ミドリを、こころにかきこむ:津軽三味線とスティールパンのデュオを夢想する、Fleet Foxesなど
午後1時過ぎから瀧道。
モミジの若葉が、たらふく光を浴びているのが、目にうれしく浸みてくる。
谷川に沿ったカーブのひとつで、三味線を弾いている人がいた。
「迷惑なら、たちのきます」と殊勝にボール紙にマジックで書いたものを立て架けながら、弾いておられた。足元の楽器ケースの中には投げ銭がまばらに。迷惑なものか、モミジの葉で緑にフィルターされた柔らかい日差しの中で、通り過ぎる人たちの耳を楽しませていた。
ふと、三味線とスティールパンのデュオというのを聴いてみたくなった。
三味線の既存の曲をやってもいいだろうし、即興でもいい。
三味線というと、高橋竹山の津軽三味線とか、佐藤通弘とジョン・ゾーンが丁々発止の駆け引きをしてみせた『Ganryu-Island(巌流島)』の音イメージがあって、エレキギターよりも鋭利かつ凶暴に成り得る弦楽器という、聴き手として勝手な身構え・竦みがあったのですけれど、今日瀧道で聴いた演奏は、金属的でない倍音を柔らかく含んだアタック(というのか)が瞬時に消えていくのが愛おしいようなものだった。
ここに、カリブ音楽のように正確律儀にノートを抑えていくような演奏ではなくて(それも好きですが)、例えば、町田良夫さんが即興でやるようにアンビエントな奏で方でなされるスティールパンの音をもってきたら、結構絶妙なんじゃないかなあー、と思ったりした(もちろん屋外のステージか、意表をついた処でやってほしい)。
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(おずおずと、)
Fleet Foxesは、もう聴きましたか?
彼らの音楽は、フォーク・ロック的なものの王道でありながら、インクリディブル・ストリング・バンド好き(わたし)も首肯でき得るメロディーの玉手箱状態であり、Robin Pecknoldのボーカルに感じるのは、フレーミング・リップスのウェイン・コインの屈折を灰汁抜きして、もとのニール・ヤングの実直さが露出してきたところに、ブライアン・ウィルソンの木漏れ日が落ちている(のか?)。
この音楽性で、シアトル出身というのが、まず嬉しい驚きだし、これほど愚直にいい歌いい音楽をやっているバンドをもしかしたらロックは今まで持ったことがなかったのじゃないだろうか。懐かしげなサウンドやメロディー、コーラスワークの他にそんな愚直への「意志のスタイル」を感じさせてくれたまま、このセルフタイトルアルバムは、一昨日購入してからPCでもステレオでも自室にいるときはかけっぱなしのまま安定しています(i-podで音楽を聴かなくなった)。
後半にカップリングされているミニアルバム「Sun Giant」の6曲は若干音がこもって聴こえるが、そのこもり具合が、かえって歌の伸びやかさと演奏の振幅をダイナミックに伝えているとも思う。
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このフランスのLa blogothequeのA TAKE AWAY SHOWのクリップが、またもや素晴らしい。
A TAKE AWAY SHOWの映像は、いつもこんなにいいのだろうか。先日The Young Godsの「Knocking on Wood」についていた映像も観たけれど、同様に質が高いなあと思った。音楽が日常に立ちあがってきて、目の前で「起こる」凄さと貴重さを、十全に捉えていると思うのだ。
ロックがまだ自分の歴史を刻む気があるなら、とっくにFleet FoxesのRobin Pecknoldは名を残す位置にいるような気がする。しかもその意義は(もちろん激しく矛盾しているのですが)、なにかのムーブメントの次は、なにかが起こらないといけない、という浅ましいロックメディアの期待の歴史を終焉させる、というものならば尚良いのだけれど。
個人的にはアルバム全体の、そして歌うRobin Pecknoldの佇まいに、アーシュラ・ル=グウィンの「世界の果てでダンス」に収録されている短い文章「暗い嵐の夜でした、あるいは、なぜ私たちは焚火のまわりに集まるのか?」と共振するものを感じる。
