みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

新しいダンスを:マース・カニングハム逝去

nomrakenta2009-07-28


ピナ・バウシュに続いて、マース・カニングハムまでもが旅立ってしまった。
http://www.merce.org/
しかし、90歳で今年新作まで発表していたということだし、ジョン・ケージのように、直前に強盗に襲われたりといった痛ましい情報は、とりあえずWEB上ではみないので、大往生だといはいえるのだろうか。
それで、自分の好きな芸術がまたもはっきりと過去のものになるのだなあ、と脳内絶句を味わいながら、数年前に購入していたマース・カニングハムの回顧的DVDを観ていた。

初期のケージとのコラボレーションや、カンパニーのダンサーたち、美術を担当していたロバート・ラウシェンバーグ、アール・ブラウン、ゴードン・ムンマや後期のカンパニーの音楽を担当した小杉武久などのコメントもある。
壮絶な鍛練と集中を要するのだろう、エネルギーが細部まで充填した、優雅かつ、ときどき素っ頓狂な動き。それらが見事に力が抜けたように流れて、身振りの通り過ぎた空間が、やわらかい彫刻の空間になっていく。

ダニエル・シャルルとジョン・ケージの有名な対談集『小鳥たちのために(For The Birds)』によると、文学的になっていくマーサ・グラハム・カンパニーから離れてみてはどうかと助言したのは、やはりケージらしい(1940年頃)。その後のカニングハムは、ケージや現代美術作家たちと、芸術の新しい言葉を更新し続ける長い旅に出ることになる。
ケージやデヴィッド・チュードアたちの音楽と、カンパニーのダンスの関係は、あらためて観て、それぞれが自律的に存在していて、面白い。

Merce Cunningham: Lifetime of Dance [DVD] [Import]

Merce Cunningham: Lifetime of Dance [DVD] [Import]

音楽のビートに合わせた身体の動きを快いと感じるのが普通の目だとすると、マース・カニングハム・カンパニーのダンスとケージらの音楽のコラボレーションをみたら、最初はうろたえるだろう。一瞬、目と耳が、空間的・音楽的どちらのビートに従属すればいいのか分からず、とてもアナーキーな風が吹いているだけのように感じるのだ。でも、すぐに、ダンスと音楽の両方が、互いに支配し合おうとするのではなくて、対話しているような関係なのだと気付きもするだろう。

40年代にケージとコラボレーションを始めてすぐに、このダンスの自律性に成功したわけではなく、だいたい1952年くらいからその傾向が顕著になってきたらしい。ケージがターニング・ポイントのひとつとして挙げているのは、1952年にレナード・バーンスタインの監修で行われたフェスティバルで、ピエール・シェフェールピエール・アンリの『一人の男のための交響曲』(ミュージック・コンクレートの大作)に合わせたバレーをする際に採用されたアプローチだった。

概して周期性が欠けているこの音楽に、どのようにして目印を定めるかは依然として問題でした。それで、ダンサー達は彼らのための譜面を受け取りましたが、音楽には合せなかった。音楽は、なにかをダンスに押し付けることをやめたわけです。
これは一九五二年のことなんですが、それ以来マースと私にとって、あらためてこの種の経験をする機会が度々ありました。そのたびに、音楽だけでなくダンスにも空間への権利も認めようということで意見が一致したのですが、それはただ別個のものが同時に存在しうるということでしょうね。
マース・カニンガムは、とにかくダンスをダンスでないものへの服従から解放しました。そのことが私達が一緒に仕事を続けることを、新たに出会い続けることを可能にしてくれたのです。
――ダニエル・シャルル×ジョン・ケージ『小鳥たちのために』青山マミ訳(青土社)p.164


出会うことに向けられたダンス。収斂することで、開かれたダンス。つねに、とても新しいダンス。

おやすみなさい、マースさん。でもいつも、新しく踊り続けているんだろね。

ジョン・ケージ小鳥たちのために

ジョン・ケージ小鳥たちのために

Modern Dance

Modern Dance

Because our poor boy, Believe in Chance,
He will never get, The Modern Dance.
ここで歌われているのは、まさしく自分だ、と思った頃があるにせよ。