みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

20 minutes in Minoh、『音楽の本の本』、稲田雅美『音楽が創る治療空間』、恩田亮『DIARY』、「インキャパシタンツ&ソルマニア」@難波ベアーズ

nomrakenta2012-02-26


箕面ではこの冬2度くらい雪が明け方の路面に残っていたそうですが、ほとんど記憶にありません。
ただ今年の冬の寒さは特に身に沁みた。
風邪をひきやすくなったのはひとえに自分の運動不足によるものですが、ライブに行きたくても到底家を出る体調ではなかった辛さが何度も重なった2月でした。

そんな中で、風邪が一番酷いときに、これだけはと思ってベアーズにソルマニアを聴きにいったのは結果的に良かった(後述)。


風邪の酷い症状が寛解しかけていた週末、EDIROLのR09を持ってツタヤまでDVDを返しに行った。
その道すがらR09の録音をオンにしてイヤホンでモニターしながら歩いた。
ツタヤから折り返す道で、子供の頃から20年くらいは見ていなかった市営グランドへの道に入ると、昔からあったはずの公園が音のフィールドとして素晴らしいのに気づいた。風に葉をざわざわ震わせて呼吸するような木々の音をバックにして、テニスに興じる人たちの声やボールの弾む音があまり五月蝿くない感じで入ってきて、もう一方の小山からは「かくれんぼ」している子供たちの声が聞こえてくる。犬の散歩をしている人の声が時折はいってくるのもいい。
風は凪いでおらず猫よけのプラスチックの風車が旋わっていた。
ちょっと前には雪が降っていたが直後に柔らかい陽射しが落ちてきたりした、そんな日だった。

※表示されない方用→http://soundcloud.com/earblink/20minutes-in-minoh-20120218




音盤時代の音楽の本の本

音盤時代の音楽の本の本

音盤時代から刊行された『音楽の本の本』にはとても考えさせられています。
ほぼ同じタイミングで出た湯浅学さんの『音楽を迎えにゆく』と共に。

情報媒体としての音楽雑誌がどんどん用無しになっていくことは自明のことなのかもしれないですが、音楽を聴くことだけに飽き足らず、なぜ音楽に関する文章まで読みたい読みたいと願うのか、それには湯浅学のような書き手がいるからだ、と答えてしまうのが自分としては一番楽なのですがが、も少し一般化してみるならば、佐々木敦氏が語っているように「書き尽くせ得ないものを何故書くのか」というディシプリン含みの興味なのかもしれません。

数名の音楽評論家(「音楽評論」こそをやってみたかったのだ、とはっきり述べているのは湯浅学さんだけであるのは自分にとっては興味深い)が挙げているグリール・マーカスはやはり避けて通れない人だと思う。その『リップスティック・トレイシズ』が翻訳なっていないのもまた示唆的なことだとも。
だといって、日本の音楽評論が痩せた土地なのだということではまったくないわけで。本書に挙げられている日本の音楽の書き手は自分が読んだことのある人たち(平岡正明高橋悠治武満徹)だけでも音楽に関する文章ということを抜きにしても一度はあたってみた方がいい文章ばかりだと思う。

80年代のミュージックマガジンが資料としてかなり面白いものである、というのも、ここ数年安く譲っていただいた古いバックナンバーを拾い読みしている身としては膝を打つ話です。音楽ではなく、音楽批評自体の機能と位相が、おそらく今とは全然異なっていた。
未だにロッキング・オン的なものへのアレルギーというのもあるのかもしれないが(僕も一時期アレルギーでしたが)、最後のインタビューで佐々木敦氏がまた、そんなに違いはないのではないかと上手にいなしておられるかのよう。

その本を読むことで音楽を聴く耳が変わった、というキリクチには、のっけから高橋悠治さんにそんなことは有り得ない、と冷水を被せられるのですが、これも嫌な感じではない。もちろん、予備知識や頭の中のマッピングや先入観は自分のものだが、聴こえてくる音楽はいつもそれらとは自ずから別物であり決して侵食されることはなくって、だからこそ、音楽を聴くことは止められないし、音楽について真摯な態度で書かれた文章には価値がある(のだと思います)。

音楽を迎えにゆく

音楽を迎えにゆく


このブログを始めるきっかけになった(と書くと大袈裟ですが、一応プロフィールにもその旨残っている)パスカルキニャールの『音楽への憎しみ』は、若尾裕氏によって挙げられている。芥川也寸志『音楽の基礎』、ジョン・サヴェージ『イングランズ・ドリーミング』、相倉久人『機械じかけの玉手箱』、東理夫『アメリカは歌う』、水上はるこ『青春するロンドン』…。
自分にはこのあたりが読んでみたいと思わせてくれる発見でしたが、ところで、この本に加えたい本を最近一冊読んだ気がしています。
音楽が創る治療空間―精神分析の関係理論とミュージックセラピィ

