登敬三・高岡大祐・船戸博史 plays standard@呂、『猫の客』、『美しいアナベルリイ』、『Music for Merce』
2月23日(水)、仕事終わって夜7時に、Isさんと5月の会場のカフェにPA機材を見に行く。アンプが二つにミキサーが一つ。Isさんから十分との言葉が出て安堵。そのあとIsさんの友達のバーに行って飲む。雇われママは音楽をやっている方で、5月にムジカジャポニカでライブする予定とのことだった。CD買って帰る(爽やかな音楽)。
2月25日(金)は、そのムジカジャポニカで「プチだおん」。このところ高岡大祐さんのチューバをよく聴くので関島さんのチューバに耳がいく。悪いわけナシ。そのあと、Iwさん夫妻と沖縄居酒屋。「ざるもずく」をはじめて食す。
- アーティスト: プチだおん
- 出版社/メーカー: またたびレコード
- 発売日: 2011/03/06
- メディア: CD
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週明けて月曜、28日ははやくも2月最後の日でしたが、夕刻から始まる定例の会議の生産性を無理やり早め(意外な顔をされつつ)7時前に終わらせて、谷町のカレー屋さん兼カフェバー兼ジャズバー『呂(ルー)』に駆けつける。
昨年11月からこの日で3回目になる、登敬三(T.Sax)・高岡大祐(Tuba)・船戸博史(Contrabass)トリオによる「plays standard」はこれまでのところ、のがさず見ることができていることになります。
セットは以下のとおり(だったかと…とくに二部のミンガスの曲名が定かでないです)。
【一部】
- 「ラジオのように」(ブリジット・フォンテーヌ)
- 「ブロードウェイ・ブルース」(オーネット・コールマン)
- 「直立猿人」(チャールズ・ミンガス)
- 「ブルース・コノテーション」(オーネット・コールマン)
【二部】
- 「ソング・フォー・チェ」(チャーリー・ヘイデン)
- 「ピース」(オーネット・コールマン)
- 「フォーバス知事」(チャールズ・ミンガス)
- 「ベムシャ・スウィング」(セロニアス・モンク)
- 「ロンリーウーマン」(オーネット・コールマン)
前回も一曲目だった「ラジオのように」や締めの「ロンリーウーマン」も、同じ曲だけども全然違う演奏。ジャズのおもしろさだなあと思う。ときどき船戸さんのコントラバスに高岡さんのチューバがベースのような音で参入していってベースが2本のような状態になり、登さんのテナーが自在にブロウされていくところがあったり、とにかくこのトリオには、音の重心がころころと移動していながら、ぶっとさとしなやかさが絶えずキープされているという楽しさがある。
オーネットやミンガス、モンクのクラシックの曲で大仰に構えるのではなくて、それらを自由に演者間で会話や仕掛け合いを楽しんでいるのだろうな、ということが伝わってきて、聴いていて嬉しくて興奮してしまう。
船戸さんのコントラバスの自在さや登さんのテナーのいなたくて太い歌声が「ジャズ的」な要めなのはもちろんのことだけれど、高岡さんのチューバが、普通のチューバの奏法に捕らわれていない位置取りからのものだから、トリオの演奏の柔軟な響きを取りもっているところが大きいのじゃないかとおもう。
このトリオの「ロンリーウーマン」は淋しくても哭いたりせずに笑っていそうだ。
やっぱり、このトリオはもっと多くの人に聴いてもらいたい、と僭越ながら客の一人として強く思います。
*
この週の読書は、昨年から積読状態だった文庫本の消化にあてられていました。
- 作者: 平出隆
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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『猫の客』は、酷く簡単にいえば、夫婦の仮住まいを訪なうようになった隣家の猫のはなし、ですが、冒頭の板塀の穴から不意に生じたカメラ・オブスキュラや庭の描写、猫の振る舞いの描写など、細部にわたって、というか映像的な細部の積み重ねが流れになっていとおしい。慣れてもけっして鳴かない抱かせない猫のチビがいとおしくなるのと同じように、文章の進み行きが、過ぎ去って欲しくない映画の時間のようでした。
文庫本の装丁が加納光於の有名な連作『稲妻捕り』のひとつである理由も、読み進めていくうちに、この小説の根本にあることなのだということがわかってくる。書き手夫婦の住む「稲妻小路」からそれは暗示されて、美術家自身との関係から、それは猫のチビの美しい仕草に二重露光されているようで、それを感得するだけでもこの小説という形をとっている文章を読む価値がある、と呟くのに十分な理由を与えてくれるのにくわえて、これはバブル期の地価高騰の狂騒の膝元で静かに暮らしていったひとびとの(猫たちとの)記録でもある、と書きくわえることも出来る。
