みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

John Cage 100th Anniversary Countdown Event 2012

nomrakenta2012-11-08

11月3日(土)4日(日)は京都烏丸の京都芸術センターで『John Cage 100th Anniversary Countdown Event 2012/ FINAL』に行ってきた。
http://www.jcce2007-2012.org/

今年がケージ生誕100年にあたるので、100年をカウントダウンするこのイベントも今回で最後ということ。以前このイベントに行ったのは2009年だったようだ。場所も同じ京都芸術センター。


3日(土
前日12月のafuでの「Bright Moments」ライブのフライヤーの試し刷りがレトロ印刷JAMから届いていたのでそれを持って電車内で確認。
文化の日ということで超満員の阪急京都線を昼12時に烏丸で降り、「そじ坊」でざる蕎麦。
それから河原町と三条方面に道を辿りつつ錦市場に出る。


お店で買った鰻肝串2本の苦味を口のなかで転がしながら、カフェアンデパンダンの「パララックスレコード」。
インドのフィールドレコーディングもの、Steve Rodenもの、それからここ一年気になり続けているイタリアのGiuseppe Ielasiの音源を売ってもらう。Giuseppe Ielasiは2006年くらいに来日して今はもう無いShin-biで演奏したことがあると毛利さんにおききする。発見するのはいつも数年後という自分ジンクス。Giuseppe Ielasi、また来日せんかな…。Ielasiのアナログ『Stunt』シリーズ、パララックスで揃う。
で、烏丸に戻って会場の芸術センターへ。
【Part 1】
•[Video Installation]JCCE Chronicle 2007-2011
•Variations VI (1966)

両日とも、1部は1階のフリースペースで、これまでのJCCEの映像を複数のプロジェクターで映写しながら、「Variations VI」の演奏。
この「Variations VI」は、各演奏者が透明フィルムの組み合わせでスピーカーと音源回路とその操作を含めた「楽譜」をこさせて同時演奏する曲。特に今から演奏を始める、という合図もなく、奏者はバラバラに作業を開始して次第にそれぞれのノイズが重積しはじめる。
フリースペース中央に机が寄せられてそこで奏者たちが「作業」しているだけなので、観客も周囲に座るなり、ちょっと近寄ってみるなり、自由に回遊して、奏者それぞれのアンプからの音を確認したり、それぞれが混ざり合うポイントを探したり、そういう楽しみ方が可能なのだった。演奏会というより、ワークショップを見学させてもらっているような。
奏者も、他の奏者の出す音に反応して何かするわけでもないだろうし、この曲全体のリスナーと誰なのか、あるいは通常の意味で曲全体を仮想するようなリスナーは設定されていないのかもしれない。だとしたら、決して総体というものが無いという音楽の形態、というか過程、ということなのだろうか?
【Part 2】
2部からは2階の講堂で。前もって、Twiiterで会場でお会いできれば、という話になっていた初対面のYさんとここで合流。Yさんは聴覚の研究をしている学生さんだった。
•A Valentine Out of Season (1944)
森本ゆり氏によるプリペアド・ピアノ曲『季節はずれのヴァレンタイン』。
解説の「妻ゼニアに捧げられたが、翌年ケージは彼女と離婚している」という情報が痛すぎるが、それとは関係なく、増幅されたプリペアド・ピアノの音がどの音も細かな粒子のようにリアルに感じられて感銘を受けた。まともにプリペアド・ピアノの曲に接したのは初めてだったかもしれない。本当はもっとか細い音なのかもしれないけれども。
•Ryoanji (1983)
 One3 (1989)

続いて、2曲同時演奏。三味線と打楽器による『龍安寺』。そこにニシジマアツシ氏が『One3』で参加。イコライザー?を使って『龍安寺』演奏の音響を変調したり、会場四方のスピーカーを振りあてていたりしていた・・・ように聴こえました。正確に何をしてらしたのかは不明ですが、このパートの音響はとても印象的だった。特に三味線による特種奏法の音はのびやかだった。
•In a Landscape (1948)
プリペア(ネジや消しゴム)を解除した通常ピアノで初期名曲のひとつ『風景の中で』。
ケージにしては、流麗すぎるメロディーが息長く続く曲。この曲をケージと知らずに聴いたらどう受け止めるか、それはもう自分にはわからないが、少なくとも自分は、この曲が「風景の中で」と題されている意味を、叙情だけではなくて対象と主体のずれ、みたいな意味で捉えている。
•Solo for Voice 2 (1960)
 Winter Music (1957)
 Branches (1976)
 Sculptures Musicales (1989)
 Variations IV (1963)