音楽が創る治療空間―精神分析の関係理論とミュージックセラピィ

稲田雅美『音楽が創る治療空間 精神分析の関係理論とミュージックセラピー』
ミュージックセラピーの実践者による理論と現場をまとめた本なのですが、治療の現場(ここでは数名による即興演奏の場)から足が離れることはなく、理論はしっかりと根を張ったものになっているように感じる。
音楽療法に限らず、療法ものというのは、関係者だけわかればよさそうな臨床例が並んでいるだけのものが多いように感じてきたし、それがこの種の書籍の本望なのかもしれませんが、本書は一般の音楽ファンのある種の層にも興味深いものになっているのではないかと。

音楽療法、と一口に言うのだけれども、なぜ「音楽」なのか、ひとつの手法として患者による即興演奏というものがあって、それがなぜ「治療」になるのか?そんなことがわかりやすく書いてある。そして、なぜ「音楽療法」ではなくて「ミュージックセラピー」という言葉なのかも。

ひとつの指標として、患者が楽器を持って演奏するときの、打楽器による単調な拍打ちやリズムパターンの繰り返し(「閉じたリズム」)、同一音型の反復、散逸的な音の表出、そして既成のメロディーの再現(「閉じたメロディー」)が挙げられて、そこにセラピストがどのようにして介入していくのか、が実践や例とともに書かれてあるのですが、この「閉じたリズム・メロディー」も単に自閉的な状況を意味しているだけではなくて、機知へつながる契機として最後に書かれています。
「閉じたリズム」や「閉じたメロディー」といった概念を考えていると、「病気」と一言で一般化できるような症状はおそらくひとつだって存在しないのだろうと思えてきます。

リズムのところで読みながら、おおこれはどこかで読んだことがあると思ったら、すぐあとにクラーゲスの古典からの引用があった、と思えば、後半の方では、ドゥルーズガタリの「リトルネロ」の話も出てくる。

リズムの本質

リズムの本質

 
千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

念を押しておきたいのは、そういった諸理論の触れ方が、現場から浮いたものにはなっていないということです。
たとえばリトルネロは、音楽史的な元文脈での「リフレイン」よりも、「千のプラトー」で展開される主要概念としての方が、使用欲が一般的に掻き立てられるのかもしれませんが、本書ほど実践に結びついて血肉化した言葉として読むことは殆ど無いのではないかと思う。
要するに、グループ即興演奏によるセラピーの空間では絶えずそこを通る回路として描かれている。上から目線な精神分析の理論ではなくて、実践のなかでの柔軟な方法として述べられているわけで、こんな本は読んだことがない。

「表現的になったため領土化され自発性を獲得したリズムとメロディ」とは、領土となりしかも囲みの一部が開かれた輪としてイメージされている。「領土」という言葉に冒頭の「閉じたリズム・メロディー」が自分のなかでは被さってきました。しかし、それが閉じている場合はグループ・セラピーは完了しない。セラピストは患者の「閉じたリズム・メロディー」に対して楽器で対照的な呼応をして、「囲みの一部が開かれ」た状態にもっていく。この「開かれ」が、精神的・社会的・芸術的なもの或いはそのどれにも少しずつ開かれるということなのかとても複雑で困難な話なのだろうと思うのだけれど、要するに、ここにこそ、箱庭療法やコラージュ療法などの他の芸術療法では担いきれない、「空間に放たれて、そしてそのまま消え去ってしまう」(エリック・ドルフィー)ものとしての「音楽」の、「音楽」でなくてはならない必然性が読み取れるような気がしました。

もうひとつ、本書がとても貴重な点は、「音楽」が、「沈黙」との対比の上で存在していることだと思います(ピカードの『沈黙』を最後に引用している)。「歌わされたり」「演奏させたれたり」することの対極にある現場。

しかしながら”Music Therapy”と「音楽療法」の隔たりは大きい。音楽療法と呼ばれる活動の多くは、既成の楽曲を利用することを前提としており、なじみの歌を唱和することや素朴な楽器でリズムとりをすることによって心身機能の活性化を図ることを目標に揚げている。他方、Music Therapyにおいては、かぼそく聞きづらい音や無秩序な音の連なりの生起が、人と人とのあいだを行き交う「言葉」となるとともに、そのすべての音はmusicと呼ばれる価値があり、Music Therapyの基軸である即興演奏の要素として尊重される。(中略)ところで上述のAlvinの古典を読み直してみると、そのなかに記述されるセラピイの場は、概して「静寂」が優位である印象を受ける。現在行われている日本の多くの音楽療法のように、さまざまな音楽が駆り出されて治療空間が音で充満する状況ではないのである。実際、Alvinに薫陶を受けた人たちにスーパーヴィジョンを受けた著者が経験した英国のミュージックセラピイは、総じてきわめて静かな活動であった。すなわちそこでは、音は無条件に使用されるべき既存の存在ではなく、セラピストとクライエントのあいだで生まれては消える生命体のように扱われる。ミュージックセラピイの真髄は、あらゆる音が沈黙から生まれることにあると言える。
――稲田雅美『音楽が創る治療空間 精神分析の関係理論とミュージックセラピー』p.123 あとがき より

