みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

秋と蟲がウンベルト

nomrakenta2009-10-03


涼しげな天気で、昨日に引き続いて雨でも降るのかと思って空をみたら晴れていた。紅葉にはちょっと早いこの時期に、いまさらもう夏ではありえないことをもういちど自分に念を押してみた。
昼過ぎにのそのそと瀧道に出かけると、自分の家の方からいくと瀧道の入り口になる聖天宮西江寺さんの境内で、「蟲供養」をやっていた。
境内にある蟲塚に法要する、なんでも行基菩薩縁起の行事らしく、茶会や花会、邦楽、雅楽、川柳会なんかも併せて行われるらしい。蟲というのは、虫のことだけを指しているのではなく、生き物全体のことを大まかに包摂している言葉らしい。個人的な想いとしては、ささやかにうごめく小さな生き物たち・植物たちのいとなみをやわらかに包むと見せかけて、じつは自分たちも小さなものとしてあらためて観想してみる、その包摂のなかに、ふたたび自分たちも投げ入れてみる、ということではないのな、と思う。

子供の頃から、西江寺さんのことは「聖天」さんと呼ばれていて、ガキたちにとっては、あくまで「天狗まつり」の聖天さんだったのですけれど、こういう供養をやっていることを知ったのは、じつは数年前のことだった。雅楽の演奏があるというのでいってみたいな、と思ってはいたけれど、毎年その頃にはきれいに忘れていたのでした。今日ふらりと境内に入ってみると、雅楽の演奏などはすでに終了していたようで、琴と尺八の演奏を少しだけ聴くことができた。

蟲供養のせいで、意識が虫に向いてしまったのか、そのあと瀧道を上っていくと、普段は入らない「昆虫館」に小学生以来で入ってみようかと思った。
小学生の頃からすると、当然かなり印象が異なっていて、ほとんど手作りな展示の印象がほのぼのとしていた。サンプラーが置いてあって、ギターとドラムのシーケンスに合わせて数種類の虫の声音を演奏することができたりするのがご愛嬌だった。思わず数分「演奏」に夢中になってしまい親子連れの子供の方の「あれなに」的な声に気づいてそそくさとやめてその場を立ち去った。
ナナフシの姿が、何故かとても愛らしかった。飼育ケースの前に人間がきたと思うと、じっと固まって、風もないのに、風に揺れる小枝の振りをして、かすかに体を揺らし始めるのである(しかしそのあとマレーシア産のオオナナフシの巨大な標本を見て戦慄する)。

水棲昆虫の飼育見本もいくつかあって、アメンボ、ゲンゴロウ、マツモムシ、タガメタイコウチなどがあったが、タガメは水中の木の裏に隠れているようで観れなかった。これらの水棲昆虫のケースは、小学生のころにもしげしげと眺めていた記憶がある。
蝶の放飼いの庭園スペースがあって、大きな吹き抜けのサンルームのような体裁になっていることを初めて知った。
パタパタと、まばらだけれど総数はかなりのものの蝶が羽ばたく空間は、確かに恍惚となるものがあった。蝶たちは人間をまったく恐れないので、こちらが遠慮しながら体を移動させるような感じだった。


シャワーを浴びて、買い物に出かけた帰り、まだ明るいうちの東の空に、十五夜の満月が奇麗に出ていた。

***

意識の虫向きついでに、この本のことも思い出したので。

昆虫にとってコンビニとは何か? (朝日選書)

昆虫にとってコンビニとは何か? (朝日選書)

「昆虫にとってコンビニとは何か?」…なんでしょう?夜、やたらに明かりの強いので、なんだか引き寄せられちゃうパワースポット?テクストの解題としては外れているわけではないのだけれど、この章の締めくくりからいっても非常にブラックである。

 こうして昆虫マニアもそこそこの数の昆虫を採集するが、彼がいてもいなくても、そこで死んでいく昆虫の数に影響を与えることはまったくない。そこへ来るまでに彼が車で殺しつづけてきた昆虫の数よりも、コンビニで採集した昆虫の数のほうがはるかに少ないのも明らかだ。
p.35

いや、わざわざそこに触れるなら、数の問題なのだろうか、という疑問もないことはない。
二十八のエピソードがすべて「昆虫にとって○○とはなにか?」というコンセプトで書かれています。岩波文庫から出ているとても短いけれど素晴らしい内容のユクスキュルの『生物から見た世界』を読んでいれば、なるほど昆虫の「環世界」(Unwelt)のことかと早合点しそうですが、この本の著者はもうすこしひねくれている。

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

「昆虫にとってビールとはなにか」という章まである。
結局のところは、昆虫学者による、人間論になっているのだと思う。しかし、それは、「昆虫にとって」と、仮託してみたとして、やはり言語は人間的なふるまいであるしかない、というニヒリズムを楽しむ態度としての人間論なのだと思える。
人間もまた、人間の「環世界」(Unwelt)でしか生きられない。その至極真っ当な限界について「語り得ぬものについては」なんとやらということに、臨界してみせている本である(とも言えるかもしれない)。

武満徹:秋庭歌一具

武満徹:秋庭歌一具

おそらく、10月から11月にかけて毎年5回ほどは聴いていると思う。
ここでは、武満徹の厳密な美学と、それに応える奏者たちの技巧によって、人間は秋というひとつの時間を区切って、蟲の声色を手に入れているのだと思う。

翻って、カフカのザムザの変身した「虫」でさえ、決して「蟲」ではなかったのだと、再確認しておこう。むしろ、カフカと我々読者たちが「蟲」でもあるのかもしれないという留保付きで。それは、思い返せばミチロウの「虫」も同じことである。

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

虫(紙)

虫(紙)

せっかくだから、これも貼っておきましょう。

蟲師 (1)  アフタヌーンKC (255)

蟲師 (1) アフタヌーンKC (255)


Wayfaring Strangers: Guitar Soli

Wayfaring Strangers: Guitar Soli

このエントリー書きながら聴いた盤。シカゴの再発専門レーベル「ヌメロ」から出ていたギター・ソロ集。「ディランの背後に数千人のディランになれなかった人間がいる」(だっけか?)といえるのは、ディランだけではなく、ジョン・フェイヒーやレオ・コッケもまたそうなのだ。