続けて、「5曲同時」演奏。この日のハイライト。ただ、音への集中力が会場中に漲っていた『龍安寺』の後だけに、聴くのが難しいと感じた側面もあった。
以前のこのイベントで『Branches』を見たときの奏者は、村井啓哲氏とニシジマアツシ氏だったが今回はニシジマ氏が森本誠士氏にスイッチ。今年ロイヤルアルバートホールで聴いた『Branches』でも思ったが、この曲はやはりサボテンの棘の音がどれだけクリアに出るかにかかっているのでは、という事。そういった音の質までケージは自由に考えた、という風には思わなくなってきている(幻滅とかそういうことではなく)。
その意味で今回の『Branches』もとても良い音だと自分には思えた。
•Swinging (1989)
初日の最後は、とてもかわいい小ピアノ曲で、終わると同時にお客さんから暖かい笑いが聴こえた。
サティの「スポーツと気晴らし」の中の「ブランコ」を元にしているということで、「スウィング」というのはこの曲を弾くときのブランコのような腕の動きを指しているのだとか。同じくケージがサティの「ソクラテス」を本歌取りした「Cheap Imitation」に近い感じがあった。
この日は演奏終了後にトークイベントがあった。
トークイベントでは、「忘我」と「陶酔」の違いってなんだろうという指摘が興味深かった。
ケージ曲を演奏するという作業にかかる「政治」(ポリティックス)は言うまでもなく忘我の側にあるという含み。あと、ケージ作品を演奏するときの著作権については?という質問もあって、JASRACに支払う、という回答だった。でも「4分33秒」はJASRACが管理しているのだけれど「Branches」は無かったんだよな・・・。まだ道程は遠い感じだ。
ご一緒していた先ほどのYさんが最後に無音について演奏者諸氏に質問。Yさんは研究でよく無響室に入るらしい。無響室に入ると、ケージが沈黙などないと気づいたという有名なエピソードにあるように、神経系の高い音が聴こえるが、これに逆相の音をあてて消したら本当の無音が訪れるのか?という刺激的な話になった。なんらかの身体中の振動を音として感じることはなくならないのではないかと思うけど、それはもちろん素人の考えに過ぎない。
終演後、Yさんと近くの居酒屋へ。
Yさんの専門の聴覚の話や学生さんの話などとりとめのない楽しい時間。こちらはケージの話など訳知ったような事を話したと後で帰宅後赤面。帰りに試し刷り段階のフライヤをYさんにお渡しするという暴挙も。

フライヤーの試し刷りは、ハトロン紙が一番想定していた写真の裏写りが効いていたので決めることに。本データを最終的に作ってその日の晩に再度にJAMサイトにアップロードして本刷り注文。
4日(日)
【Part 1】
•[Video Installation]JCCE Chronicle 2007-2011
•Variations VI (1966)

前日と同じく『Variations VI』。黙々と音出し作業に打ち込む演奏者たちを見ているのが面白くなってきた。
ニシジマアツシ氏が大きなハサミにコンタクトマイクをつけて、ハサミをシャッキシャキッと音を増幅させたり、手回しオルゴールから音を出したりするところが個人的にピークと感じたところでした。

二部の前に、レトロ印刷JAMから昨夜投げた本刷り依頼の指示について連絡乞うとのメール。
つい前々職のノリで「印圧強めに」とか書いてしまったのだが、お客さんそれはオフセット印刷でしょ、孔版印刷では埒外でっせとの至極全うなツッコミだったので、あわてて「忘れてください」と電話。

