コヨーテ語り:伊藤比呂美『コヨーテ・ソング』とその他のコヨーテ
まとまらんうちに、アップが遅れてしまったのですが・・・最近、手に取った本やCDに「コヨーテ」が目についたので。
先日ふと、伊藤比呂美の『コヨーテ・ソング』という本を読み抜けました。
大人な旅行雑誌(?)『コヨーテ』に連載されていた8編と書き下ろしも数編含んでいるもので(雑誌連載の方は全然、知りませんでした)詩集ともエッセイ集ともいえそうで・・・詩人の感性に浸しこんだ奇妙な民話集というのが一番近いかも。
コヨーテという動物には、ネイティブ・アメリカンの神話からして、それこそいろいろな物語がこびりついているけれど、これは一番私的で詩的なものになっている、といっていいのかも。『東京大学「ノイズ文化論」講義』asin:4861912849じゃないですけど、一番回収できないノイズ値が高い、にもかかわらずこの本の中には、気持ちの良い風が吹いている。
とにかく、「伊藤比呂美的」な言葉の旅が、「コヨーテ」に向けて、コヨーテをテコにして、またコヨーテになりきっても、進んでいくのですが、すんなり読み抜けられたら、特に問題ないけれど、もしかしたら伊藤比呂美独特の意匠にひっかからずにスルーするといけないので、ここで補足をしてみます。
伊藤比呂美といえば、昨年末に鈴木志郎康さんからお借りすることができた映像作品『毛を抜く話』でのデビュー当時の映像が興味深く、その後図書館でエッセイ集を借りたりして何冊か読みました。
中でも『河原荒草』は、極私的な語りが詩的になって神話的な語りにもなるという怒涛の大河長編詩でした。古本屋で立ち読みした本には、黒木香とセックスについてとりとめもなく語り倒すという対談集もありましたっけ。
伊藤比呂美さんが渡米したとき、いろいろあった理由の中に、以前から興味があったネイティブ・アメリカンの詩の原風景に出会うため、というのがあった、というのは、エッセイかなにかにも何回も出てくるので、伊藤比呂美の読者であれば、多分周知のこと。本作でもそれは、シートン動物記の雌コヨーテ・チトーに託されていて、
ほんとうは、
コヨーテに出会おうとおもった、そしてその呼び声を、
乾いてカラカラ鳴る闇夜の路上で、
耳をすませて聴こうとおもった、『コヨーテ・ソング』p.17
と書かれている。
もちろん、そういう前知識などなくとも、それぞれの短い章は相当楽しめるものであるわけですが、例えば、作者自身のモノローグが絡んでくる章などでは、上記のようなことは、知っておいた方が、まあ味わい深いものかもしれません。

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並べてみますと、それはこんな感じ。
「〜族の話から」というのは、ストレートに民話からの「語りなおし」という手法をとっていることの表明ですが、特に、「声をお借りしました」っていうのが、なんともいえず、いいです。単に引用のお断りですけど、この本の中の文章の末尾に置かれることで、註さえも、「うた」になっている(ように思える)のが凄いことです。そもそも詩人の言葉でさえ、ただひとりっきりで詩であるわけではないわけです。いろんな方面で流通する言葉との距離もあれば重なりもあるし、互引用の関係にもあるわけで。
引用され、引用されるうちに内面化され、また反復され、転倒され、細切れにされたりして、投げ出されていく言葉(文字)が、とても「音楽的」な効果をあげてもいます。全編、音読されてもいいものなのでしょうが、僕としては、これは頭の中で反芻・エコーさせつつ読み抜ける、のがよろしいかと思います。いろいろと下ネタ含有率が高いですので(ほぼ、それといってもいいかもしれない・・・)。
その伊藤比呂美さんもよく読んでおられたというのが、この金関寿夫の『魔法としての言葉-アメリカインディアンの口承詩』。

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ここには、『コヨーテ・ソング』の元ネタといえるコヨーテ説話のいくつかが入っていて、中でも「コヨーテじいさん」の話が特にいい。
コヨーテばなし以外で今でもときどき思い出すのは、下記の詩です。
ときどきおれは / じぶんのことが /
あわれになる/たとえば /
風にさらわれて /
空を / 横っとびに /
すっ飛んで / いくときなど
こんだけ、なのです。これで全部。
ユーモラスなのか、かなしいのか、このよくわからない感じはあとに残ります。少なくとも、ざっと20年くらいは僕の中に残っている。
とかツラツラと2週間前に書いていたら、店頭に『COYOTE』そのものを冠するアルバムが(アップが丸一ヶ月遅れているのがここでバレる)。