- 作者: 平出隆
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2001/09
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- 作者: 大江健三郎
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それくらいこの本は大江健三郎が凝縮されていてしかも「読み易く」書かれている、と思った。作家自身を限りなく思わせる語り手書き手が、生地の四国の森の百姓一揆にまつわる神話的な思考を展開するのは、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』などなどに続いて反復され続けるこの作家のテーマだと思いますが、格別に風通しよくしているのは、「映画」の語り口だと思った。
事実としてラウリーはどうやっているか?いまいったとおり、かれはシナリオを書いていない!フィッツジェラルドの小説を完璧に映画にしたものがあるとして、それをマージュリーと見てる自分。この視点を設定して、その視点で映画を見てゆく、そしてそのまま三人称現在形の小説を書いているんだ。一般のシナリオに対比してみれば傷だらけだ。無闇に長いト書、カメラへの指示のつもりの詳細な情景描写……つまりラウリー・シネマというほかない、かれの映画の小説を書いてるんだ!kenzaburou、きみはもうすでに、いったんシナリオを書いた。それが映画になればどういうものであるか、きみ自身には見えてただろう。それを思い出して書いてもらいたい。それをテクストに、サクラさんが自由に映画を撮影する。彼女こそ映画の玄人だ。それはできる。
――大江健三郎『美しいアナベル・リイ』p.231-232
語り手間のキャッチボール、言い換え、語り変え、語り直し、を執拗に試行して、最終的な語り口を希求しているのがこの本の筋だとさえ言ってみたくなるのだけれど、それが結実するかのように、小説の「語り」と読者の「読み」、そして作家の「書き」がすべて一致した瞬間、小説全体の構造(もちろん読者を含めて)を光に包まれたようにしたのが上に引用したような箇所だったと自分には読めた。
大江健三郎の小説は、『叫び声』を最初に読んで、そのあと一週間くらい気分が悪いくらい衝撃を受けたあと、自分としては『同時代ゲーム』や『MTと森のフシギの物語』を苦労して読んで好きになった。そのあと、かなり長いあいだ、この作家から離れていたのだけれど、本書を読んで、大江健三郎というひとが、ずっと自分の語り口を探し続けているひとであり、それを達成し続けることで小説家としてじぶんを生成し続けてきた作家なのだということ。
そのことに、久しぶりに思い当って、畏敬の念の一緒に、そこにはたしかに歓びのようなものがあった。
*
- アーティスト: John Cage,David Tudor,Takehisa Kosugi,Maryanne Amacher,David Behrman,Earle Brown,Stuart Dempster,Morton Feldman,Jon Gibson,Toshi Ichiyanagi,John King,Annea Lockwood,Gordon Mumma,Bo Nilsson,Pauline Oliveros,Michael Pugliese,yasunao Tone,Christian Wolff
- 出版社/メーカー: New World Records
- 発売日: 2010/12/14
- メディア: CD
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そうすると、10枚のCDが曲の区別を無くしてひとつの通底したサウンドトラックになった。もちろんそれは、あるときはバッキバキのライブ・エレクトロニクス(チュードア!)であり、あるときは「入江」と名付けられた内部を水で満たされたホラ貝のタプタプいう音(ケージ)であり、あるときはドローンであり(デンプスター)、また重ねられた朗読であり、フィールドレコーディングされた水のせせらぎ(ロックウッド)だったり、ラップトップだったり(オルーク)…したわけだけれど。
この二日間で10枚のCDを聴きとおしたことになるけれど、重圧感がまるでなかった。いくつかの録音は、その作曲家単独のCDで聴くよりもずっと、自分の文脈のなかで落ち着いているようなかんじさえして素晴らしいと思える。
無理なくそこにある音たちであり、またこの音たちを並存させながら踊った人たちがいたのだ(カニングハム)。