みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

破線をあるく :『ソナタとインターリュード』

哲学とは何か (河出文庫)

哲学とは何か (河出文庫)

『哲学とは何か』も文庫化。これはハードカバーを持ってない。
自分のように哲学的でない頭の人間にとっては、哲学とは何か?という問いに「真理を究明すること」と大層に茫漠とした逃げを打たれるより、本書の序論においてD+Gの二人が書くように(ほぼドゥルーズなのだと思うけども)

哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野である

と端的に言い切ってもらえたほうがずいぶん甘えがなくなったような気がして健やかだ。ただし、これは簡単な定義というよりも、哲学という言葉に安易に逃げこむこと厳しく制限する(否制限ではない、のか)。

哲学は、観照も、反省も、コミュニケーションもしない。たとえ哲学が、そうした能動的あるいは受動的な行為のために概念を創造しなけらばならないとしてもである。

数学者や芸術家の反省は、それぞれがおこなう創造に属している

数学や芸術それぞれがすでに方法であり思考であるので、たとえば哲学的な概念を上においてそこに当てはめるようにして芸術作品を創造する、という事がそもそも「あってはいけない」ではなくて「ありえない」事態なのだ、という事になる(のか)。

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だんだんとロイヤルアルバートホールのPROMSのジョン・ケージ・コンサートに行く日が近づいてきました。
今年はケージ生誕100年ということで、音盤のほうも記念盤が結構でている。中でもOMEGAPOINTとEMレコードの企画『ジョンケージ・ショック』CD3枚(LPは1枚)はかなり内容に期待できますが、ここではケージでは定番中の定番の『ソナタとインターリュード』の録音を。
ケージの鍵盤曲の中ではダントツに録音の多い初期の代表作ですが、プレパレーション、演奏、録音の相性が自分と波長が合わないとまったくシンクロできない難物でもあります(とはいえ音盤で聴く限り、上記3つがそれぞれ判別できるわけでなく、それらが一緒くたになった音像としてこちらは受け取るのですが)。
最近聴いた下の2枚は、そういう意味で自分にとって「良い」録音。

SONATAS & INTERLUDES

SONATAS & INTERLUDES

AMMのジョン・ティルベリーが、70年代にデッカに残した演奏のタワーレコードからの廉価盤リイシュー。この時代な解釈で生々しい響きの中からもティルベリーらしい理知的な響き。
Sonatas & Interludes

Sonatas & Interludes

本盤は2011年10月にベルリンで録音されている。ECMみたいなジャケがどうかとも思うが、内容はプレパレーション、演奏、録音、それらすべて高水準。そして、他の録音とは明らかに何かが違う(何か、この曲の本質を捉えながらもこれまでとは異なった素晴らしい事が起こっている)ことが、第一ソナタはじまりのフレーズがこれまで聴いたことがないようにゆったりと音を滲みこませるように弾かれる事からも直感できてしまう。
演奏者Cedric Pesciaの事はスイスとフランスの二つの国籍を持ったピアニストらしい。
また、John Fallasによるライナーノーツが詳しくて鮮烈で素晴らしい。
ピアノ・ガムランとか弦に消しゴムを挟むとか平方根リズム構造だとか、「発明的」な特異さばかりが強調された言説に触れてから聴くことで、音楽自体が持つ、捉えどこがないのに揺るがない美しさが、耳を素通りしがちなケージのこの初期の大曲について書かれた文章の中でも、Fallasの文章は最高の部類になるように思う。ケージという作曲家が丹精込めてつくりあげた『ソナタとインターリュード』という作品そのものに向き直らせてくれる、という意味で。
少しだけ引用してみます(結局、少しにはならないのですが)。

ピアノの蓋を開け、弦のあいだにネジや紙切れなどを挟んでゆく。これを「予め調性する」と表現する。予め調性しておいたピアノは、美しい和音を奏でる楽器というよりもむしろ、美しい音色、美しい音響をつくりだす楽器といった性格が強くなり、いわば、室内で奏でられる打楽器オーケストラのような存在になる。

この部分は『ソナタとインターリュード』の解説としては最も基本的なところだ。しかし、Fallasの筆はこの最初の認識のなかで微睡んだままではいない。この曲の最も得難い音楽史的特質にまで手が伸びる。

そんな特別なピアノで演奏されるとはいえ、『ソナタとインターリュード』の曲構造そのものはむしろ、ごく単純だ。どの曲も、基本的には前半と後半とが二度ずつ繰り返して演奏される二部形式でなりたっている。そう―楽器のプリペアなどという途方もなく斬新な技法と、ひたすら伝統的・古典的な曲構造とが、ひとつの作品のなかで併存しているのだ。
(中略)
つまるところ、ケージのいう「ソナタ」というのは、モーツァルトベートーヴェンら古典派の作曲家たちが書いたソナタのような全3〜4楽章仕立ての作品ではなく、むしろもう少し古い、ドミーニコ・スカルラッティのそれに近いことになる―各曲がみな単一楽章仕立てで、前半と後半を二度ずつ繰り返すように出来ている点では、ケージのソナタスカルラッティのそれとは共通しているのだ。ただ、ケージの場合はここで、そうした短い二部形式のソナタをいくつもつなぎあわせ、全体としては演奏時間1時間にもおよぶ大作に仕上げているのだが。プリペアード・ピアノを使った、この、ある意味では家庭的ともいえる作品でさえ、彼は曲全体を見据えた(否「曲全体に耳を澄ませた」というべきか)大掛かりな構想を、きちんと思い描いていたのだ。

スカルラッティとケージ!

