音の夢をなぜみないか。或いは、ジョン・ケージだから関係ない:大谷能生『貧しい音楽』を読みながら
<音>の夢ってみますか?
というか、夢で<音>を聴きますか?
僕はそういう経験がありません。
もちろん「夢の中で音楽を聴いている」シチュエーションはあったようにも思いますが、音が聴こえてきたことはありません。
いわば、認識だけが鳴っている。
自分では「夢で音は鳴らないもの」と、そう思ってきたのですが、色々ネットでみてみると、夢で音楽を聴いているという人が結構いるようです。
そうなると、むしろなぜ自分は夢のなかの音を憶えていないのか、と設問する方が適当なのかもしれません。あっとしても、記憶に残らないように出来ているみたい。
夢というのは、あくまで脳が認識する刺激の変形と乱再生と思っていますので、聴覚というのが「音声情報を一次聴覚野の細胞の興奮に変換すること」から「意識が音を音として感じ認識すること」なのだとしたら、後半の意識が音として認識する部分が、勝手に自動操業することも十分あり得るのであって、ただ肉体としては、前半の「音声情報を一次聴覚野の細胞の興奮に変換する」から「意識が音を音として感じ認識する」のラインをもって「聴こえる」とすることに慣れきっているので、自分の場合「夢で音を聴いた覚えが無い」となるのではないかと思えるわけです。
それは最後まで置いておくとして、この『貧しい音楽』asin:4901477358の、なにしろ気になる帯の惹句「ジョン・ケージは関係ない」は、90年代の日本の即興音楽シーンでの言説空間に限定してのタイトルのようですが、自分にとっては色んなことを想起させてくれる文言でした。そこでそんな事ごとをとりとめなくぼちぼちと書いてみたいと/いや、もう書き始めているのです。
自分にとってこの本の重要な点は、
①複製芸術時代の音楽の作成環境だけでなく、受容環境も直視して前景化していること
と、
②「みみにまぶたがない」という音楽美学(?)を人体的な問題から問い直してしまうようなテーゼを採り上げていること
の二点です。
それを確認するのに最適の優れた文章のサンプルがつまっていて、それぞれ①に関しては第一章『二重化された死の空間』に、②は第五章の『ホロコーストを録音するために/耳のために夜を用意する』に詳しいです。流れるようでいて圧縮された文章が極めて同時代的な感覚です。こういうのってあんまりないですね。書名も「Poor Music」と英題が付されていますが、単純な私の中では「ムジカ・ポーヴェラ」(「アルテ・ポーヴェラ」にちなみまして)。
もはや曾孫引きくらいに語られ尽くした感もありますが、ジョン・ケージは無響室に入って自らの神経系の高音と血流系の低音を発見、「沈黙はない」といいました。パスカル・キニャールは憎しみをこめて「みみにまぶたはない」と書きました(それは音楽が決して暴力と無縁でなかったことへの抗議でした)。キニャールの方はあんまり知られていないかもしれませんが、この言葉に接したからこのブログは存在しています。
この『貧しい音楽』に書かれているのは、そのどちらでもないのだけれど、いまの時代に音楽をつくる/に接するにあたっての基底をみつめてなお、前に向かう推力を示しているように思います。
まず冒頭の「二重化された死の空間」という書き下ろしの抽象度が特にいい。
デューク・エリントンの演奏を録音するレコード初期の映像から、思考が飛んでいくところ、斬られたのに気づかないような、そんな切れ味です。ちなみにここでの「二重化された死」とは、乱暴に要約しちゃいますと、
①記譜されることでの生の音楽の死
②録音されることでの生の音楽の死
この二つということになります(リゲティの「ロンターノ」とカヒミ・カリイのアルバムを例にとりつつ進む文章は流麗です)。二つとも、現代の「ぼくら」にとっては、あまりに当然の前提としていて意識するのも困難な状況ではあります。それをもう一度水底から見返してみる。そんな異化の可能性を落ち着いたトーンで読者に示唆してみせる、かなりの高度な文章です。
で、ジョン・ケージなのですが。現在、ケージの感性や反美学を起動するには、ものすごい労力が必要になるでしょう。正直言って毎日聴ける音楽でもないですし、そもそも実験音楽の美学自体が、それをポストモダン的音楽の在り方として厚遇した、遅くとも1994年くらいまでのポストモダン礼賛状況(浅田彰の『ヘルメスの音楽』とか)の霧散と共に、とうの昔に過去のものとされてしまった感がありますが、最近の『水声通信』のジョン・ケージ特集
