで、観る者聴く者に憐憫の情に似たものを喚起させずにはいないということ、です。

かつて、Velvetsの「Ⅲ」の制作時、アルバムの最後に「After Hours」という可愛い小曲を書いて、それをドラマーのモーリン・タッカーに歌わせたとき、リードは「ここまで容赦のないドラマを自分で歌っておいて、最後の息抜きみたいなこの可愛い曲まで、俺が唄ったら、聴く者は、それを何か裏切りのようにとっただろう。それともう一つ、俺は、モーリンがいい声をしているって知っていたからね」と言ったらしい(今に到るまで唯一邦訳されたVelvetsの伝記本である『UP-TIGHT』で読んだと思う)のですが、それと同じように、最後にドラマから観衆が離れて、息をついて、現実に戻る用意をできるのは、最後の最後、DVDでエンド・クレジットが流れる「スウィート・ジェーン」の和んだ演奏でした。

大鷹俊一が相変わらずライナーで書くように、ジュリアン・シュナーベルが監督したこの映像作品が、ロック映像史に残るものであることについては、疑問の余地は特にありません。それどころか、ルー・リードの映像作品では最良のものだという確信が観終わった後では、あります。ジョン・ケイルとやった「ソング・フォー・ドレラ」も、Velvetsの最期の復活ライブ映像も、映像作品として考えると、ちょっとマニアックな限界を持ったものだったと思いますが、この「ベルリン」は、ジュリアン・シュナーベルという、ルー・リードを映像化するのには最高のセンスと、「節度」を持った男のおかげで、マーティン・スコセッシの『ラスト・ワルツ』程には、おそらく何度観ても飽きることがないであろうモメントにすることが出来ていると思います。

Berlin: Live at St Anns Warehouse

Berlin: Live at St Anns Warehouse

Berlin (Tour Edition-Digipack)

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あと、もうひとつ。
制作当時、ルー・リードがベルリンに行ったことがなかった、という暴露話も当然ながら、「ベルリン」は、ベルリンの名を借りた、リードの「ブルックリン最終出口」物語の数ある中のひとつなのだ、ということも、観る者の認識としては、あった方がいいものの一つかと思います。
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New York

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