みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

高橋アキ『パルランド』、モートン・フェルドマン

パルランド 私のピアノ人生

パルランド 私のピアノ人生

世界的なピアニスト、高橋アキ氏の自伝的本が店頭に並んでいた。
インタビュー形式で生い立ちから現代音楽への目覚め、ピアニストとしての人生について語り、また折々各章のテーマに沿ってこれまでの文章も収められている。
70年代から継続して第一線の現代音楽の稀有な弾き手としての発言がやはり興味深いのだけれど、作曲家とピアニスト、という人間関係についてこれほどおもしろい資料もないのではないかとも思う。
何故なら、氏の場合、真摯に初演に取り組み、また自らもピアノ曲を委属するのは、その時点で同時代を生きてきた新しい音の作り手たちなのだから、作曲家たちがどれほど神経の行き届いた演奏を切望しているか、生々しく行間から読み取れる。

個人的には、高橋アキ氏はエリック・サティで有名、というより、ピーター・ガーランドの弾き手として、(初期ケージのピアノ曲にとってデヴィッド・チュードアがそうであったような意味で)もはやガーランドの音楽と切り離せない演奏者だと感じてきましたが、本書を読んだことで、モートン・フェルドマンの音楽への氏の理解の深さにあらためて感じ入ってしまって、ここ一週間は手持ちのフェルドマンの盤を引っかき集めてずっと聴いていました。

高橋アキ氏が80年代に入ってフェルドマン作品に取り組むことになるきっかけになったのは、フェルドマンでも後期の1時間や2時間を悠々と超す、非常に長い時間をかけて演奏される曲で、80年代にNYでその四重奏を聴いた直後に同じ長さのピアノ曲を書いてくれるように頼み込んでしまう、というところが読んでいて興奮してしまう。
同じ演奏を聴いたジョン・ケージが感想として「なぜあれほど長い必要があるんだ」と発言したことに愕然とした、というエピソードも、「あんたがそれを言うのか」という衝撃がこちらにも伝わってきて面白い。生身の現代音楽作曲家同士のこういう想いというのは興味深い。
ケージの南半球の星座をもとにしたピアノ大曲「エチュード・オーストラル」についてもピアニストとして微妙な距離感を持って触れているのも作品を現実化する演奏者の立場の感覚で捉えられているから、そこらへんにあるただ「退屈」の一言の浅いコメントとは雲泥の差がある。もっともっと生身でリアルな音楽として、いわゆる「現代音楽」を聴くきっかけになり得る本、といえるかも。
盲目的な礼賛であれインサイダーの重箱のすみつつきであれアンチであれ、現代音楽のドグマに関わってしまって肝心の「音楽」を聴きたいと思えなくなってしまうような言説が昔も今も溢れているわけだが、音楽で語ること=「パルランド」を信条として実践してきた高橋アキ氏の本であるからこそ、ここから生演奏や音源にあたる喜びが長く広く見えて(聴こえて)きそうだ。

Piano & String Quartet

Piano & String Quartet

何はともあれ、クロノスとのこのアルバムから。
Aki Takahashi Plays Morton Feldman

Aki Takahashi Plays Morton Feldman

フェルドマン後期の長尺の作品はこのあたりがお薦めだと思う。

For Philip Guston

For Philip Guston

For Philip Guston

For Philip Guston

For Christian Wolff

For Christian Wolff

フィリップ・ガストンのために』。そして『クリスチャン・ウルフ』のために。いずれもCDで3枚組というヴォリュームだが、まずは身構えずにお茶を淹れて本でも読みながら聴き通しみてほしい。
永遠に九十九折れていく音のパターンが次第に、自分のなかに「聴く耳をつくっていく」感覚が味わえるし、それが結構官能的だということに気付く筈。
この音のタペストリーの生成器官こそ「フェルドマネスク」。
Crippled Symmetry: at June in Buffalo

Crippled Symmetry: at June in Buffalo

2012年リリースの『Cripped Symmetry』の録音は、70年代にバッファローで結成されたアンサンブル「モートン・フェルドマン&ソロイスツ」のメンバー、Eberhard Blumのフルート、Jan Williamsのヴィブラフォン、Nils Vigelandのピアノとチェレスタによる2000年の録音を収めた2枚組。
ペルシャ絨毯の文様の微細なほつれ(乱されたパターン)を作曲の契機として作られた(という説明をどこかで読んだのですが…)らしいが、フェルドマンの音楽の宙吊りにされたような甘美な感覚の持続、を深く、わかりやすく体験させてくれる新しい定番といえそう。白眉はDisc2の10分過ぎあたりから、延々とミニマルなフレーズを三つの楽器の組み合わせを緩やかに変えながら繰り返していき、あるときそこから別のフレーズが奏でられる瞬間。まさに「ほつれ」が耳の体験として現れてくる瞬間。

もうひとつ、『パルランド』の中のフェルドマンのエピソード。
フェルドマン作品のたゆたうメロディー感について作曲家本人は、東洋にはまったく関心がなく、冗談まじりに日本の伝統音楽はクレージーで聴いていられない、と言ったことがあるという。そこからフェルドマン音楽の特質は、本質的に西洋に根ざしたもので、乾いた広大な砂漠のような空間性と、鉱物的な質感がある、と指摘されている。
マーク・ロスコの絵画を東洋的とは決して表現できないのと同質の問題として、これは、とても重要なポイントなのだろう。