みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

フェスティバル・ビヨンド・イノセンスが終わって。

nomrakenta2007-07-30


参院選、自民が大敗。民主が優れているわけじゃないだろう。年金問題も要素の一つであって、小泉政権のツケが回ってきたってことだろう。

昨日は、そんなニュースを横目でみつつ、先日のFBIの感想をずっとほったらかしにしていたのでなんとかまとめないと、次のエントリーに進めないという極私的問題もありつつ。
こちらをみると、やはり、NPO法人年度内解散の方向とのことで、これでFBI復活は、まあ、はっきりなくなったことが確認できる(・・・)。
それでも、考える価値のある事はそれでも、いくつかあると思う。たとえば、「即興」とかその手の音楽を行う「場」としての機能とか。

FBIが神戸のジーベックホールで開催されていたころのことを全く知らないので、心もとない限りなのですが、FBIについてよくいわれてきたであろう、「演奏者と観客の垣根がない」という性格は、それはそれでたしかにそうだったが、本当にないのかといえばそんなことはやはりなく、「場」が変われば、全く異なっていたことだとも思う。
BRIDGEには「楽屋」がなかったので、ミュージシャンも寛ごうと思えば、観客と同じカフェスペースを使わなければならなかったので、ミュージシャン同士の「社交」も自然に観客に「開かれ」ていた。こういった場面の数々は、特に若い人達には刺激的だっただろう。僕個人でいえば、高橋悠治やカール・ストーンと同じスペースにいれるということ、これはいったいなんなんだろうと嬉しいよりも先に戸惑いを感じた。
この戸惑いっは、もちろん単純な音楽ファンとしての悦ばしい種類のものであることに間違いはなかったのだけれど、もう少し別の腑に落ちる角度もどこかにあるような気がしている。
観客は殆ど敷居なしで行き来できる演奏とカフェスペースや出店、CD売り場をうろうろして(満員でなければ)、外に出て帰ってくることも出来た。
そんなふうに、BRIDGEの開放的な雰囲気は、音楽の力にのみ拠っていたわけでなく、「場」の個性が「焦点の無さ」の良い方向に生かされたからだと思う。
平時のイベントでもそうだったろうが、特にFBIにおいては、「焦点の無さ」と音楽と観客の「循環性」は最も上手く実現されていたと思う。

そういえば、

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英

入場待ちのとき複数のお客さんが手にとって読んでいた。自分もそのとき買ったところだったのでなんかこそばゆかった。ユリイカって最近読んだことなかったが、この特集は資料としてよくまとまっていて保存版としても貴重になりそう。
デヴィット・トゥープの文章がいいなあ。これは翻訳が出ていない「Haunted Weather: Music, Silence, And Memory (Five Star Fiction S.)」という本に収録されているものをこの特集用に起こしたものみたい。「弱音系」の同時代的回想にもなっている。
Haunted Weather: Music, Silence, And Memory (Five Star Fiction S.)

Haunted Weather: Music, Silence, And Memory (Five Star Fiction S.)

最後の方に「音遊びの会」の『音の海』に大友氏が参加してことについての対談ものっていて、「音遊びの会」は、以前BRIDGEでセッションを観たことがあって、その記憶が蘇ってきて、大友氏の指摘する問題点がいろいろ興味深かった。

大友
今回の経験で、音楽に対する感じ方がずいぶん変わったような気がしているんです。たとえば、僕たちが普段やっている即興演奏っていうのが、作曲作品やるのと、実はあんまり変わらないなぁって。最初からそれはわかってたつもりだったんだけど、僕等が即興と呼んでいる音楽が、あまりに当たり前の凄く普通の予定調和の世界に思えちゃって。本当、次に何が起こるかわかんないっていう自由さは普段、僕らの世界にはないからね。
ユリイカ 第39巻第9号 p.252

FBIは即興に限ったイベントではなかった。会場で100円で売っていた過去のFBIのパンフをみても「ふちがみとふなと」はほとんどFBIの最初から参加している。けれど、その目玉はやっぱり「即興演奏」をするミュージシャンたちだったわけだ。

3日間観て思ったのは、上の大友良英氏のことばのように、明らかに予定調和的な「即興」らしい演奏と、そうではなく演奏者が互いのヴォキャブラリー自体を予想できずに探り合う演奏があるということ。単純に前者がつまらないということでは決してなく、決まってほしいところに演奏が嵌っていくのを聴くのはもちろん興奮するし、後者でも結局、ソリが合わなくて空中分解しているものもあったように感じる(その空中分解がよくないのかどうか、判断することは実は難しい)。それでも最終日のセッション大会での灰野敬二と梅田哲也、江崎將史などの場面のように、なにか腑に落ちるものが大きいのは後者の演奏に出会った時だった。