ル=グウィンのこの文章は、1970年代末のある「物語」(ナラティブ)シンポジウムで講演のかたちで語られた。おそらくはポストモダンな論者の仁義なき言葉が空中戦を演じていたであろう中で、ル=グウィンは、昔語りとも、引用の束とも、スピーチともとれるやり方で自らの講演を立ち上げた。
なぜ私たちは焚火のまわりに群がっているのでしょうか?なぜ私たちは物語や、物語についての物語を語ったりするのでしょう―なぜ私たちは真実であるとか、偽りであるとか証言するのでしょうか?アネイリンやプリモ・レヴィに尋ねてみてもよいでしょう。それは私たちが環境に飲み込まれて消滅するのを防ぐ行動をとるように構成されているからでしょうか?私はこの例証ともいえる大変短い物語をひとつ知っております。それはイングランド北部、カーライル寺院の北側袖廊の床から三フィートほどの高さの石に刻まれたものです。〜中略〜それはルーン文字で刻まれています。石に骨折って刻まれた一行のルーン文字です。英訳がタイプされ近くにガラス張りで掲示されています。これが物語の全てです―
トルフィンクがこの石にこれらのルーン文字を刻んだ。
さて、これはバーバラ・ハーンスタイン・スミスのごく初期の史書―V字形の刻み目―にかなり似通ったものです。物語としては、最小の連関性という条件も厳密には満たしていません。始まりも終わりもたいしてありはしません。素材は冷酷でしたし、人生は短いのです。にもかかわらず私は言いたいのです。トルフィンクは信頼できる語り手であると。トルフィンクは少なくともトルフィンクという存在、環境に完全に飲み込まれ消滅することに抗う人間の存在の証人となっているのです。
――アーシュラ・K・ル=グウィン『世界の果てでダンス』白水社p.54
現場で交わされた議論への揶揄になっていようとなかろうと、ここで重要なのは、ル=グウィンが、物語を語るのに、物語りするという行為そのものをオミットするようなことがあってはならないということを示してみせたということだと思う。
ル=グウィンのパーフォーマンスは愚直だろうか?もっとも賢明で、かつ現実的な人だけが、愚直という言葉での自己規定を使用し得る、と考えてみる。
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「現代詩手帖」5月号を読んでみる。
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4月号で小笠原鳥類さんと対談をしていた佐々木敦氏の「」は、今回のお相手は、唯一共感できる世代論でもあった新書『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』、詩集『音速平和』『Z境』の著者・水無田気流さんだった。
社会学者でもある人なので、しゃべりがおもしろい。どんなメディアよりも「速い」詩の言葉が、受け手があまりにも少ないということで危機に瀕している、そんな状況をどうするのか、という話を大言壮語ではなく、水無田さん自身の足場で考えているのが示唆的であるように思えました。
上のFleet Foxesのこともあって、藤井貞和さんの『詩的分析』asin:4879957186から、デリダの詩の定義のひとつ「<心>の、ある一つの歴史=物語、つまり「暗記する・暗唱する〔心を通じて学ぶ〕という固有語法(イディオム)のうちに、詩的なかたちで包みこまれているような歴史=物語」」についての記述を引用しておきたいです。
心を通じて学ぶ(to learn by heart)とは(心への)書き込みであって、エクリチュール(書くこと)以外ではない。創造と暗記とを、まるで対立概念であるかのように思ってしまう、近代主義者にとっては、信じられない事態ながら、ここで起きたことはエクリチュール革命であって、ほかのことは考えられない。古今和歌集時代の書き手は何百だって、何千だって短歌をおぼえ、心に書き込んで、そのちょっとしたずらし方から、つぎつぎに創作的契機を産むのである。
――藤井貞和『詩的分析』書肆山田p.339