みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

玩具風景:エリクソン『玩具と理性』を読む

nomrakenta2008-08-13



E.H.エリクソンの『玩具と理性』を読んでいると、文脈も考慮せず引用したくなるフレーズに色々とぶつかる。冒頭のウィリアム・ブレイクの引用からしてそうだ。

子供の玩具と老人の理性とは、
二つの季節の果実である。

本書は「玩具の世界は、子どもの築く港だ。自我の分解修理が必要なとき、彼はそこに帰っていく。」という名文句のある『幼児期と社会』のあとを引き継ぐ書物で、内容は1972年の講演を元にしている。講演の原題は「遊び、ヴィジョン、欺瞞」で、幼児期のユートピア状態をさらにベトナム戦争当時の米国の「政治的」態度へ投影しようとしていた様子。
エントリーの右肩にあげた画像は、本書の導入部の重要なエピソードであるロバートという5歳の黒人少年の症例分析に出てくる「積み木」の図で、ロバート少年は、いつも部屋に入ってくるとすぐに「どこで遊べるの?」と玩具にまっしぐらに向かっていく子供で、彼が構成した積み木に関して、エリクソンは、少年を取り巻く環境や、彼自身の内面的なバランスを、その構成に見出し物語り分析してみせるのだが、とりあえずそこは本書を読んでもらえばいいので割愛するとして、多くの子供が玩具に向かって集中するときの光景なのである。

極めて感情抑制の強い子供を除くあらゆる子供が、小さな舞台の上に玩具を配列する機会を与えられると、熱心に架空の話を作りながら、或る者は真面目に組織的に、或る者は突然「閃いたアイディア」を基にそれに取り組み始めるのである。子供の年齢によっては、いくつかの質問をしたり、いくつかの玩具をいじくりまわしたりして最初の時間を空費する者もあるが(このような場合には彼らが最初に選択した玩具は極めて示唆的である)、しかし彼らはまもなく或る動かしがたいテーマを掴み、その作り方に関する一定の感覚を得て課題に熱中しはじめ、やがて「これが作りたかったんだ、これでいいんだ」とでも言いたげな表情と身振りで突然その制作の完了を告げるのだる。
――E.H.エリクソン『玩具と理性』みすず書房 p.28

特にこの引用した文の最後の数行あたりの感覚、とてもわかるのである。このブログのために文章を書いている今現在ですら「その作り方に関する一定の感覚を得て課題に熱中しはじめ」ているし、仕事で毎月のミーティングのテーマをひねりだせたときなど、間違いなく『「これが作りたかったんだ、これでいいんだ」だといえる(で、厳しい反応を受けて反省する)。
さらに手前味噌で申し訳ないのですが、小さなキャンバスか厚手の画用紙に向かってコラージュを仕上げようとしているときに感ずる「出来た」感というのがあって、これは他人にはやはりわからないのだけれど、自分の中である法則が貫徹されたときにやっと感じれるもので、それが無い間は、例え結果としての「作品」が、他人には未完成のものと見分けがつかないのだとしても、「作業中」の気の抜けない状態なのである。この完成と未完成の差異が自分にしかわからないあたりが、やはり自分は「美術作家」ではなかった点なのだと今にしてみれば思い到るわけですが、では、自分のコラージュ作業というのは、本書におけるロバート少年の積木のようなものなのか、という問いをたててみると、それで何か不都合があったろうか、とも、やや爽快な心持ちで答えることもできるのでした。

玩具と理性―経験の儀式化の諸段階

玩具と理性―経験の儀式化の諸段階

「いかなる遊びも、まえもっておのずと区画された遊びの空間、遊びの場の内部で行われる。場の区画は、意識的におこなわれるときと、当然のこととしてひとりでに場が成立するときとがある。また、区画が現実におこなわれる場合と、ただ観念的に設定される場合とがある。」〜中略〜「それはその領域だけに特殊な、そこにだけ固有な、種々の規則の力に司られた祓められた場であり、周囲からは隔離され、垣で囲われて聖化された世界である〜現実から切り離され、それだけで完結しているある行為のために捧げられた世界、日常世界の内部にとくに設けられた一時的な世界」
――E.H.エリクソン『玩具と理性』みすず書房 p.43

エリクソンはこれらの言葉をホイジンガから見つけ出している。この示唆は自分にはかなり重要に思えて、おのずと区画された遊びの場(それが自律的であろうと他律的であろうと)、「現実」との境界のあるなしが、それを玩具的理性であるか、ないかの境界ともなっているように思える。つまり、遊びとして聖化するか、「現実」に対して敷衍してしまうのか、その違いは言うまでもなく極めて恣意的で、その差異や混同は、当然「遊びを遊ぶ」のか、「現実をふざける」のか微妙な決着のつけどころであって、むしろ、永久に決着しないほうが、楽しい問題でもあるのではないかと。

この文章を書きながら、音的に脳内を駆け巡っているのは、カール・ストーンのコラージュ音楽だったりするのは正直ベタではありますが。

例えばロバート少年の症例ならば、積木自体の構成と、それが置かれたコンテクストと内的な意味連結も含めたものを、エリクソンがところどころで『玩具風景』という言葉で表現している事に興味が湧いてしまう。原文でどんな単語が使用されていたのかわからないが、さしづめ「Toy-Scape」だろうか。だとしたら、これもコラージュの「場」そのものを言い当ててくれているように感じてならない。それから、もちろんある種の即興音楽が演奏される場、にも。
冒頭のブレイクの「子供の玩具と老人の理性とは、二つの季節の果実である」というセリフは、もちろん示唆するところには共感するのだけれど、ぜいたくをいうと、どうもあまりに格好が良過ぎるように自分には思えてならず、季節は果たして二つだけなのか?その果実には子供と老人以外はありつけないのか?と駄々こねてみたくなるのである。
こういった「玩具風景」を、いつかもっと拡散して考えてみたいのだけれど、今日はとりあえずここまでにします。

Andre Sider Af Sonic Youth

Andre Sider Af Sonic Youth

さて、またかよ的な(そろそろ諦めてもらった方がいいかもしれません)ソニック・ユースの自主レーベルからのリリース。2005年のマッツ・グスタフソンとメルツバウを交えての60分ぶっ通しのパフォーマンスを収めたもの(ジム・オルークももちろん参加)。最初の10数分はソニックスの面々による互いの言語を少しずつ出し合い、絡み合いしつつの、たとえば初期の実験的な演奏が聴ける『ソニック・デス』で聴けそうな、ファンにとっては「懐かしい」感じの即興で始まるのですが、徐々に、マッツ、メルツバウが絡んできて、強烈な音場(プラトー!)の放出と持続、それから宇宙空間への飛翔(…多少苦笑)が始まります。ソニック・ユースの即興演奏というのは、どんなにカオティックであっても一枚岩ではなくヴェールが幾重にも重なったようなところ(押しと引き)が感じられるのですが、本作の後半へのなだれ込みでは趣がはっきり異なっていて、それが導入部分とのコントラストにもなっていて、おもしろい。これも音の「玩具風景」と、言えなくもない、のかも。
とはいえ、2005年では近年とはやはりいえないわけで、もっとリアルタイムの活きのいい音源を届けて欲しいなあとは、思ってしまいますが。

Everydays

Everydays

Alan Lichtと恩田アキの共演盤。心地よいの日差しの中での出来事のように、奇妙な即興演奏が展開されます。