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実は佐野元春のニューアルバムをちゃんと聴くのは久しぶりだったりする。それだけに一聴、声が弱くなったか?とも思ったが、大きな問題ではない。
しなやかでタフなロックンロール、だとは思うが、どうも「コヨーテ」な広がりは感じられない。
つまり、佐野の「コヨーテ」は、あくまで佐野的な動機で名づけられた「コヨーテ」なので、他の「コヨーテ」と文脈を共有していない感じ。
とはいえ、そんなもの別に義務なわけでもなく、アルバムの出来が悪いわけでもなくむしろ良く(・・・その辺が優等生っぽい≒コヨーテっぽくない)、音の感触はもちろん全然異なるにしても、なぜか『TIME OUT!』のようなアンチームな感触と同じものを感じてしまった。しかし『TIME OUT!』は「ホームアルバム」と自称されたりもしたけれど、このアルバムは多分そんなふうに呼ばれることはないのだろう。むしろこのアルバムの中の情景は、佐野元春自身からはかなり距離をとられて出来ているような気がする。なによりもこの「COYOTE」、世界を荒地と認識する厳しさに裏打ちされている。それは、同じロマンティシズムでも生暖かだった『TIME OUT!』には確かに無かったもので、この「荒地」意識からすれば、大変のんきなものかもしれない。「バブル」か?とも思いはしますけれど。
コヨーテには、物語がこびりついている、とはじめに書きました。
佐野元春のコヨーテは、多分、そんなことわかりきっている。でも、この世界で未生の物語が自分自身を仮託できるほど多義的でありうる唯一の存在が、無理やり考えれば、「コヨーテ」だったのかも。今必要なのは、ノスタルジアではなくて筋肉だ。躍動し続ける肺だ。そんな思いもこのアルバムの風景の中では、通りすぎいくのでした。
さて、他に「コヨーテ・ポップソング」といったら何があるか?
すぐ思い出したのがこちらの『コヨーテ』。
ジョニ・ミッチェル。ザ・バンドのラストワルツでの演奏。どろくさい(まあ、そこがいい)ザ・バンド界隈の演奏の中で、この曲だけ異様に浮いてフリー・ウェイを疾走している。
日本の「さかな」のPOCOPENさんの名作ソロ『ボンジュール・ムッシュ・サマディ』。ここにも「コヨーテ」という曲がある。ここでは、コヨーテはハンモックに揺られている。
そういえばその昔、ヨーゼフ・ボイスはアメリカにコヨーテに会いに行ったのでした。
ヨーゼフ・ボイス『コヨーテ −私はアメリカが好き、アメリカも私が好き』
ボイスは、空港から救急車にのってギャラリーに乗り込み、そこでコヨーテと2週間過ごした後、そのままドイツに帰っていった(空港から車まで頑なに顔を隠して「アメリカ」を見ないようにしている様子が映っている)。
ボイスが会いたいアメリカは、コヨーテだけだった。
当のアメリカにしてみれば、押しかけ女房にわざわざ無視されるかのようなボイスのパフォーマンスが、傲慢だったのか誠実だったのかはよくわかりません。僕にはボイスはよくわからない人であり続けています。
ボイスにとってのアメリカは、コヨーテが表象する物語だった。
ところで、物語って言葉をいささか不用意に使用してきております。
物語(モノガタリ)の「モノ」ってなんでしょうか。
このブログは、こういうどうでもいいところに、立ち止まります。
「モノ」は、物で者でももののけでさえあるのであって、その証拠に昔「鬼」は「もの」とも読んだではないかと。そしてまた「モノ」は、かなりの確率でメラネシアの「マナ」(超自然的な力)ともリンクしているらしい、とか。そうしてみれば「もののあはれ」も哀れなだけじゃなくて、やっと本来的な相貌が窺い知れるだろう、と。
この霊的なものに接続してしまう説は、折口信夫が書いてから勢いづいた説らしく、まあ、オカルトな風味もあって受けもよく、かなり便利な決着ではあったのかもしれません。
しかし、詩人で国文学者の藤井貞和さんは『物語の起源』や『物語の方法』といった著作で、この説に冷や水をかけていらっしゃる。

