みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

安部ねり『安部公房伝』を読む

nomrakenta2011-04-18

 日常感覚からの飛躍は、学問が現実に接近する方法であり、その逆転の瞬間を、我々は安部文学の中で体験する。
 最近では残念なことに、日常的感覚自体が損なわれるという事態になってしまい、知識の日常感覚からの飛躍という側面は無視されがちである。
――安部ねり安部公房伝』p.110

 本書もまた、明言してはいないけれど(あとがきでは触れておられますが)、3月11日での日常の変質を避けようもなく刻みつけていると思えた。無関係でいられる筈がない、そう感じながらこの伝記を読んだ。そのなかで、いつでも読者は独り独りの本読みへ「欠乏した自由」(下記の講演カセット参)の状態へと変えていこうとする安部公房の文学がどんな意味を持っているのか。

安部公房伝

安部公房伝

 本書は、実娘安部ねりさんによる作家・安部公房の伝記。
 前半は、安部公房の幼少期から作家になるまでを編年的に追いかけ、後半は短い断章の集積のような仕立てで、実娘からみた父の思い出や生前の知人関係者たちの複数の視点から作家・安部公房が照らしだされていて、とても読みやすい構成になっている。

 安部公房の研究というのはあるにはあったけれど魅力的なものに乏しい感じがしてきたように思う。本書はたぶんそういった残念さを払拭するものになるんじゃないかと個人的にはそういう読後の感触のなかにいます。貴重な写真も多く、これも楽しい。いかにも才気走ったデビュー前後、嬉々としてトイレットペーパーの芯で彫刻を作り、シンセサイザーに囲まれている晩年(と書いて、やはり早く逝きすぎた人だと思う)。

 自分としては、安部公房の生い立ちから作家人生を通して読んだのは初めてのような気がする。
新潮社『死に急ぐ鯨たち』収録のインタビューでかいつまんだ話しを読んではいたはずだけれども、かなり時間も経過してしまっているので。作家は、満州の植民都市・奉天で幼少期を過ごし、日本で学生になるが兵役を逃れるためにまた満州に舞い戻って終戦を迎えたようだ。

 ところどころの細かなエピソードには、グッときたりドキッとしたりするものがある。
 たとえば、少年公房は、奉天で野球ボールを拾いにいった草むらでうまれてはじめて人間に死体をみる。子供の死体だ。親より先に死ぬのは最大の不孝だから放置されていたのだ。

 また、なぜかとても安部公房的だと思わせる以下の描写。

 中国人地区である城内=城壁の中に行くのを公房は楽しみにしていた。城内は、日本人の子供たちが訪れることを禁止されていた。ここは公房の所属しない世界であり、アヘン窟があり、商人や大道芸人がいて活気に満ちていた。ものを盗られた人は翌日、泥棒市場と呼ばれる露天市に出かければ買い戻せたという。

 これを読んだとき、自分の乏しい脳内のイメージリソースからは、JGバラード原作の映画『ラストエンペラー』の冒頭のいくつかのシーンが想起されてしまったのだけれど、バラードは1930年生まれ。安部公房はその6年前の1924年生まれ。SF的仕掛けを梃子にして独自の文学をつくりあげた二人がどちらも植民都市からの帰還者であったことは興味深い共通点(なのだろうか?)。
 また、たとえば、小学校の授業の風景。これにはなるほど幼少からこういう教育を叩きこまれたなら安部公房という小説家が生まれるのもわかると思わせてくれる。

 国語の授業では、引き伸ばしと短縮の作業というものが行われた。これは、読み方読本を使って、文中の語句や「ここで彼は迷った」といった文章の一部分を、出来るだけ長く伸ばしたり、短くしたりするというもので、これは文体を客体化するための訓練になったに違いない。公房の作品における文体は、このように伸び縮みすることでもたらされる大きな速度差が味わいとなっている。
 後になって宮武(奉天の小学校での教諭。引用者注)は、「僕は、とにかく君たちの頭脳を一瞬たりと休ませないようにした」と語った。

 いまこの文章を引用のためにひきうつしながら、著者の安部公房文体への言及の鋭さに膝を打つ思いがする。と同時に最後の教諭の言葉に、あるべき小学校教育というものを見る思いがしたりする。そうなんだよ、小さい頃に伸びしろつけなきゃ駄目なんだよ。丁寧に優しくゆとりをもって教えるなんていうのより、まず能力を開発しなきゃ日本人の劣化は止まらないよなあ・・・それは置いておいて。
 日本軍が去ったあと、ロシア軍が来て去り次は八路軍が来る。支配者が次々に入れ替わっても奉天という人工的な都市はその営みをやめない。すでに作家となることを心に決めていた公房青年は、そこに生き物としての都市をみた、そして後には奉天に似た風情のある新宿を気に入っていた、という描写が個人的にはぐっとくる。
 ここから、『燃えつきた地図』や『他人の顔』そして『箱男』といった、自分の身体の内部に都市を巣食わせるかのような絶頂の作品群への感性が種蒔かれたのか、とも思う。
 
