昨夜、雪がふったので、山へといった。(そのほか、古本屋さんについて)
(吉増剛造の詩『葉に噛む阿修羅に連れられて』*1にイントネーションをお借りしています)
先々週の雪の日とは違って、一時的な積雪量は負けはしないものの(といっても東北や北海道に住んでおられる方からは笑われますが)、腰が弱く(っていうのかな)10時くらいにはなだれをうって溶け出していた。
風も強くて、木々の枝や葉に残った雪を、ひと薙ぎするたび吹き払って、その軌跡が白い粉のくっきりとした放物線になって宙にしばらくとどまっているのが、気持ちよくなってきた陽射しの中照らされているのを歩きながら見ていた。
瀧道のところどころ、朝早く来た親子がこしらえていったと思しき、雪人形(・だるま、とはいえない。いわない)が残っていて、溶けてだしながらこちらに微笑んでいた。
帰ったら昼を過ぎていて、今日は昼寝しようとか思っていたけれど、なぜか無性に梅田の街に出たくなって、やっぱり出かけた。いつも通勤で通っているのに、休みの日になぜわざわざ行くのか。
久しぶりにかっぱ横丁の「阪急 古書のまち」へ。こういう日は古本屋さんの棚面(ほうめん)を眺めるのがいちばん(告白するとタワレコにも行きましたが)。
久しぶりだったせいか、目ぼしいものに複数のお店で遭遇。音楽・芸能・演劇方面に力を入れている杉本梁江堂さんで音楽之友社から1998年に出版された『おもちゃが奏でる日本の音』(茂手木潔子著)というCD付の本を見つける。まだCD(巻末にスコアが載っていて、なにやら本格的)のほうは聴いていないけれど、カラー図版で載っている伝統的な日本のおもちゃが可愛くて、また賢そうでたまらない。
文学・哲学関係に強いもう一軒(名前を失念、すいません)で、昨年藤井貞和の「物語理論講義」で触れられていたロラン・バルトの『S/Z バルザック「サラジーヌ」の構造分析』を安く見つける。版元のみすず書房が復刊していたけれど高すぎて手が出なかった。藤井貞和は『S/Z』そのものではなくて、物語論上なかったことには決してできないバルトの「作者の死」を宣告したテクスト群について、回顧的に触れて果敢に「いや、そうは思わない」と言っていたように思う(「その論文」とは、『作者の死』の事で、『S/Z』の事ではありません)。
批評には時効がないから、三十年以上まえのその論文をひらいてみよう。と言うか、今日なお参照されつづける文献だ。ひらくと、この文学批評の名人の手になる「作者の死」は、女装歌手をあつかうバルザックの小説『サラジーヌ』(一八三〇年)の引用からはじまる。
それは女特有のとつぜんの恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった。
(「作者の死」花輪訳)
と書かれる箇所にいま注意を向ける。女装する一登場人物について、原文の「それは・・・・・・・・・まぎれもない女だった」と語る、上記の箇所を衝いて、「しかし、こう語っているのは誰か?」とバルトは咎める。
ここでもう私の思いをさきに言ってしまうと、「・・・・・・・・まぎれもない女だった」と語るのが、語り手そのひとであることについて、何の疑問もなかろうと思えるのだが、「作者の死」の著者は、「こう語っているのは誰か?」と疑問を発したあと、女の下に隠されている去勢者を無視していたいこの中編の主人公か?個人的経験によって、ある「女性」哲学をもつようになったバルザック個人か?女らしさについて《文学的》意見を述べる作者バルザックか?
