みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

B面的思考とは、焼酎の爽健美茶割りである。京都へ、砂の書へ。

nomrakenta2009-07-26


B面的思考とは、マイナーな思考の謂いだと、わけもわからず何かに対して全面降伏する必要は、じつは無い。
当然、日の当たるA面の存在を前提にしている。とはいえ、B面を聴いているとき陽が射していないわけでは、毛頭ない。
B面の陽光は、A面の日差しを記憶としてまろやかに保持しているのであって、午後の日差しはそれだけ豊かなのだ。
しかし、この程度の言葉では、小笠原鳥類さんのカセット・テープへの追憶の感触に及ぶわけもない。
今日は、箕面でも、暑気払いにパレードがあったらしいが、全く知らなかったし、知っていても関係なかった。
京都に向かう阪急の特急の車窓を飛び過ぎていく正午の陽のあたった風景に比べて、僕の心の中はひんやりとしていた、と書くのは正確ではなく、実際心の中は、明るさと移動する感覚に十分に和んでいた。もう若くないよな〜と思い知らされた(それは全然悲しいことではなかった。僕はジーザス・エイジを馬鹿やらずに生き延びたのだと嬉しかった)頃から、自分の中の、憂鬱な感覚(屈託)をはじめはやんわりと、客観的に眺める距離感をつかめるような気がしてきていて、それは日々じわじわとたのもしく増大してもいる。世間では単に気分転換が出来るようになった、というところでは、ある。それは、焼酎のロックに、爽健美茶を混ぜはじめたのと同期している。
そのひんやりした心の中のモノは、もはやプルプルとした輪郭をした角砂糖みたいなもので、心の指先/舌先で、コロコロとつつきまわすことさえ、今では出来るし、気が向いたら、指先/舌先を角砂糖の中に突っ込んでみて、内部のひんやりを検めてみることだって、今は出来る。
そのひんやりの中味といえば、酷薄でいてずいぶん甘ったれてもいて、要はナルシシスムという言葉も勿体ないような感覚の醸成された溶液だが、そこに浸みこんでいく自分の感覚も、そう遠く離れたものではないが、あえてどっぷりとはいきたくない/いつでもいけるけどそのときは覚悟がいるよそんなリスクを僕はとらないだろう的なもの、ということができる。
読み進めていた佐々木敦の初の新書『ニッポンの思想』を、車中で読み終える。本書でいう「ニッポンの思想」は、ニューアカ・ブームに始まる80年代から今までの流れの、かなり主観的な「読み」の歴史的語りでもあるが、それでしか掬えない見方も豊富にあると思った。新書にしてこの濃密さは稀有だと思うし、これで佐々木敦リーダーが存外な領野にも拡まるといいなあ・いや、やっぱちょっと無理なのかなあ…とも思った。佐々木敦さんは90年代も、そして今も(湯浅学と並んで)「能動的な受容者」のフォアランナーであり続けている。「テン年代」にもなれば、僕らは、佐々木敦の次の姿を多分見る(読む)ことが出来るのだろう。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

午後一時すぎに五条に着く。
今日は、かねてから80年代の「ミュージック・マガジン」が大量に入荷したから見に来てくださいと声をかけてもらっていた古書肆「砂の書」さんhttp://www.sablelivre.com/に、実に数年振りにリアルにお邪魔しました。
店内にドカッと積まれた「ミュージック・マガジン」のバックナンバーは相当な量でしたが、一冊300円という嬉しいお値段もあってこれでもかなり捌けた後なのだそう。
気になっていたのは、特に80年代前半の、パンクやらニューウェーブが生々しいころのバックナンバー。一冊一冊吟味させてもらう間に、店長の寺井さんは、竹田賢一の「A−Musik」(大正琴で、フレデリック・ジェフスキも変奏したあの「不屈の民」を演奏してしまうユニット、というのがわかりやすいのか?シカラムータが「不屈の民」をやるのはA-Musikの流れなんだろか?)http://am.jungle-jp.com/なんかを、極上のアンプ・スピーカーを通して聴かせてくれたりするもんだから、この商売上手!という感じで、ほいほいと一冊また一冊と取り置いてしまう自分がなんだかまた気持ち良い/酔い。
「グリール・マーカス」というロック評論家がいる(いや、いた、のか?)。80年代末に「ロックの新しい波」という、パンク〜NW期に書かれた時評をまとめた本だったが、その連載があったのが80年代の「ミュージック・マガジン」だった(連載名は「Real Life Rock」)。もちろん数年遅れての後読みだったけれど(寺井さんはリアルタイム…)、僕はこの単行本のなかの、ソニック・ユースへの激賞文を読んで、ソニック・ユースへの興味以上の関心を持ったのだった。それはすでに「Sister」か「Daydream Nation」を聴いてしまったあとでの強烈な遡及照射であって、大鷹俊一の常に勃興するシーンに寄り添った文章ももちろん良かったが、マーカスが、彼らのサード・アルバムにしてNYのダウンタウン実験音楽シーンを独特な「圧縮」でもってハードコア・パンクのシーンにも繋げてみせた「Confusion is Sex」を評する言葉は、手放しというのでもなく、冷静に初期ソニック・ユースの否定の精神を、ダダイズムにまで敷衍してみせた名文だった。
ライク・ア・ローリング・ストーン

