みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

「ノイズ文化論」講義を読み終わる

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

演劇は全然詳しくないし宮沢章夫の本も『「資本論」も読む』しか読んでいないので思い入れといってもあまりないし、タイトルから内容が大体想像できてしまうわけでもあったのだけれど、やはり確認したくて読んだ。しかし、話題の膨らまし方に割りと無理があるなどとチラチラ思いつつも、結局飽きずに読んでしまった。
分かりきってはいるものの好きな部類の本なのだな。
ジョン・ケージを引用してくる部分は、この講義での「ノイズ」が音楽ジャンルでいうものではなくて、そこから同質に広く敷衍できる社会的な存在の仕方であると言明されているからには、扱いが薄くなってしまうことはもちろん了解できますが、どうせなら佐々木敦氏などをゲストに呼ぶなどして、ケージの使う「ノイズ」という言葉の豊かさみたいな部分を掘り下げてみてほしかった、とか思ったりして。
ノイズ的なものを排除してしまったセキュリティ社会は、逆に歪んだニュータウン的な凶暴さを生むのだ、とかお題目は別として、本書が拠ってたつ感性は、あとがきにもあるように、「B全の演劇のポスターも貼れんよな街角がどうしておもしろかろうか」という一点につきるのだとも思う。それは同感。
個人的におもしろかったのが、岡田斗司夫氏のとの対談で、両氏の音楽体験の違いについて話が及んだ以下の部分。

宮沢僕は「ラジオで歌謡曲以外を聴きたかった」という、単純な理由で洋楽を聴いてたんです。
岡田まず、「歌謡曲しかない」っていうスタンスが違うんです。歌謡曲とアニソンがあったじゃないですか。(教室爆笑)
宮沢(笑)ああ、たしかにありました。僕の時代もアニメは子どもに人気でしたから、よく記憶してます。
岡田僕も歌謡曲が嫌なのは一緒なんですよ。でも、アニソンがあるじゃないですか(笑)。
宮沢たしかに、僕らの世代だと「オバケのQ太郎」「パーマン」「エイトマン」とかね。歌いますよ、今でも。
岡田それが心に残っている歌です(笑)。中学生になって身体に入ってくるようなものは、しょせん雑音ですよ。
宮沢ノイズですか?
岡田いや、ノイズっていうとジャンルになっちゃうから、背伸び(笑)。

『[ノイズ文化論]講義』p.71-72

そんなわけねえだろう、とまずは思うわけですが、つとめて冷静にならずとも、岡田氏のつっこみが「洋楽好き」という人種のある種のナルシシズムを適度な角度で炙り出していることに気付くでしょう。特に最後の宮沢氏の「ノイズですか?」への岡田氏の返答は、テーマを戻そうとするようで脱線しかけている宮沢氏への絶妙な切り返しになっている。「歌謡曲以外は洋楽しかなかった」というのはどの世代にとってもウソであった筈で、クラシック・ロックでもジャーマンロックでもパンク〜ニューウェーブ、テクノでもハードロックでもヘヴィメタルでもナゴムでもトランスでもそれこそノイズアヴァンギャルドでもグランジでもロウファイでさえ、そこには絶対自分を差異化したいという自覚的な欲望から選択+「いのちがけの跳躍」(笑)があった筈なのである、たしかに。それが高速度で断片化してしまっただけで、結局ほんとにその音楽が好きなのかどうかは、そういったことが一段落してからわかってくるものだと思う。
以前、高橋悠治氏と茂木健一郎氏の日本一不毛な対談動画を観たとき、そうはいっても高橋悠治茂木健一郎ナルシシズムを指摘することには成功している、と思ったことがある(にしても後味激不味な対談だった)が、これは同じようなことを、もっと和やかな形で成功させている部分であるようには、読める。と、いうことで僕としては結局この講義がせっかく広く話題を攪拌してくれているにも関わらず、「音楽」のタームからあまり離れることができずに読了したことにはなる。

Hallelujah

Hallelujah

とはいえ、キャンド・ヒートいいなあ(BGM)。
こちらは『「ノイズ文化論」講義』に言及があって、おもしろそうなので購入
1968年 (ちくま新書)

1968年 (ちくま新書)

「現代とは、1968年に規定された時代である」そうです。
こちらは現在昼飯時の読書本。「中沢新一批判」の著者による新書。はじめて知ることが多くておもしろい。
公明党vs.創価学会 (朝日新書53)

公明党vs.創価学会 (朝日新書53)