[rakuten:book:12030834:detail](2007年三月号)での『ナンバーピースと生命の複雑さ』(渋谷慶一郎×池上高志による対談)などはそんな中でもかなりハードコアな採り上げ方だなあと驚嘆し、またケージの特に晩年のナンバーピースに向かい合いたくもなってきます。
そうやってケージの音楽へのアプローチというのは、何重も熱的な「死」を内臓しながら、もちろん決して止むことなく続けられてきたわけですが、そのことと90年代のいわゆる「音響派」の隆盛とは、ケージ的な聴取が土台となったのかというと、実はあんまり関係ないのかもしれない。そういうことがこの本には書いてあるのではないかと思います(自信はありませんが)。
「音響派」のいちいちや新しい「即興音楽」のいちいちが、ケージには関係無いのとパラレルな現象として、ケージの割と「まともな」音楽性*1に関しては、その沈黙や偶然の導入と主観的決定の放棄に惑わされて、自分も含めて多くの人が注視(聴)して来れてはいなかったのでは、とも。
最近観たこのDVDでケージがこんな風にナレーションで語っていました。
間の抜けたものにならず、しかも自由であることが課題だ。
ちなみのこのドキュメンタリーは、70年代末にピーター・グリーナウェイが米国実験音楽作曲家4人(ジョン・ケージ、ロバート・アシュレー、メレディス・モンク、フィリップ・グラス)をシリーズで撮ったものの一つで、1979年にロンドンの古い教会の内装を剥がして古い壁を剥き出しにした内部で行われた回顧コンサートの模様を軸に、ケージの音楽遍歴をざくっとまとめていて、内容の質は高いと思います。
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たとえば、『American Text Composition』(右肩写真下)という、1971年にリリースされた音響詩というか「テキスト(音声)=作曲」作品ばかりを集めたコンピ(CDはOtherMindsから出ています)の中に、ケージの作品が収録されています。
10+2:12 American Text-Sound Pieces
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「うた」の合間に一定の沈黙を含ませるよう指示があり、これは居心地の悪い咳払い程度では到底済まず、音の基底が見えて寒くなる、あるいは極度の緊張が襲ってきます。これは「声」が「うた」を目指して投げかけられたそのままの状態で分断されてオブジェとなっているからです。
ケージの声楽曲を聴くと、聴衆参加型の音楽形態を考える反面、常にケージにとって、演奏者にクラシックの素養、あるいは上滑りな「自由」とは対極にあるような緊張に耐える技術を持っている事は、ほとんど必要条件なのではないかとも思えます(非常に聴きやすい『Litany For Whales』などを念頭しています)。これは一般的に考えられる即興的な自由さに、作曲(というかルール作りという意味で)ディシプリンを与えていく作業で、沈黙も当然相当重要なレシピとして対置されます。
極端な例として、「うた」がチャンスオペレーションと沈黙の配分によって、ぶつ切りになっていたとしても、求めているソノリティや声のトーンは明らかに発声法を習得していなければ、ケージの声楽曲の醸すある種の「玄妙さ」は成立しないように思えるのです。だからケージは、デビッド・チュードアの例を挙げるまでもなく、プレイヤーのセンスや熟練を排除しようとはしなかった。それがケージの音楽の中でのヒエラルキーの残滓であるというなら多分そうでしょう。かつて才気走ったコーネリアス・カーデューが噛み付いたのも、そんな部分だったのではないのかと。これを「保守性」と呼べるのかどうかはともかく、同じようなベクトルは、ケージの他の面からも見ることができると思います。
実はケージは、録音された音楽に対しては否定的でした。先ほども挙げましたDVDの中で、ケージは若いインタビュアーとこんなやりとりをしています(1979年くらいのインタビューでしょうか)。
ケージ:私はレコードを必要としません。レコードなしでも幸せになれるのです。でも誰も私の意見には耳を貸さない。
ほとんどの人はレコードを聴いています。
インタビュアー:でも、演奏会に行けない人にとってレコードは有意義(useful)なのでは?
