みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

呑秋(どんしゅう):酒祭り@広島・西条〜倉敷、円城塔『これはペンです』、オノ・ヨーコ展 など

nomrakenta2011-10-11



広島は西条市の『酒祭り』に今年も行ってきた(二回目)。もちろん昨年購入したマイ枡を持参。

今年はどうせなら一泊することにして、帰りには倉敷に寄って帰ることに。

旅の道連れは芥川賞候補になった円城塔の『これはペンです』。
(感想はエントリーの最後に)

8日(土)
Iさんと新大阪で待ち合わせて新幹線。連休で指定席取れないことを予想せず。
しかし自由席には割と楽に座れた。
広島から西条へ。
途中、20分ほど列車が停車。慣れてなさそうな車掌のアナウンスが不安(不快)を誘う。西条駅でIさんの奥さんとその友人Mさんに合流。

昨年、酒蔵巡りで十分堪能してしまい、遂に行けなかった本会場を、今年は攻略しようとIさんと突撃。
西条市の公園が丸ごと全国の酒を集めた会場となっていて、1800円の入場料ですべて試飲できる(お猪口で)。
これが、入口に開示されている酒のリスト。

これで全部ではない。
12時に入場したがすでに売り切れが出ているのが凄い(祭り初日です)。
中に入ってみると、人ごみでなかなか前に進めないような状態になっている。
酒造メーカーの出店が地方順に並んで広場のぐるりと囲み、広間はすでに敷物やつまみを持ち込んだ人々が犇めいてのみ食いしている。トレイに十数個のお猪口を並べて運んでいる猛者もいる。みんな手慣れた感じで陣取りしているので、この状態が例年のものなのだろうと判断。
酒に酔うより先に人に酔いそうなのでそれではいかんとどんどん酒を呑んでいく。
和歌山、兵庫、福島、東北、北海道あたりを呑んだように思うけれど、オーダーは番号で管理されており、銘柄は2つめくらいで記録する気が失せた。どのみちすべての銘柄をいただくことは不可能である。お猪口のなかみをあけないと次の動作に移れない両手がふさがった状態というのは、かなり回りが早くなる状態であるらしい。しかも混雑で腰かけできるところもない。

それでも6・7杯くらいは呑んかで気分もたいへんよろしくなり、本会場を抜け出して西条市内の酒蔵ルートへ。去年よりも確実に人が多い気がした。

道で簡易ライブもやっていたりもする。
どんな曲をやっていたかまったく憶えがないのだけれどけっこう強い日射しのなかでの多幸感だけ憶えている。町中が歩行者天国でみな片手にお酒という、平素いじましく働いている自分を想像すらできなくなるある意味危険なシチュエーション。

今年も「竹酒」。高い青竹に注ぎためられたお酒を頂きます。

そぐ傍で売っているヘラに盛られた焼き味噌。これがうまい。昨年とは味が少し違って柚子らしきものが効いているようでこれもうまい。味噌売店のおばちゃんたちの横に陣取ってみんなで酒盛りタイム。てんゴクである。
昨年にひきつづき酔書も。最初「まだmy枡で呑んでいない」と正直な己の状況を書してみたがこれは自分も含めてだれも解読できない仕上がり。リトライしてこれ。となりのIさんは見事に達者な筆触で恥ずかしい。その後マイ枡でもたらふく呑んで、5時くらいに退散。横川周辺のワイン居酒屋でおでんとワインをいただき、Mさん宅にお邪魔。おいしいお味噌汁をいただいて少し眠る。次の日仕事で日帰りするIさんに起こされ、一緒に広島駅までタクシー。こちらは市内のカプセルホテルを予約していた。行ってみると風俗街のど真ん中。けばけばしいネオンにまたあてられながらたどり着いてそのまま就寝。


9日(日)
8時に起きて待ち合わせの広島駅へ。

市電は結構なスピードで走る。

Mさん夫妻と合流して、広島現代美術館へ『オノ・ヨーコ展 希望の路』を観にいく。
初めて訪れた広島現代美術館は高台というか山の上にあって、電停で降りたあと、朝の空気のなか樹々のあいだを抜けて少しだけ坂を上って到着。

オノ・ヨーコ展 希望の路』は、第8回ヒロシマ賞を受賞したオノ・ヨーコインスタレーションヒロシマナガサキ東日本大震災を鎮魂しつつ平和と生命へのいのり、というものになっている(と感じた)。
最初の空間には、古いドアだけがいくつも置かれて足元には無数の折り鶴が。壁にはオノ・ヨーコさんが書いたとおぼしき文字。

念のため書いておきますと、インスタレーションに関しては写真撮影が許可されていました。

この部屋が一番印象深かった。真っ暗な部屋の中壁には大きなスクリーンで原爆投下直後の広島市街のような映像、部屋の真ん中には何体もの透明の(ガラスの?)人型が立っていて、数分おきにストロボライトのようなものが焚かれて闇の中から透明の人形たちが鮮明に浮かびあがり、また闇に溶け込むように見えなくなっていく。壁のスクリーンにはライトで照らされた自分の影が大きく焼付いている。原爆投下の追体験ということなのか。




市内のおそば屋さんでおいしいざるそばを頂く。広島はやはりうどんがメインとのことですが…。
このあと駅でMさん夫妻とお別れして倉敷へ。


倉敷には新倉敷で降りて在来に乗り換えて2駅。2駅なのに40分待つという…その間に『これはペンです』を読み進める。冒頭ちかくで主人公の娘が、磁石を中華鍋で炒めはじめるのでこれは何か、と。

倉敷は美観地区の大原美術館と古書肆『蟲文庫』さんに行くのが目的。

大原美術館にはこれまで3回くらい来ているが、今回はかなり年数が開いている。たしか改築をしていたようにうろ覚えしているのですが…あんまり建物は変わった様子がなかった。勘違いか?

