みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

桜とハリー・パーチ:『親切なクムジャさん』、Harry Partch『The Harry Partch Collection Volume2』

nomrakenta2007-04-08


朝、瀧道歩きから帰ってシャワーを浴び、買い物と投票に行こうとすると、桜並木が満開のきわみ。

来週末にはもう散っているだろうから今日しか写真ととっておくタイミングがない、のでパシャパシャ。

桜に見とれて道の真ん中にでてくる人が多すぎて、車が進めなくなり(といっても車の人も半分以上は桜目当てと思われ)並木道はちょっとした歩行者天国状態になる。

家に帰ってDISCASで借りてるDVD『親切なクムジャさん』を観る。
復讐者に憐れみを」、「オールド・ボーイ」に続くパク・チャヌクの「復讐三部作」完結編とのこと。「チャングム」のイ・ヨンエが真っ赤なアイシャドウで風変わりな復讐者を演じている。

パク・チャヌク監督は、ある意味「復讐」という行為の無効性を、この三部作でそれぞれの角度で描いてみせたわけだが(と僕には思える)、どの作品にもその始まりに「誘拐」があり(「復讐者に・・・」では誘拐そのもの。「オールドボーイ」では監禁)、筋運びにおいて「意志疎通の難しさ」を上手く梃子に使っているのに気付いた(「復讐者に・・・」では聴覚障害者、「オールド・・・」では長期監禁による時間の経過、「クムジャ」では母と娘の言語の壁)。
「クムジャ」は演出はおもしろいながら、進むにつれて話がちいさくなっていくような気がしたが、後半部分の誘拐被害者親族による「パク先生」(監督とおんなじ名前なのな、今気付いた)の私的裁判の様子には、自分自身の感情の動きも合わせて強烈に不気味な印象を受けた。

映画が終わると、さて音楽を聴こうと思ったが、この独特な映画の後味をどう中和してよいのか結構困る(後味が悪いわけではないですが)。


結局、最近買った藤枝守の「響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)」がちょうど現代(というか20世紀)の作曲家の音律へのアプローチにさしかかったせいもあって、今日はこれを。

The Harry Partch Collection, Vol.2

The Harry Partch Collection, Vol.2

パーチのCDはそれほど持っていないけれど、十年近く前にタワーレコードで並んでいたのを買ったままあんまり聴かずにきたのだった。
その後出た『Delusion of Fury』(狂熱の激妄??)という大作のリイシューにかなりインパクトを受けてはいましたが、とにかく奇妙なかたちの自作楽器(これらの楽器の姿は本当にユニークで写真で見るだけでもかなり楽しい。おすすめ。ってちょっと違うか)を駆使して「歌」というより「語り」に奇妙な響きの音楽をつけてる人、というかなり粗雑な印象を持っていた。

しかし、よく考えたらアイランド時代以降のトム・ウェイツがやってることのインスピレーションの源泉にもパーチがいるはずなのだった。

ハリー・パーチは、自身の音楽をつくることに関して、もっともハードコアでエレメンタル、そして組織的なアプローチを採った人なのだと思う。
たとえばこのCDに収録されている「USハイボール」や「The Letter」(ともに「The Wayward」という大作の一部)では、パーチは、汽車の旅行で知り合ったホーボーたちのアウト・オブ・キーな「語り」の抑揚やリズムから無限の音楽を聴き取ろうとしている。
抽象的な無菌主義がまっさきに忌み嫌いそうな「なまり」などの固有な身体性をパーチは排除しようとしない。むしろそこにこそ作るべき音楽があると考えた。
そして今度はそれらを音楽に仕立て直すために、「語り」自体に寄り添って調律を組みなおしてしまう。
パーチにとっては、平均律に「語り」が合わないのではないのであって、近代以降の調律自体が不適当なのであって改変・再組織化の対象となる。「からだ」のもつ音楽性のもとに「調律」から「楽器」までを組みなおす必要があったのらしい。
こうなると、特にアメリカの実験音楽が好きでなくとも、打楽器が入らない狭い会場が悪いのだとは思わずに、ならばピアノを打楽器にすればいいのだと考えたジョン・ケージがすぐに思い浮かぶが、自らの論理で音楽を構成し直すことに費やされた熱量という意味では、パーチのアプローチは、ケージのそれを軽く凌いでいるのかも。

 パーチは、このような近代以降の抽象的な表現を否定し、古代の社会や民衆のあいだで営まれた儀礼や芸能に着目しながら、身体の躍動感や言葉の力がダイレクトに反映された「身体の音楽」をめざした。まず、そのために、抽象的な表現を支えてきたピアノのような近代楽器が放棄された。そして、パーチ自身の生身の身体や肉声に対応するような、さまざまなオリジナルの楽器が制作された。さらに、このようなオリジナルの楽器に適用するための独自のシステムが、長い時間をかけて理論化された。
 藤枝守 著「響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)」p.129

近代以降の音楽の抽象性よりも、音楽が鳴らされる「今・ここ」で音楽する個別的で方言的な「身体」性を優先させるのは、アメリ実験音楽の伝統ともいえる美点だといえる。
わかりやすいメロディーなどは皆無のパーチの音楽だが、かといってそれはいたずらに無味乾燥とか強圧的で無慈悲な音響というものとも全く方向が異なったものであって、そこにはある種の広がりというか「風通しの良さ」を感じさせてくれる。

 身体の表現をめざしたパーチの音楽は、声を基盤にするものが多い。その声は、ベルカント唱法のような非個性的なものではなく、パーチ自身の英語による話し言葉にみられるアクセントや抑揚を色濃く保持したものとなっている。つまり、四十三音音階の微分音程は、このようなパーチの話し言葉を反映したものであり、パーチ自身の声がもつ特性が音律として体系化されたともいえよう。そして、さまざまなオリジナルの楽器の調律に四十三音音階を適用することによって、パーチの声は、まさに楽器の音のなかに浮かび上がる。

 藤枝守 著「響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)」p.136

だからパーチの音楽は、野放図で猥雑ともとれるようなパフォーマティブな聴こえ方をする一方で、その裏に必ず用意周到な緻密さが備えていて、それはまた、現在のように電子的に音が合成できるからやってしまおうといういきかたが、今現在パーチが生きていたとしてもやはりそういうやり方はしないだろうな、というある種の感慨とともに、一つのパーチ的なコスモスを形成しているように感じられるのだ。
「いや〜そもそも<音楽>とはそういうものじゃき!」(何故土佐?)そう、パーチの音楽は言っているように思えてならない。

響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)

響きの考古学―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー)

音律の歴史のお勉強には最適なのかと。とはいえ数値が並ぶと、もうついていけないのですが。

Howl Usa

Howl Usa

パーチの音源CD化とほぼ同時期にリリースされたクロノスによる「USハイボール」を含む盤。
アレン・ギンズバーグの有名なビート詩「吠える」に演奏をつけている(身も蓋もない言い方や)。
当然これはクロノスの「身体性」。パーチの音楽の自作楽器による微細なニュアンスを期待してはいけないように思う。