ケージ:とんでもない(まったくusefulではありませんよ)。それは真の音楽の必要性を破壊するだけです。
レコードはあくまで代用品に過ぎず、人々を音楽を聴いた気分にさせるだけなのです。このような音楽体験は本末転倒であり、音楽の機能を著しく歪めます。例をあげてみましょうか。
ストラヴィンスキーが自作を指揮した演奏会に出かけたときの事です。私の後ろに父親に連れられた10歳くらいの子供がいました。演奏が終わって子供は父親に言いました。
「レコードと違う!」(笑)
インタビュアー:(笑)
ケージ:もっと滑稽な話も知っていますよ。
同じような状況で子供は母親に言いました。
「レコードを裏返してよ!」(ケージ特有の空気の抜けるような笑)
ずいぶん言い切っています。それにケージにしては凡庸な保守主義的な意見にきこえもします。他にもフリージャズには否定的(「線的」(リニア)と形容)でロックには肯定的(「ロックの場合、伝統は音響の底に沈んでいるのです」)とか、おもしろい言動がありますが(ダニエル・シャルルとの対談集『小鳥たちのために』を参照)、この複製音楽嫌いという事実は、わたし個人でいえば、興味をもってケージの音楽を聴いていこうとするとき、演奏会自体もあまりありませんから、ずっと心理的なストッパーになってきたことは、正直に告白できることです(ですから、ケージ音楽の「聴取」に関しては、いつも自信というものが皆無です)。
昔、音楽家は固定的に音楽家だったのでしょう。しかし、20世紀中葉(複製技術時代)から、リスナーが音楽家になるケースが出てきました。いうまでもなく、この質的な移行は重大なものだと思います。そして今では、もはやリスナーが音楽家といってもあながち間違いでない状況で、それは音楽の「聴衆」を気付かないうちに、これまで存在したことのないような「耳」の状況に晒してもいるのでしょう。
それは『貧しい音楽』ではこんな風に表現される状況なのかもしれません。
ぼくたちは「録音」という窓を通して音楽を眺めることで、これまであった「書かれ、演奏されることによって生まれる音楽」の豪奢な響きから身を引き剥がし、そこで展開されている精密な思考からもいったん距離をとって、その響きをまるで海の波の響きのように、一回性のノイズに塗れた「かつてあり、いまはもうない」事物として、対象化することができるようになるのである。
『貧しい音楽』p.20-21
こうした「ぼくら」が前提とする複製技術環境と、それを土壌とする音楽の状況(「音楽家」と「聴衆」、そのどちらも含んだ)を、1969年にすでに50代後半だったケージが想定できていたと思うほど盲信はできないのだとしても、このアナーキーなキノコ音楽家への敬意を失うことにはならない筈です。
だからこそ「ジョン・ケージは関係ない」のです。『論理哲学論考』の最後の決めフレーズと同じ様に、おいしそうな惹句から始めてしまっても意味はない。それでは脈絡が形成されないからです。
このDVDに戻りますと、ケージは広告代理店の重役会議で自分の作品の評価をきいたときの話も披露しています。広告代理店の方から電話がかかってきて、「音楽作品で金儲けしたいかね」といわれて、ケージは「もちろん興味あります」とノコノコ(といってもいいでしょう)出かけていったらしいのですが、自分の作品を重役たちに聴かせると、こそこそ部屋の隅で相談された上で、
我々には高級すぎる。
ロビンソン・クルーソーのためにとっておこう。
といわれたということです(出来すぎ感、ありますが)。こういう小噺でケージは、自分の音楽がいかにミュージックビジネスとソリが合わないかを示唆しているわけですが、そんなことわざわざ説明してくれなくてもいいのに、と思うんですが(笑)
ただ、大真面目に考えてみて、この重役の台詞が本当のものとして、ここからは2つの意味を汲み取れるではないかとも。
①わりと文字通りだと思いますが、「我々」(商業・一般)が求める音楽ではない。
②ロビンソン・クルーソーが現実には存在しないのと同じ意味で、あなたの音楽の聴衆はどこにいるのか。
むしろケージの音楽にとっての「二重化された死」とは、まさに上記ふたつの主に資本主義社会の「耳」とどうしても対峙してしまう「みみ」の在りよう、「みみ」の方法に与えられた状況なのだと思います。
音楽家の多くは一つの音だけを聴くことができない。
音と音との関連を聴き取る能力に優れているだけだ。だから赤ん坊の泣き声や電話のベル等を音楽とは認めない。
こういった感性は、基底に通常好まれる「楽音」を設定してはいません。耳の重心を「楽音」から、音響上の広大なオフショアともいえる「沈黙」へと移すことで「ノイズ」は音楽として立ち上がってきます。そういう美学なのですが、しかし以上のような理由で、ケージは自分の美学から個人的な「技術」までは除外していないのではないかと思えます。
耳に瞼はありません。だからこそ「沈黙」が耳にとって瞼を閉じる行為に相当することもありません。それを『貧しい音楽』で大谷氏はこう書きます。
聴覚イメージにはそれが変形されるための夜が用意されておらず、鼓膜にはそれを閉ざすための瞼もない。つねに対象そのものに密着している聴覚においては、見えない=聴こえないということはそのまま対象の不在、あるいは聴き逃しであり、聴こえない状態の中にあって発動される想像力は、聴覚イメージの変形や抽象化ではなく、ただ単に対象の探索に向かう。
聴覚イメージは、視覚イメージが夜の中で育むような弁証法的な想像力を、そのままの状態では持つことができない。一丁のヴァイオリンから響いてくる一連なりの音が途切れたとき、ぼくたちの想像力はもっぱら、不在となったその続きを聴くことに対して働く。『貧しい音楽』p.325
<音>の夢を見ないことの理由が、ここにこれ以上ないくらい自分とって納得のいく形で書かれてありました。
長くなりましたが、以上が『貧しい音楽』という本をボツボツと読みつつ、考えてみた事でした。もちろんこれは途上の考えで、思っていた通りとっちらかったままのものになってしまいましたし、まだまだひっくり返ったりして続いていくのだと思います。
個人的には例えば、
J O H N
C A G E
という、二段でキレイに並ぶ8つのアルファベットが醸す「沈黙」にすら「音楽」を感じて惑わされてきたのですし、おそらくこれからもそうでしょう。