みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

つねに書き直されつつある伝記:『崩壊ホームレス―ある崖っぷちの人生』を読み終わる

nomrakenta2008-03-20


アントニオ・ネグリが来日を断念したらしい。
なんでも入国管理局に70年代以降の政治的過去と法的地位に関する資料を提出するように求められたとか。そんなものを求められたのは、この5年間22カ国を訪れた中で日本がはじめてらしい。ウラゲツ☆ブログ

今日はなぜか猛烈に眠かった。
眠気が深いところから懇々と込み上げて来る感じ。抵抗するのはやめて、瀧道歩きにも行かずに昼過ぎまで眠りこけていた。
一日を無駄にしてはならじと読みかけの『崩壊ホームレス―ある崖っぷちの人生』(原題:「STUART:A Life Backwards」)を読了。
読み終わって、この本が冒頭から、スチュアート自身のアイデア

「逆回転してみるのさ。もっと、殺人ミステリーみたいに。何がかつて少年だった俺を殺したのか?わかるか?さかのぼって書くんだよ」
p.11

通常の伝記作品とは真逆にひとりのホームレスの人生をさかのぼっていく形をとっていることが、手法的にも厚みを与えているだけではなくて、結果的に読者にとっても救いだと思える気がしてきた。
そもそもの起源から書く事。
つまり、この本の第一稿が、そのようなものだったと仮定して、それは多分、スチュアートの物語の場合、やりきれない悲痛さをもたらすものの、なにか入り込みにくいものになっていたんじゃないかと思う。
順番を逆にすることで、といっても映画『メメント』ほど徹底したものではなくて、随所に現実(アレクサンダーとスチュアートが共に過ごす時間)が差し込まれながら行きつ戻りつする構成をとることで、通常伝記ものを読むときの物語進行の不可逆さへの息苦しさのようなものは、一応なくなっている。
そのかわりに、読んでいる間のめまいのような感覚が、最後あたりにスチュアートの「暴力」と「無軌道」の起源と出会うあたり(「俺がバイオレンスを見つけた日」10歳〜12歳)では、あるトラウマへ物語が収斂していく感覚が濃厚で、そこはやはり「ああ、またしても」という感慨がないわけではなかったのだけれど。最初、読者はスチュアートの「カイヨーティック」振りに、ほとんど理由のないものとして出会うけれど、終盤ではそれは十分納得のいくものとはいえないにしても(その点は著者に同感できる)スチュアートがなぜ児童犯罪者が嫌いだったのかくらいはよく理解できるようになる。

冒頭にスチュアート自身に「クソ退屈」と却下されて、リバースモードで書き直される伝記。この本は、その破産した時点を語り始めの機軸にして、またお話を綺麗な形に鋳直すことは、賢明にも放棄したのだと思う。
著者のコントロールと理解を常に超えていく、ひとりのホームレスの人生を、その躁的な饒舌さを、無軌道ぶりを、愛おしさを、そして80〜90年代のイギリスのジャンキーやホームレス(この二つは密接に関係していたらしい)の状況を、できるだけ損なわずに、読者に向けて「物語」として開けておくには、どうしたらいいのか?
下に引用するような、何気ない会話が、物語のトラウマの内海に沈まずに済むようにするにはどうしたら?
この小説は、結果的にそんな要請に応えるために最善の方法を採ったのだと思える。

「じゃあ、君はそこまで努力して、一組のナンバーを持つ使えない車を、盗難車のナンバーを持つさらに使えない車に変えたってことか?なぜ君は、単純にいい方の車にそのナンバーを取り付けないんだい?」
「どうやっていい方の車を『ring』するんだ?そいつはぶっ壊れてんだぜ」
「何?違うよ!ぶっ壊れているのは別の方だ。君がオークションで買った方」
「違う。それがいい車なわけ。だめなのは盗んだ方だ。だって、それは合法じゃないんだから。だろ?『いい』ってのは、質がいいの『いい』って意味じゃないの。『いい』は警察が君を捕まえて刑務所送りにしてしまうかどうかって意味の『いい』なんだ。だろ?」

p.289

崩壊ホームレスある崖っぷちの人生

崩壊ホームレスある崖っぷちの人生