みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

音楽雑誌なんかいらない、のか:「ヒアホン」Vol.2

nomrakenta2009-06-01


佐々木敦氏がFADERに次いで発行した『ヒアホン』の2号を手に入れる。
http://www.fujisan.co.jp/Product/1281683382

新譜を語るトータス、前進のためにインディーに戻ったソニック・ユースのインタビューも、ファンとして興味深かったけれども、なんといっても、まっとう過ぎるバンド&演奏をおさめた『港」をリリースした「湯浅湾」のロング・インタビューが素晴らしかった。バンドともに語る、ということについて感銘を覚えたのは始めての経験。
現代詩手帖」での小笠原鳥類氏へのインタビューでも改めて感じ入っていたところだが、やはり佐々木敦という人の、アーティストと最近接の当事者としても関わりながらも(創作についてのつっこみもおだやかそうに読めながら鋭く的を射て)、あくまで第一のリスナーという距離を保つスタンスは、奇跡的なものだと思う。
佐々木敦氏にとって、この「ヒアホン」発刊は、単に「FADER」に続くものということではなく(それは現状が許さない)、もはや「音楽雑誌」というメディアそのものへの、殆ど最期の賭金、といえてしまうのかもしれない。
http://expoexpo.exblog.jp/9292117/

「音楽雑誌」不要論というか、暗黙の了解みたいなものが、世間にあるのだろうか、やはり。
音楽の情報ならば、もちろん現在いろんなところから入手できるし、アーティストから直接手に入れることも普通になってきた。それは否定する必要もないポジティブな事実だと、僕も思う。


しかし、「音楽雑誌が不要」というフレーズを解体してみると、「音楽」はまず、当然不要になっていない。むしろ、演奏や創作活動との媒介が限りなく無くなって、ほんとうに音楽が立ちあがる場所に接しやすくなっているのだろうと思う。次に、「雑誌」、これは微妙なところだ。メディアとしての紙媒体そのものが問いに付されているからこそ「音楽雑誌」の存在が危ういという認識がまず見取り図として敷かれてしまっているのかもしれない。これももちろん自分の妄想の手に余るのでスキップしておくと、残るは「音楽雑誌」はどうなのか、ということになる。

ここで「音楽雑誌」というものに自分が持ってきた思い入れについて、思いつくことを書いてみるとすると、日本の音楽雑誌でいうと、自分の場合は多分まず第一に「フールズ・メイト」(ヴィジュアル系の雑誌になる前の判形が小さいときのことです、念のため)があって、次にベタには「ロッキング・オン」が挟まり、佐々木敦氏や湯浅学氏がロックどころか音楽とも思えないようなディスクのレビューを縦横無尽に書いていたころの「クロスビート」があって、そのあと「ミュージック・マガジン」の購読、というのが数年前まで続いていた。何かの典型だったのだろうか。どうもそんな気がする。
ほら見ろ、お前だって買ってないんじゃんか!と言われそうだが、「が」で逆説する気も起らないほど、まさしくその通りで、自分にとっての「音楽雑誌」を毎月購読する必要性というのは、興味がアヴァンギャルドになるのに従って、上記の雑誌の合間に、トータスの登場とほぼ同時に購入するようになった英国の「WIRE」誌http://www.thewire.co.uk/の記事に、だんだんとノレなくなってきた時に、確かに終末と呼べるものを迎えた。

それは日本のボアダムズルインズやキリヒトの影響を受けて、何の屈託もなく表出しちゃったような英米の若いバンドやフリー・フォーキー(?)が登場してきたのとパラレルだったように思う。

HEADZの存在は、レーベル(邦盤作成者)そのものがある意味「雑誌化」する形態で、最終形態かなあとぼんやり思ってはいた。

それでもこの2009年6月に、佐々木敦氏の「ヒアホン」を買うのはなぜか、と深く問うてみると、要するに、それは、音楽を愛することに関しては誰にも負けないという絶対の自負のある筈の編集者(たち)の個性(たち)で変形される情報が読みたい、ということなのだ。
彼らがミュージシャンに限りなく寄り添い、立ち入り、先を促す、ハラハラするようなインタビューが読みたい、そして編集者(たち)が持ち寄るディスク・レビューの集合が、音楽への欲望の充足を、想像できる遥か遠くまで先送りしてくれること(僕にとっては、それこそが、音楽「シーン」だ)、それを期待したいのだ。

と、書くと、今やそんなことは、誰でも出来るのだ、という人がいる筈で、それもその通りなのだけれど、その「熱気」が問題だし、そのコンテンツの「質」が問題なのだ。究極、記事の質が良ければ、雑誌でなくとも課金制のサイトでも良いのかもしれないが、結局それだけ読み応えのあるテクストなら、「紙媒体」が一番リーダビリティにおいて優れている、という意見の肩を、僕は持ちます。

「音楽雑誌」を買うことは、音楽の情報を買うこととだけではない。音楽の情報の「エディターシップ」に投票することなのだと思いたい。
「エディター」というのは、言うまでもなく、音楽家ではないのは当たり前で、むしろ音楽の「コンテクスト」を生成していく。期待の力線のプールだ。つまり、音楽雑誌は、音楽の記録でありながら、リスナーの歴史を書き留めていくのだと思う。
「コンテクスト」になにか付け加えることができる位置にいることが出来る人は、もちろん限られているし、それはディランの背後に数百だか数千のディランがいたのだという古のクリシェ通りのことだと言ってしまったっていい。編集者だってアーティストなのだといって、何が問題なのだろう。

ディランのように歌えなかった/歌えない者が聴くディランの歌は、関心のなかった者が聴くディランと同じ濃度である筈がないではないか。

何かに、人生の一定の部分を失ってきた人間の語る言葉には、余力があるなら耳を貸した方がいい。つまり、僕が言いたいことのセンチメンタルな部分というのは、遠い昔からルー・リードが歌ってきたことなのだ(こういう引用の仕方は、W・ヴェンダースからのセンチメンタルな影響です)。

But anyone who ever had a heart
They wouldn't turn around and break it
And anyone whoever played a part
They wouldn't turn around and hate it

でも、誰だって かつて心とよべるものがあったなら
彼らは そっぽを向いて ブチ壊したりはしないだろう
そして 誰だって 何かの一部を演じたことがあるなら
彼らは そっぽを向いて それを憎んだりはしないだろう

――Lou Reed「Sweet Jane」

「音楽雑誌」が必要なのだと強弁する必要はないかもしれない。でも「音楽」の「エディターシップ」は、絶対に必要なのだ。リスナーの「文化」のために。それが、散らばったブログを散策することで用が足りるなどとは、僕には決して言えない。

しかし、そうなると、もしかして「音楽雑誌」を解説する「雑誌」が必要になってくるのだろうか?


港

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