ダウンタウンへくりだそう
とつぜん、『ダウンタウン』が聴きたくなってヤフオクで購入。
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架空のラジオ局仕立てになっていたことをはじめて知りました。
この頃のポップスを聴くとなぜかいのちがけな感じ(説明が難しい)がして、懐かしくも頼もしい。
肝心の『ダウンタウン』は記憶とちょっと違っていました。「ひょうきん族」のエンディングでたしか流れていたと思うんですが、あれは別のバージョンなのか・・・。
- 作者: モーリスブランショ,Maurice Blanchot,西谷修
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1997/06/01
- メディア: 文庫
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最近読了した『私家版・ユダヤ文化論』asin:4166605194はとても興味深かった。
ユダヤ人を語ることは、つまりユダヤ人の外にいてバイアスの中にいること。どう考え、語ったとしてもそれは自分の中の「ユダヤ」に関することなのであって、当のユダヤ人(という実体があるとして)とは無関係なことなのだということ。当たり前のことがじつは新鮮という感覚だったのでした。
最後のレヴィナスとブランショのエピソード*1に収斂していくところがちょっと、グっときてしまったのでモーリス・ブランショを買う。
J・L・ナンシーの『無為の共同体』に触発されて書かれたらしい本書は、バタイユの軌跡についてのブランショの代弁になっている様子。
「共同体」といえば、不幸にも手垢に塗れたイメージしか個人的にないわけですが、バタイユの文脈での「共同体」というものは、そもそも共有の意味が異なっていた。「アセファル」など、共同体に対して様々な苦闘をしながらも最後は内的体験の恍惚の人となってしまったかのようなイメージのバタイユが、書くことでのオルタナティブ(といっていいのか)な共同体を抽出している、ということらしい。
リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』asin:4903127028と近い、のか?
バタイユというのは強烈で変な人である。『眼球譚』を読んで絶句してしまった記憶があります。