ライク・ア・ローリング・ストーン

Lipstick Traces: A Secret History of the Twentieth Century, Twentieth Anniversary Edition

Lipstick Traces: A Secret History of the Twentieth Century, Twentieth Anniversary Edition


ネットに情報が溢れているから、また、批評のジャンル分け自体が音楽シーンを駄目にしてきたのだから、なんていう了解を、僕はまったく信じることが出来ない。音楽批評が必要なくなったのでなくて、音楽を聴く耳が動物化してしまっただけのことなのだ。音楽に向き合うことの楽しさというのは、良い批評家の言葉を追って、摩擦/葛藤/頷首していくこと、それを積み重ねることでしか得ることができないと、僕は思います。そういう人たちが、とても弱気にみえる(その流れが不可逆であるような)今は、それだけでとても不幸だ。


砂の書」さんの在庫を眺めつつ本と音楽に囲まれた幸せな時間…、やっと最近ジャン・ジュネの文章っておもしろいと思えるようになりました、とか、『恋する虜』の新訳が何故出ないのかとか、ラ・モンテ・ヤングはエリック・ドルフィーと同窓でドルフィーよりラモンテのほうがサックスが上手かったとか…とても楽しい話を聞かせていただいて(棚の高い高いところに、ロシア心理学のモーツァルトヴィゴツキーのおそらく初版本が並んでいるのに気づいた)、途中から、寺井さんご自身のユニット「ダウザー」http://www.boid-s.com/boid_products/177.phpのお話に。
間章を扱った映画『AA』のお仕事の後、ライブする予定は今のところ無いとのことだった。自分自身は数年前に大阪のリュック・フェラーリ映画祭でダウザーの硬質な涅槃のようなアナログシンセ即興演奏を聴いたのみなので、偉そうに「惜しい」とも言えなかったのですが…。
あとは、瞽女(ごぜ)唄や、海童道宗祖http://www.bmbnt.com/shaku8/bamboo82.htm(まだ聴いたことがないなら早く聴いたほうがいいぜ、とベンジー風に書いてみたくなる。)ラ・モンテ・ヤングの「Well Tuned Piano」など各種貴重な音源(共通で知っているIさんがNY旅行で「DreamHouse」に寄った話など)、そしてカール・ストーンの処女作(緻密なテープカットアップで陶酔的な音楽を最初から作っていたのだ、この人は)などを聴かせてもらって、なんだか買い物に来たより、多くのお土産をもらってしまった気分。

ひとつの試みとして、この動画と、海童道宗祖のCDを同時にプレイしてみることをお勧めします。見事な均衡を味わえますので。

かなり絞りこんだ末、選んだのは、80年代「ミュージック・マガジン」の10数冊と、アニー・ディラードの『本を書く』(「砂の書」さんのHPで売れていないのをチェックしていました)、それから環境音楽本としてはこれ以上のものが出ていない気がする『波の記譜法』。さすがに重いので、送ってもらうことにして、帰箕。

本を書く

本を書く

十三で乗り換え、の数分を突いて、家人へのお土産に蓬莱のシュウマイを購入。
宝塚線車内の吊革にぶら下りながら、日除けのアルミ枠の上の隙間から透かして見える北摂の空を見ていると、見事に曇っていた。曇っていて見事というのも変だが、まだ陽の光もあって、濃淡輝濁さまざまな灰色に腑分けされた雲たち(輝くグレーというものもあるのだ)は、互いを雄大に食い破り合って尚自分の「かたち」に固守しようとしているようでもあり、まるで、不機嫌なブランクーシの彫刻の脇腹からはみ出た臓腑(…なんじゃそりゃ)のような、現代彫刻の黄昏な光景だった。


ここまでの文章は、ポメラを持っていかなかったので車内でメモ帳に書いていて、今それをWindowsの「アクセサリ」のメモ帳で書き起こしながら、なぜか僕は、「ホワイト・アルバム」を聴いている。ビートルズに関して僕が言える唯一のことは、「ホワイトアルバム」を、彼らが作っていなければ、ここまで聴くことはなかっただろうな、ということだけである。

ザ・ビートルズ

ザ・ビートルズ

帰宅して、日経に載った鈴木志郎康さんの記事を読む。萩原朔太郎賞を受賞した詩集『声の生地』に合わせた前橋文学館での記念展の話だ。もう開催されている筈。この8月に長期の休みを取るので、そのとき行ってみるつもり。
今年も、まだまだこれからなんであって。

Confusion Is Sex

Confusion Is Sex

ある意味、これは「ホワイトアルバム」に対置したくなるような「ブラック・アルバム」でもある(ただし、SYなりの音楽への愛に充満しつつ痙攣した)。