万人共通の思慮分別か?ロマン主義的な心理学か?それを知ることは永久に不可能であろう。と述べる。つまり発した疑問への回答例として、登場人物や、作家そのひとや、万人の思慮分別や、「心理学」は挙げるものの、語り手だけはけっして挙げようとしない。繰り返すと、答えは語り手(「私」=中編の主人公)であろう。しかし「知ることは永久に不可能であろう」と反論を封じたうえで―不可知を宣告しただけでは「作者の死」を明言できないと思うけれど―、テクストをどう受け取るか、読者よ自由に勝手に読みとれ、と享受者を持ちあげる。
この引用が書かれている章のタイトルは「語り手を導きいれる」。もちろん、藤井貞和は単にロラン・バルトに対して、そんな当たり前ことを意図的に無視するなよ、とだけ言っているのでなくて、藤井貞和自身も影響をもろに蒙ったであろうバルトの文学理論を乗り越えようとして、わずかな間隙を衝いて、極私的なひっかかりから手製の梃子をつくりあげるようにして論を展開しているわけですが、その手つきが誠実な国文学者らしく、また現代詩人らしく頼もしいと思ったものです(…なんか偉そうだな)。思うに、日本人だけでなく、人間は本質的に言語中毒だからこそ「物語」中毒だし、絶対に「作者の死」など受け入れることはできないし意識もできない。だから読者の専横などはありえない、と思う。作者と読者のスキルが限り無く近づいて侵食しあうケースは考えられるけれど、その両者の立場自体は無くなりはしないし、それこそ一時の中断もなく求められている(大塚英志が今神戸の大学でやっていることもそんな中の一つだと思う)。別にそれが「小説」でなくともよくなっただけの話で。
あらら、軽く触れるつもりが、長くなってしまった。。
個人的に嬉しかったグレゴリ青山の漫画『ブンブン堂のグレちゃん―大阪古本屋バイト日記』のモデルと思しき加藤文京堂さんでル・クレジオの『向こう側への旅』という「新潮・現代世界の文学」の一冊として出版されていた小説を見つける。ナジャ・ナジャという女の子がどうもファンタジーというか、幻視的な旅をする物語のようだけど、ぱらっと頁をめくってみると
ナジャ・ナジャは、太陽に向かって出発する。ナジャ・ナジャは羽根の生えた蛇に似ている。波よけのコンクリートブロックのなかから、海にむかってすこし傾いているような適当なものを選び、服を脱いでその上に横になる。太陽が、もやでやや隠れているような日でなければいけない。
----ル・クレジオ『向こう側への旅』p.42
と、いきなり書かれていて、なかなか強烈な言語体験ができそうである。ま、文脈をまったく無視しているのでただの比喩なのかもしれませんが。
お会計のときに店の方に『ブンブン堂のグレちゃん』について訊ねてみたら、やっぱり文京堂さんのことみたいだった。店長さんは恥ずかしくって嫌といっておられるとか。でも、そっくりだからなあ・・・。ここまでに買った古本の包みを数冊小脇に抱えている僕をみて店の人が「阪急 古書のまち」特製のビニール袋をくれた。ちょっと嬉しい。
最後の一軒で、アメリカのポストモダン文学について論文を集めた本を見つける。『身体、ジェンダー、エスニシティ』という本で、2003年に出版されているにも関わらず、冒頭でいきなりリオタールの「大きな物語の死」をもってくるあたりにクラクラッときた。私見では2003年にはすでにポストモダン的な言説って権威を失っていたように思うが・・・そんなことはお構いなく身体・ジェンダー・エスニシティ、である。なんだか懐かしいというか頼もしくなってしまった。自分が「ポストモダン」的な言説にいまだに両義的な価値を認めているのは自覚があって、これはなかなかやめることができない。思えば、ポストモダン的な風潮が一気に退潮していく直前の風景を僕は学生のときに見ていたのであって、いかにもインチキくさいものもあったけれど、書籍部に並ぶ本はどれも読みたいと思っていたけれど頭とお金がついていかなかった。現在とて別に理解できているわけではないけれども、「彼ら」の息の長い文章をちょっと付き合えるようにはなったから、余計にぶり返してきているんだろうとも思う。で、この本ですが、キャシー・アッカーとかポール・オースターとか、ジョン・アッシュベリーなら僕も知ってはいたけれど、まだまだ知らない作家がいたんだという割りと平凡な感慨が新鮮だった。
特にヒロミ・ゴトウという日系カナダ人の作家の『キノコの合唱』(1994年)という作品に関する論文が興味深かった。論文を読んだ限りでいえば「語り」によって圧倒的な他者である自分を取り戻すというか、他者性をすり抜けていくという半自伝的な物語みたいで、その過程で日本からカナダに移住したオバアチャンが日本の神話や民話を自分なりの改変を加えて孫娘ムラサキに「語り直す」ことで自分自身も取り戻しさらに変容していくというフェミニスト版の大江健三郎『同時代ゲーム』?みたいな印象を持った。邦訳は出てないみたいだけで、ちょっと読んでみたいかもしれない。
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こんな感じで、かなり収穫のあった「阪急 古書のまち」巡りでしたが、そういえば、いく古本屋がことごとく、帳場(っていうの?)でノートPCを睨んでいたのに今気づく。中には僕が本を買うと、やっとディスプレイを見つめ続ける以外の動作が出来た、という風にする人もいた。考えてみれば、今の古本屋さんの売り上げの半分以上がたぶんネットを通してのものなのだろうから、注文が入った本は即座棚から撤去しないとえらいことになるわけで、そりゃ大変だろうと思う。ネットに特化するかネット専用の在庫を持つか、なんていうのは現状「古書のまち」にとっては難しい話なんだろうなあ、とかこの思わず長くなってしまったエントリーを書きながら思うのでした。