 医学部から作家へと至るまでは、ほとんど「ゲゲゲの女房」のような激貧の時代である。

 本書には、ところどころ著者であるねりさんの思弁も入ってきて、それは伝記的な内容とは少し遊離して唐突な印象も若干はある。しかし、それがまた作家・安部公房の感性を引き継いだ思考のようにも感じられて面白い。 



 ほぼ終わり近くに挿入されたフェリックス・ガタリとの邂逅のエピソードは、あまりに可愛らしい。
 ふたりはパリのカフェで出会ったのだけれど、約束の通訳がついに来なかった。お互いの英語が伝わらない公房とガタリのふたりは、ニュートンドストエフスキー、コンラート・ローレンツ・・・・などの有名人の名前を挙げあって、首を頷いたり横に振ったりして名前への反応で「会話」したのだとか(コリーヌ・ブレ談)。
 どちらのほうから「フランツ・カフカ」を挙げたのかはわからないけれど、そのとき確かに、世界一のカフカ読者ふたりとも大きく笑って頷きあったことだろうな、とそれを想像するのがここ数日のひそかな愉しみではあります。

僕のなかでカフカの占める比重は、年々大きくなっていきます。信じられないほど現実を透視した作家です〜〜カフカはつねに僕をつまずきから救ってくれる水先案内人です。
――安部公房『死に急ぐ鯨たち』昭和61年

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

カフカの夢分析

カフカの夢分析


 *

 ここからは極私的な話になります(いつものとおり)。

 大学一年のとき地質学の講義で年配の教授が、安部公房の『第四間氷期』の科学的な立脚点の甘さを論難するのをきいて、三十年以上前(当時)に書かれたSF作品に今更目くじらたてるのはいかがなものかと思ったのと同時に、この世代には無視できない作家として安部公房がいたのだなあと、ひとり感慨深かった。

 最初に「小説の言葉」というものがあるのだとはじめて認識したのは、中学生のときに読んでしまった『箱男』の文庫からだった。数学が苦手で、箕面から服部緑地の家庭教師のもとに数学を教えてもらいに通っていたのだけれど、たしか阪急バスのなかで『箱男』を読了して、しばらくバスの終点の箕面駅で呆然としていたおぼえがある。

 極度に断片化したスクラップブックのような体裁をとりつつ入念に入れ子構造にされた小説の空間のなかでトグロを巻く人称そしてやけに理知的な文体。クラクラして最初は何なのかまったくわからず、二度三度読むことになった。
 今にして思うと、数学的な思考の苦手な自分に、文学の形を実装して安部公房の理科的な思考がなだれ込んできたための異和感だったのかもしれない。箱男のかぶる箱の「製法」の記述からはじまり、物語の話者が何度も変わり、脈絡はないが文脈はある断片がさしこまれる小説は、小説であるよりも箱男という都市の生き物の「設計図」のようだ。そういえば、着脱が容易なタイヤ用チェーン「チェニジー」を発明したのも安部公房だった(という事実を『安部公房伝』であらためて本当だったと確認しました)。構想と効用は、安部公房の文体のなかでは完璧に同時的なものとして存在していただろう。その意味で、具体的で工学的な作家だった、と書いたら乱暴過ぎるだろうか?
 それは、作家の「本」をつくろうと手を伸ばし、まさぐり、ひとつひとつの段落や文章を置いていく手つきの感触が、頭の中ではっきりと感じられるような錯覚だった。
 段ボール箱のなかのあつい吐息のように、じくじくに湿ってはいるけれど、都市的なものへの憧れが極まっているとも思った(一回読んだだけではそれは都市への諦念のように思える)。タキシード・ムーンが「BOXMAN」という曲を演奏していたことを思いだしたりもして。

 もし誰かが『箱男』という小説は観念小説だというふうにレッテルをつけたら、中学生でも笑うだろう。
――ドナルド・キーンが回想する安部公房の言葉


 これはたしか紀伊国屋なんかで売っていた安部公房の講演テープ。ついに買いそびれつつ(「さかな」やオーネット・コールマンヴェルヴェット・アンダーグラウンドのブートに小遣いは回されてしまったのだった)。40分くらいの講演を4つのファイルに分割している。話しはちょうど72年くらいなのだろう、『箱男』執筆も終わりかけの段階での、文学の役割、といった話し。ファイルの2つめくらいから最後までが自分には面白かった。今は何でもYouTubeで拾えるなあ…としみじみ。