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『古事記』には「物」という字や仮名書きの「もの」の例が四十ほどあるなかに、霊的存在を示すと見るならば見られる例がわずかに二、三例ある。一つは「万物之妖」(いろいろなモノの禍災)で、無理に霊的存在をさすと見る必要はないかもしれない。もう一つが三輪の大物主神あるいは大物主大神とある神名の場合で、これは蛇神さまを忌避して「もの」と称した、と見るならば、やはり霊的存在そのものを意味する事例にならない。
『日本書紀』には確実に霊的存在を指し示すという例が見当たらない。
(中略)
えたいの知れない、名づけようのないしろものだからモノだというので、しかもそれをさして言うことをはばかられる存在であるとすると、一般的、抽象的にモノと呼ぶほかはない。かくて忌み詞として使われることから、モノ=霊的存在という意味が付着する。「もののけ」「ものにおそはるる」「ものの変化」などの「ものは」すべて、邪鬼や妖怪、生き霊、死霊などに就いて、直叙を避けて、「何かの気配」「何かえたいの知れないものにおそわれる」「何かの霊的存在」と称しているので、「もの」自体はあくまで存在一般を漠然とさしあらわすための抽象度の強い語としてある。
いうまでもなく『古事記』で言うと、みぎにあげた二、三例を除く圧倒的多数が、物象一般、つまり品物や産物や衣類などと、「物言」「ものまをす」あるいは「物」を食うなどの動詞の対象となる例、および歌謡のなかでの形式名詞「〜もの」とであって、現代語の「もの」と用法上、まったくかわるところがない。
「ものとは、霊の義である」ときめつける意見はむちゃというほかはない。
『物語の起源-フルコト論』p.191-192
また、「モノ≒マナ?」説についても、藤井貞和さんは『物語の方法』で、「関係があるか、分かりません。マナを持ち出すと議論が拡散します」と述べておられる(この本は講義録)。モノについては結局、
存在を漠然と、一般的に、非限定的に指示する便利な語として、上代の世界に息づいている。存在を一般的に、非限定的に指示しうるとはなんと経済的な語であることか。モノガタリのモノは、この語のもつ、存在を一般的に、非限定的に指示する機能のなかにその意味内容を第一に求められなければならない。
同p.201
というあたりが藤井貞和さんの提案になっているようです。
モノが一般的な物を非限定的に指示するものだったとして、物象や自然に神性を認めてる環世界なのであれば、もちろん物象はアニミズム的段階において霊的存在になるわけですが、だからといって、霊的存在がモノという語の意味領域全体に浸透しているわけではない、ということでしょうか。昔だって、そりゃ物は物でしょう。
『物語の起源』では、日本人が書かれた物語文学をする以前に、「カタリ」という作業があったのであり、「なにを」という地平で、「モノ」と「コト」があったのだと、乱暴に詰めていえば、そんなことを書いておられる。そして、モノは当然上記のような副詞的なうごきをするものでもある。コトは「古い事」・「旧辞」で、「古事記」なんかはそのまんまこの「フルコトをシルス」だったのらしい。むしろ「カタル」とか「ヨム」といった作業の違いの方に実は重点がある。
さて、なまのコヨーテとは当然無関係ですが、すくなくとも文化人類学的な「コヨーテ」のふるまいも非限定的です。その属性は、断然「まぜる」。「こわす」でもいいかも。
底抜けにスケベだったり、世界を造ったり、おならがとまらなくなったり、昔歯が生えていたという女性の陰部を正常に戻したり(伊藤比呂美『コヨーテ・ソング』にも採り上げられている話)と、トリックスターといえばコヨーテで、なんでもコヨーテのせいにされているように思えるし、数万回の否定神学的問答の末、腑分けもできないモヤモヤが、みんなコヨーテにひっつけられているようなモテ振りは、なんだかコヨーテも「モノ」めいてはいる、のかも。(強引だな・・・。)
コヨーテには、物語がこびりついている。表現者はそれを知りながらもなお、それらを利用しながらまたすり抜けていく自分の願いとして、コヨーテを表象せずにはいられない。そんな感じでしょうか。それにしても「コヨーテ」という文字は明朝体で表示されるほうが味があっていいな。
最後にややお約束めいて、The Velvet Undergroundが1993年パリで一夜の再結成ライブを催したときのアンコールでただ一回だけ歌われた、30年振りの新曲『Coyote』。地味といえばこの上なく地味な曲ですが、ヴェルヴェッツ(時代のルー・リード)が決してやらなかった自己言及を、一片の照れもなく表明したともとれるこの曲を、最後の最後にそっと置いて、このバンドは永久に立ち去りました。
Coyote on the top of the hill
Ooh doin' the thing that coyote will
Starin' at the sky, looks at the moon
He starts to howl
Coyote up on the a moutaintop
Blood in his jaws, the bone he drops
Says, "No tame dog is ever
ever gonnna take this bone"コヨーテが丘のうえ
いかにもコヨーテなことをやる
空を見て、月を見つめて、吠える
コヨーテが山のうえ
あごには血がつき、
くわえていた骨を落としてこういった
「飼いならされた犬に、
この俺の骨を盗るなど絶対、
絶対できはしないだろう」

- アーティスト: The Velvet Underground
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