穏やかさ、バランス感覚、静けさ、そうしたものをふまえたうえで、彼は非常に念入りに音を並べ、和声を作っていっている。彼はいろいろな音色感や、いろいろな音の高さの組み合わせをストックしていて、必要に応じてそれらを適宜、繰り返し使いまわしている。ようするに、彼はピアノを予め調性するとか、あるいは彼自身「音高(ガムート)」と呼んでいた技法とか、そういった新技法をはじめから考慮したうえで、彼なりの音色感や組み合わせをつくっていたわけだ。ちなみに「音高」というのは彼がそうやって音を組み立ててゆくうえで編み出した技法のひとつで、結果的に生み出される音の組み合わせが協和音として響くか否かはあまり問題ではなく、そうして組み合わされた音を聴いた人たちが、和声感覚とはまったく別の次元で、あたかもそこに和音があるような印象を受ければそれでよい・・・という考え方である(この点において、ケージは20世紀の後半に広く受け入れられ始める、音の共鳴現象を生かした音楽作りという新技法をも先取りしていたわけだ)。

この部分、『ソナタとインターリュード』のケージの意に沿わない演奏を聴いた時のケージの落胆ぶりをインタビュー集『小鳥たちのために』で読んだことのある人なら、わかるだろう。今日のこのブログの頭で、とりわけドゥルーズが『哲学のために』の序論で「芸術家の反省は、それぞれがおこなう創造に属している」と述べていたことを思い出したい。作曲家が自分の扱う音色の中で思考するのは当然の事だ。
論旨は、さらに演奏者Cedric Pesciaが本作で択った『ソナタとインターリュード』へのアプローチについても、貴重な情報を提供してくれている。

彼は(Pescia)は日ごろのコンサート活動を通じ、実に3年ものあいだケージの『ソナタとインターリュード』をたっぷり弾き込んできた。あるときはスタインウェイのフル・コンサート・グランド・ピアノで、またあるときはヤマハのピアノを使って・・・というふうに、使用楽器もいろいろためしてきた末、彼はこのケージ作品を弾くのには、スタインウェイのBモデルが一番よいのだ、という結論に達したという。

しかも、親切かつ重要なライナーの「注」に依れば、ケージ自身による緻密なピアノのプリペア指示はあくまでケージ自身が使っていたスタインウェイ0モデルを前提としていて、このモデルは当時広く普及していたものの、現在では滅多にお目にかかれないピアノになっている、との事。

ピアノのプリペアは、使う楽器にあわせて行うべきなのだ。とくに、彼はこの曲を演奏しながら、いっさいプリペアをしていない音が必要以上にきわだって聴こえるようであってはあまりよろしくない、と思うようになった―そこで彼は全ての鍵に対応する音を、たとえケージが「プリペアすべし」としていない音でさえ、ごく微妙にプリペアすることにした。

プレパレーションに使用する素材にしても、ケージが作曲した当時の製品が劣化したり見つからなかったり、そういうケースは多々あるだろう。あくまでもケージが作曲した時に鳴った「ソナタとインターリュード」の響きを求めるのか、それとも舞踏団の劇伴でステージに打楽器奏者が入らなかった欠如をバネと梃にして新しい響きの中に身を投じた創造のベクトルの方へこそ現在の演奏者自身も向かうのか、どちらが自分にとって興味深いのかは、明白だ。

ペシアはこの曲を弾きながら、ひとつ決定的な事実に気づかされたという。それは、ケージがかなりの部分を演奏者の自由裁量に任せていながら、楽譜そのものにはきわめて仔細に音符を書き込んでいる・・・という点である。ケージは時としてきわめて込み入ったリズムも使い分けているけれど、それをきちんと守って弾くことで、きわめて自然な響きが体現される―それもまた、ケージ随一の才能なのだ。ごく気取らない自然さを、そっくりそのまま克明に音符にしてみせたかのような音楽を、彼は書ける人だったのだ。


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安徳天皇漂海記 (中公文庫)

安徳天皇漂海記 (中公文庫)

同じ著者の『信長…』と読んだのはもう何年前になる。『信長』はタイトルにもあるようにアルトーとの結び付けがいささか強引な印象でまたそれが好ましいと思ったが、最近読んだ『安徳天皇漂海記』は、もろに澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』がなければ書かれなかった書物である予感を誰にでも与える。その『高丘親王航海記』を未読なので何を言ってるのかというものだけれど、300年隔てた物語で、これは廃された皇太子という定点観察的な語り口を貫いた作品になっていた。古事記冒頭の国生みのくだりにある「蛭子」を日本で最初の廃太子と位置付けて物語の核心に置いたところで本作のプロットは成功しているなあと思った。語り口も一度はまると中毒性があって、冒頭の源実朝の家来の語りを読みながら井上靖の『本覺坊遺文』を思い出していた。この小説には『廃帝綺譚』という続編もあって、こちらは廃太子というより「最期の皇帝」(元末の順帝、明初の建文帝、明末の崇禎帝、日本の後鳥羽院)というつながりで短編を連続させているものになっていた。

進撃の巨人(8) (講談社コミックス)

進撃の巨人(8) (講談社コミックス)

巻を重ねるたびに、予想を裏切り期待に応える展開になってきている。おそらく本作は、ONE PIECEとはまた別種の漫画の王道になるのだろう。

Big Shots

Big Shots

2003年リリースだけれど1992年あたりの制作とのこと。Peanut Butter Wolfプロデュース。ロックの60年代が決定的な時期だったのと同じように、ヒップホップの90年代初頭の数年も、後戻りできない特異点だったのだ、ということが最近勉強しました。