【Part 2】
•Root of an Unfocus (1944)
この日の講堂コンサート部も、プリペアド・ピアノ曲で始まる。
このあたりのプリペアド・ピアノ曲は初期のケージの真骨頂。ケージは最初から新しい音の提案者だったし、初期のピアノ曲においてそれを濃縮してやり切ってもいたのだと最近思う。
自分の勘違いかもしれないのだけれど、この曲のほとんど最後のあたりでボルトが一本外れた音がしたのではないかと思う。そして、これも僕の間違いである可能性は高いのだけれど、ピアニストの逡巡が一瞬聴こえたようなに思えた。本来、プレパレーションが施されているべき筈の鍵盤をそのまま弾くかどうかをためらったような気がしたのだった。起こったことは、ピアニストはそこで止めたりせずに、そのまま未加工の(つまり通常のピアノの)鍵盤の音を、この曲を最後まで弾き切った。自分が感じたことが正しければという条件だけど、このときプリペアされた音とそうでない音がケージの意図とは外れて混在してしまったことになるとしても、そのまま弾き切ってくれて良かったと思う。
•Cartridge Music (1960)
 Solo for Voice 1 (1958)

2曲併奏。『Solo for Voice 1』は、前日と同じくHaco氏。
『Cartridge Music』は、竹村延和氏、ニシジマ・アツシ氏、村井啓哲氏、森本誠士氏4名が中が虚ろになった箱を囲んで演奏。スーパーボールのマレットを箱の側面に擦り付けての演奏もあったように思った。
•Music for Amplified Toy Pianos (1960)
Haco氏による演奏。トイ・ピアノの演奏とはいえ、通常の奏法はほとんどなく、擦り叩き、といった二日間の中で一番ノイジーな演奏だと思った。
•One7 (1990)
 Inlets (1977)

この日のハイライトの二曲同時演奏。『One7』のGak Sato氏はフィールドレコーディング的な音の断片を間欠的に投げかけてくる。
開始から4分強過ぎてから『Inlets(入り江)』のパート、三人の水を内部に満たした大小様々な法螺貝の「演奏」が始まる。この法螺貝作品は高台で演奏されたのですが、偶然自分はそのすぐ隣に座っていた。法螺貝を奏者が注意深く傾けていくことでらせん状の内部で水が移動し、空気を押しのけて「プクッ・・・ポコッ・・・」という魅惑的な音が不随意に発生する。この「楽器/法螺貝」の選択・即興演奏のタイミング・持続時間と沈黙を易経で取り決めた「Branches」と同趣向の作品。ほら貝の音に包まれて30分くらい、この時間は忘れられないものになりそうだ。
•Ophelia (1946)
ピアノ曲。ピアノのプリペアというものがいったいどれくらいの時間と手間がかかるのかわからないけれど、この二日間、プリペアして解除してまたプリペアして、という作業は大変だったのではないだろうか。下手すると、午前中一杯はピアノのプリペアに必要だったりしたのではないだろうか。
そういった事を考えれば、二日間のうちのどちらかをプリペアド・ピアノの日としたほうが奏者側も楽だったはずだけれど、森本ゆり氏はそうはしなかった。一日しか来れない観客にも、二部の中で、プリペアド・ピアノ曲と通常のピアノ曲の双方を聴くことができるように最大限の努力がされていたのだった。有難い事だ、と思うと同時にケージ音楽を知ってもらいたいという誠意の徹底ぶりに心が動く。
今年はケージ生誕100年で、自分としてはロンドンのPROMSにも出かけたし、日本でもケージ作品が演奏される機会が多かっただろうと思う。『Branches』は結構人気のある曲みたいだった。
この二日間にわたるイベントで、深い印象を残してくれたのは、両日第一部の『Variations VI』と、第二部のプリペアド・ピアノの響き、それから『龍安寺』と『One3』の併奏。法螺貝の『Inlets』といったところだった。実験音楽的なケージと、「古典的」なケージの両方に触れられ、その両方ともにそれぞれの奏者の質へのこだわりが現れていた。中でも『Variations VI』は、頭ではわかったつもりになっていたケージ作品の特異さに直に向き合わせてくれた。


両日のチケット。プログラムも丁寧でとてもわかりやすかった。
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Complete Piano Music Vol.1-10

Complete Piano Music Vol.1-10

このイベントの後、ちょっと探してみたところ、小曲『Swinging』が収録されているのは、とりあえずこのピアノ全曲集の14枚目「サティへのオマージュ」の盤。サティ作『ソクラテス』の音符をところどころ抜き去ったような『Cheap Imitation』も収録。