キャラクターズのファイヤーワルツ:東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』を読み了る
昨日のエントリに引き続きまして。
結論から言うと、僕は好きです。こういうの。
メタフィクションっぽいから好きなのか、といわれれば、はいそうですすいませんとしか言えませんが、モノガタリを書くモチベーションを作り出そうとしている態度が結果的に伝わってきたような気がしたので、まる。
(以下、少々の引用ネタバレを含むのでご注意ください)
東浩紀のデビュー作が出たときの事があんまり憶えておらず、デリダを真っ向から思考した、とされるその未配達郵便的不安をたたえたテクストが何を言ってるのかさっぱり理解できないながら「あれ、まだこういうのって有効なのか」と思った覚えだけがある。その後の動物化するポモとかゲーム的リアとかは全く読んでいないが、わかりやすい方にシフトしたんだなあとは思った(・・・浅い)。共作の桜坂洋という人に至っては「よくわかる現代魔法」という作品があるようですが、すいません全く知りません(作中登場しSを助ける女って、やっぱり「現代魔法」のキャラなんだろか?)。
1章ごとに書き代わっておられるような感じなんですが、読んでいるうちにどれが東氏でどれが桜坂氏によるテクストなのか、よくわからないようになってしまったし、気にもならないようになった。ただし、これは「共作」という要素が成功しているのかどうかの判断には全くならない。
明らかに物語展開(というかノリ)として模されているような気がする「脱走と追跡のサンバ」では、確か「ドビンチョーレ」という新思潮だか小説の新形式だかが、作品世界のガジェット(現実世界のパロディ)として使用されていたと記憶します。
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現在の小説の「私」に表れているものは、虚構へのあきらめみたいなものなのではないかとぼくは思う。近代以降の日本文学は、構造と文体の透明性を確保し「私」を投入することで読者が小説世界に一定のリアリティーを感じられるような仕組みになっていた。
などと、一見乱暴に「私小説」と対峙しているような言説も多いので、多分そんな角度から批判も受けるのだろうけれど、それは計算済みだろうし、最後はおもしろいかどうかだ。
ところどころグッとくる言葉が。それは、ゆるい「共感」というのでなく「気概」を感じるというような意味で。
かつて二十三歳の新井素子が宣言したように、小説とは、作家のためのためでも読者のためでもなく、ましてや編集者や書店員のためでもなく、なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」という名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだということ、そしてそれこそが、文学が人間に自由と寛容をもたらすと言われていることの根拠なのだ、という基本原理を、この作品の解釈において永遠に訴え続けてほしいのだ。それがぼくの遺言だ
論の是非はあえて問題にしない(「論」ではなくキャラによる「言」だいえる事がこの短編最良の担保でもある)し、判断する能力も僕にはありませんが、例えば上の引用に至るところまでなんかは、作品の肝でしょう。この言葉に厚みをもたせるために/この言葉が白々しく響くことがないように、延々と200枚の原稿が蕩尽されていると思えば、ちょっとうるるんとしないだろうか?
あえて付け加えると、「キャラクター」が現実ではないという理由で、この作品を糾弾することはいかにも「現実的でない」と言える。
この作品に限っては「共作」というファクターが有効に機能しているのかどうか実は微妙な気もする。だけど、前半のすっとこどっこいな導入から、ありとあらゆるウンチクを駆使して3人の人格に分裂し(というか東浩紀としての一人称が3つになります)、滅茶苦茶な論理で朝新聞東京本社ビルの爆破に向かって収斂するところは、ありえないのだれけど、「ファイアー・ワルツ」でのエリック・ドルフィーの真っ赤に灼けた臓腑そのもののようなソロを空耳させてくれた(実はそれだけで僕にとってはありがたい作品)。曲を促すブッカー・リトルのトランペットが、この作品では桜坂氏の「小説的」な手癖と呼びうる部分なのかも。
もうひとつ、物語の最後で、言葉は必要ない、
この光景の意味が伝わった人は、友人に話し、あるいはブログを書く。そのブログを読んだ人が意味を解釈し、言葉を発し、さらに読んだ人が解釈して言葉を発する。ぼくたちがやるべきだったのは、新しい言葉がはじまるきっかけをつくることだったのだろう。ひとつの言葉は単なる記号だが、束ねられ世に解き放たれた言葉たちは記号以上のものとなり
とイメージする部分がある。最近読んだ『言語態分析』asin:4766413687の「言語態」のことを考えてしまった。
「私」から発して「私」に収束してしまうのではなく未生の「言語態」の成員であり、また絶えずそのきっかけとなろうともする言葉の編成作業、それが「小説」であるべきだ(「小説」でなければ「物語」する行為だ)といいたいのかもしれない。
だとすれば、相当いいっす。
その調子で、この「キャラクターズ」の可能世界を続けてもらって、ドゥルーズ×ガタリでも、ハート&ネグリでもなく、シンイチとミギー(『寄生獣』)を目指して頂ければ、僕としては言うことがないです。
蛇足ですが、この短編を読んで、ラカンやデリダを読んでみようとは思わなかったけれど、マリー・ライアンの『可能性世界・人工知能・物語理論』や藤井貞和の『物語理論講義』なんかが、あらためておもしろく読めそうな予感がしていて、そしてそんな「小説」は長いことありえなかったなあ、とも思うのです。
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可能世界と物語理論、知的なおもしろさが詰まっている予感は確信に近いのですが、まだ読みきれていません。
巻末の訳者による解説がまた濃厚。
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わけもわからずロラン・バルトに行くより、まずこれを。
「物語人称」などの柔軟なアイデアは、多分「キャラクターズ」を愉しむのに役立つでしょう。