 この7インチのシングルは梅田の輸入盤店(もちろんとうに存在しない)で200円くらいで買った。タキシードムーンのことはよく知らず、「BOXMAN」なので買ったのだった。

 当時のライブ映像。1分過ぎあたりから箱をかぶり始めるのが「BOXMAN」。タキシード・ムーンってへんなグループだったんだなあ。この変さは古びない種類のものだ。


 話しを安部公房に戻すと、もちろん『砂の女』も、『壁』や『第四間氷期』もたぶん中学生のころに読んだ。中でも初期作品の『夢の逃亡』のリルケ的な暗い思弁は青少年には危険過ぎる中毒性があった。
 『榎本武揚』は30代になってから歴史上の榎本武揚という人にひととおりの興味を感じたあとから読んだ。
 『終わりし道の標に』も読まないとならないと感じた。

終りし道の標べに (講談社文芸文庫)

終りし道の標べに (講談社文芸文庫)

 『方舟さくら丸』は未読のまま、もう少し時間が経ったら読んでみようとお楽しみにしていつも本屋の棚の前を通りすぎることにしている。この伝記本でさらに手に取るのが愉しみになってきた。
 『方舟さくら丸』の準備期間にあたる時期に書かれたテキストとインタビューを収めた文庫『死に急ぐ鯨たち』もよく読んだ。

 インタビューのなかで奉天時代を回想している部分も多く含まれていて、『安部公房伝』の下敷きにもなっているのかと思う。思想の有効無効はさておき、「シャーマンは歌う」や「テヘランドストエフスキー」などのエッセイには、安部公房後記の思考エッセンスが詰まっているように思える。
 だいぶ以前に、衛星放送か何かの勅使河原宏特集で映画『他人の顔』も観た。『安部公房伝』を読むと必ずしも監督と作家は良い関係にはなかったようだが、安部文学を低めるような出来では決してないと思う(のですが)。とくに仲代達矢はこの役をやるために役者になったのではないかとさえ思わせる怪演。武満徹の流麗な音楽は罪作りでさえある。

 さいごに著書ではないけれど、むかし早川がボリス・ヴィアン全集を出したときに、あの岡村孝一が訳した『北京の秋』(『日々の泡』よりもこちら、という人は通です)のあとがきを安部公房が書いていた。
 とても美しいあとがき文だったという記憶があったので昨日読み返しみたら、安部公房の文学自体に捧げ返してみたくなった。以下は、そのあとがきの最後のふたつの段落の引用。

 (『北京の秋』を(引用者補))あえて比較するなら、カフカの書いた「不思議の国のアリス」、もしくはルイス・キャロルの手になる「審判」と言ったところだろうか。美しく、残酷で、薄い氷でつくったコップで水を飲むように、読んでいるあいだじゅう常に時間切れの不安にせかされる。自分の目が、作者の目と重なりあったと感じた瞬間、死が見える。当然のことのように死にむかって快活に走りつづける魂の行列が見えてくる。ヴィアンが生前、あのあまりにも楽天的な政治的季節風のなかで、ひややかな拒絶にさらされたのも無理はない。
 この作品に出会えたよろこびを、あらためて噛みしめてみる。生涯がかかっても、これだけの出会いはめったにあるものではない。作中に出てくる、あの人間を飲込み溶解してしまう黒い影のようだ。ぼくは繰返しそのなかに迷いこむ。

――早川書房ボリス・ヴィアン『北京の秋』(昭和55年版)の安部公房によるあとがき

 公房さん、僕はあなたがちょうど『箱男』を書きあげたころにうまれた読者で、今あなたの伝記を読み終えたところです。エグゾポタミーは、もしかしたら、あなたの奉天だったかもしれません、そんな気がします。

 公房は小説の中で、人格と言語のモザイク性に道案内する。このモザイク性によって、言葉は意味を取り残して部分が暴走し、人格と言語は互いに絡み合って、事実の認識やヒューマニズムを推し進めたり破壊したりする。公房がビッカートンのクレオール言語論にであったとき、どんなに輝かしい物に感じただろうか。言語学者によって説明されたクレオール言語は、意味から直接発生した言語であり、そこに希望を持ったに違いない。そして公房は文学という実験室でわれわれを言語の迷宮の世界に案内する。
――安部ねり安部公房伝』p.104