  • 毎回ここで見るのが、熊谷守一『陽が死んだ日』という有名な絵。今回も前回見たときと自分の感じ方がどう変わっているか(あるいは同じか)知りたくて見に来た。初めて高校生の頃にこの絵をみたとき、死んでしまった次男の顔を、激しい筆触でおそらくは短時間で描きあげようとする最中、躊躇いが頂点に達して筆が止まってしまったかのようにもみえるこの絵に塗りこめられた時間の生々しさにあてられて、数十分くらい絵の前に突っ立っていた。新潮文庫志賀直哉の「城の崎にて」の表紙の絵を描いた人とは思えなかったのかもしれない。今、自分にそういうドラマを排して絵を見れるのかと思って見に来たのだけれど、基本的には同じ感慨だった。同じなのだけれど、しかし想像する画家の時間はより濃密で激しく同時に巨大な無力感が含まれているようだった。こんな絵は描かれないほうがよかった。しかしこれほどの絵を見ないのもおかしい。

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

  • 大原美術館から出るとき、美術館に来ないあいだに読んだ藤枝静男の「妻の遺骨」という随筆を思い出していた。細君を亡くした藤枝静男は遺言通り遺骨を大原美術館の敷地内の木の根元の砂のなかに埋めて弔おうとするが、美術館側に拒絶されてしまうというやりきれない短い文章だ。切なすぎるので未読の方は是非立ち読みをお薦めします。同じ目にあったなら、自分ならテロ予告くらいしてしまうかもしれない。

藤枝静男随筆集 (講談社文芸文庫)

藤枝静男随筆集 (講談社文芸文庫)


ずっと行ってみたいと思っていた古書肆『蟲文庫』さん。やっと来れた。
想像していた通りの趣味のよい店構えで好きになってしまいました。店内に入ると、リリースされたばかりの「かえる目」のアルバムが流れている(売ってもいる。CDの品揃えも一本筋の通ったもの)。

いろいろ欲しいものが出てきたがキリがないので、サミュエル・ベケットマロウンは死ぬ』と串田孫一の詩集『いろいろの天使』の二冊にする。
マロウンは死ぬ』は白水社からハードカバーが出ているが、これは1969年に太陽選書から出たもので、表紙のジャコメッティの有名な作品の使用が英断過ぎる。

串田孫一の詩集は、1968年に出版されたもので、あとがきによるとラジオで朗読するために書かれたものがベースになっている様子。そのためか短い文節が読(詠)みやすいリズムをつくっており、イメージの繋がりも映像的。

私の手は
短くなった鉛筆を持ち
白い紙を
左手で軽くおさえて
詩を書いている
詩は内緒で書くものだと
昔から思い込んでいるので
私の手は
臆病になっている
岩をつかんで
山に登り
釘がささって
血を吹いたこの手が
おかしなほどに
今夜は細かにふるえて
詩を書いている
手はやがて
私から離れて
高い塔にのぼり
祈りの鐘を鳴らしたがっている
――串田孫一『手』 詩集『いろいろの天使』p.56-57

アルピニストにしてモダニスト。冬の夜空で瞬く星のようなリリシズム。


この後、倉敷帆布のお店を覗いたら、ちょうど探していた形のメッセンジャーバッグがあったので購入して帰路に。



10日(月)
11時まで寝る。目覚めてTwitterをみると、心斎橋アメリカ村の「afu」で二周年パーティーがある様子。フリマの荷物を事務所に置かせて頂いているままだったので、車をだして顔出しがてら回収してくることにした。

アメリカ村のビル屋上は、ボサノヴァ弾き語りとDJが入ってみんな寛いでいる別世界だった(アルゼンチンのカルロス・アギーレの曲も演奏しておられました)。車なので赤白のサングリア呑めず涙。

Carlos Aguirre Grupo(Crema)

Carlos Aguirre Grupo(Crema)

夕食時、「仕事の流儀」でSMAPの北京公演の舞台裏をやっているのを観る。中居くんが「成功は保証されていないけれど、成長は保証されている」と言うのを聞いてなるほどなあと思った(そう願いたい、と)。それから、こういう言葉を言えるには、際限なくベタな言い方だけれども「いつでも初心に帰る」ということを実践できていないとなあ、とも。


で、円城塔の『これはペンです』。

これはペンです

これはペンです

読み終わって、英語、いや何か美しいプログラム言語から翻訳されたてのような円城塔の文体は、芥川賞向きではないかもと思ったが、それなら芥川賞向きってなんなのとなってしまって到底自分には答えられない。
円城塔を推した審査員が自分の好みで、全否定の審査員もまた納得のいくものだったのでこれは「間違いない作品」と思ってしまった。村上龍のコメントもよくわからない。
ただ「文章を使ったパズルゲイム」云々のコメントを高みからおくだしになった石原慎太郎には何かが欠如しているのは確かだ。この短編は、こういうかたちでしか書きとめられなかった動きが閉じ込められていて、それが終結部に一気に「語り手」の心の動きとしても収斂するのが愛おしい。
ちなみに(こんなことは蛇足の最たるものですが)「手紙」というのは、小説の形式として根本的な何かに触れていたりもする。