音楽がどのようにして必要であるのか、それを書けるのは音楽評論家や音楽愛好家ではないのかもしれない。

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上記の『音楽の本の本』のなかで、恩田亮が音の聞き方が変わった本として挙げているのはバロウズの『裸のランチ』やピーター・ビアードの『ダイヤリー』。恩田亮は、80年代末にロンドンで中古のカセットレコーダーを買ってそのままモロッコに行って、それからずっとカセットレコーダーで日常を録音しまた重ね録りしていく「日記」を続けているらしい。


これは最近買った恩田亮の小冊子付きカセット『DIARY』。音は上記の重ね録りのコラージュというのではないけれど、2004年2005年の異なる場所の昼と夜のフィールドレコーディング。小冊子に掲載されている数々のカセットの写真、そして文章が合わさって、魅惑的な日々の断片になっています。


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ここから下は、風邪のために、アップするタイミングを逸したエントリーの下書きを元にしています。
【2月7日〜11日の日録】

Mike Kelley

Mike Kelley

マイク・ケリーが死んだのか…(Twitterで知った。いい加減訃報Botをフォローするのはやめたほうがいいのかもしれません)。Destroy All MonstersのBOXを手に入れて聴いていたとき、たしか阪神淡路大震災があった。マイク・ケリーで好きだったのは、MC5やイギー・ポップなんかのデトロイト・ロックを堂々とファインアートの土俵に乗せてきたことだった。


どうやら、また風邪のようなのだった。
7日火曜の導入研修で、電話機と履歴システムについて2時間喋り続けた後に多少喉が疲れたなあとは思った。くしゃみが止まらないのは、早々と花粉も飛んでいるというし…。木曜くらいから咳が出始め、金曜朝にはかなり頭がぼうっとし始めていた。午前中に内科に行ってインフルエンザかどうか確認してもらうと、チェックシートに普通ははっきりと出るらしいが、出ないので、とりあえずはインフルではないということになるが、この薄ぼんやり加減はプロがみると怪しい、とかよくわからないことを言われる。結局インフルなのかどっちなのか、と聞くと、どっちにしてもインフルの処置はしておきましょう、とのことで、薬の入った湯気の吸引と吸い込む粉薬をその場で処方。そのクリニックではその日だけでも4人のインフル患者が出たとか。結局、出してもらった薬は漢方やらロキソニンやら3日分くらいだったのでインフルではなかったらしい。この日は定時で帰る。帰ってから薬も飲むが、どうにもしんどさが取れない。お風呂も入れずそのまま布団に沈む…。咳で腹筋が痛くなってくるし鼻水も止まらない。
一夜明けて11日土曜。
薬が効いたか、若干ましな状態だったが、とりあえず午前中はベッドの中で横たわって、ちくま文庫桂米朝の選集を順番に読んでいく。
これは全部で4冊あるようだけれど、手元にあるのは、四季折々、奇想天外、商売繁盛の三冊で、これらを自分は前の職場で営業の仕事をやっているときに買った。

そのとき読んでいて楽しかったのは商売繁盛の巻だったが、今は四季折々の「まめだ」なんかのサゲ方はあまりに映像的に感じられて決して風邪のためではない震えを感じた。


午後4時くらいまでは、そうやっておとなしく本を読んでいて、ようやく着替えて
難波へ。
難波ベアーズで「インキャパシタンツ&ソルマニア」のライブ。贅沢な顔合わせである。ベアーズ25周年だそうな。
難波に着いた頃には身体が冷え切っていたので、地下街の飲み屋で熱燗におでん。あたたかいものを身体に廻らせる。
ソルマニアは数年前に書いたこのエントリー以来のライブ。奇しくも今日も「風邪」である。わざとではないですが。冒頭機材トラブルらしきものがありましたが、やはりソルマニア。グイグイ立ち上がる金属の生き物。これは自分の勘違いなのかもしれませんが、前回よりもアンビエント的に美しいとすらいえそうな瞬間がでてくるようになった。



アンプからの爆音が着ていたダウンジャケットの表面をプルプル蠢動させている。身体から悪いものが払われていくような爽快感。
インキャパ体験はたしか3回目。はじめては2000年の東京でバスタードノイズを迎えたイベントで観たと思う。そのあと、大阪のクアトロのノイズイベントで2回目の体験。そこから10年強、空いた。
ライブの後、かなり体調が良くなっていたので、会場で合流したIくんと飲み屋に。呑めるがしかし手羽が食べられない・・・。Iくんはとても若い人だが音楽の話が出来て楽しい。もらったIくんのCDRも良かった。
会場物販でソルマニア大野さんソロ4作。まとめて購入するととても信じられないお値段でした。