みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

藤枝静男『田紳有楽』を読みおえる

nomrakenta2007-05-14


なるほどなあ、と思った。良い小説の全てがそうであるように、この作品も細部の描写一文一文が、一瞬と数週間を織り込みながら滋味深く積み重なっていく。読んでいる間は途方も無いようでいていつのまにか頁を繰るのがもったいないと切実に感じ始めていた。
最近読み散らす局面が増えてきたような気もしている中で、この短い作品の味わい深さは新鮮だった。

まだこの中篇を読んだきりなので藤枝静男の作家性について何かコメントするなどそもそも不可能だが、藤枝静男の作品の中でも一番異色なものとのこと。そりゃあそうでしょうねえ・・・。
徹底して「私小説」の位置から単独者として書き進めた作家が、ついに「私」の底をつきやぶると、もはや「私」が骨董屋でも骨董のグイ呑みでも出目金でもユーカリでもいかさま僧侶でも弥勒でもあるような、はてしなく軽い浮遊の境地に至ったような凄みがある、というのか(そうそう、先のエントリーで川上弘美の作品を藤枝静男の「変奏」などと書いてしまいましたが、この作品こそ「私」の変奏なのでした)。

生物と非生物の垣根を越えた複数の「私」によって語り回される、ある種ユーモラスで伝法な語り口が、このありえない話を成り立たせている要因として表面上はとても指摘しやすい。たとえば筒井康隆の『虚航船団』などはこの伝法な語りを爆発させたもののように今は思える(影響関係の有無は不明。文房具が宇宙船団というのもかなり共通点のように思える)し、川上弘美のいくつかの幻想的な短編にも通じているのだけれど、それはただ幻想的にしたくて奇を衒っているわけでない。語り手が猫であるからといって「我輩は猫である」が幻想小説でないことと基本的には同じこと。それは置いておいても、この作品での「私」の語り口のスパンニングは、ものすごく高度なもので、高密度かつ読者のとまどいも十分呑みこんでしまうなめらかな肌理を持っている。その意味でおそろしくテクニカルな書かれ方をしているのだけれど、もしここに「私小説的」なリアリティがあるのだとすれば、それは明らかに作家の投影のように思える骨董屋の「私」が最後に達するところの「悲しみとも嬉しさともつかぬ思い」なのだろう。
生物と非生物、本物とイカモノ、という明確な対比構造を持ちながら話しは進むわけですが、

鏡に写せばお前の右手は左手になる。耳も左右逆になるぞ。それもお前だぞ。時を写せば過去現在は逆に流れるぞ。ブラックホールから吐き出された無がお前だぞ。ここに居るぞ。如是我聞、如是我聞。」
p.134

という妙見の言葉で、まさに無の中で折り返されてしまう。
それはつまり、無常といえば収まりがいいのではなどと、したり顔をする人からまさに漏れ出してしまうような、他愛なく猥雑で、性懲りもなく「イカモノ」な僕らのための「おはなし」なのだ。最後の「ププー」「ガーン」「ペイーッ ペイーッ」も、ただの箱庭的な幻想にではなく、そういった誰もが持っているリアリティーに向けて鳴らされている。
たしかにそれが小説だ。

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)