みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

紅葉待ちにお猿、かえる目に倉地久美夫の土曜日と、ジョン・ケージの日曜日

nomrakenta2009-11-08



この週末はひじょうに充実しておりました。

昨日は、夜遅かったのですが、平日通りに6時起床。
もしかして紅葉で人がいっぱいになり始めているのかもしれない瀧道を満喫するため。
モミジではないですが、最近家の前の桜並木にはいい感じに染まった落葉がたくさんなので、ちょっと焦りがありました。
いそいそ行ってみると、登り口はまだまだ本格的な紅葉とはいえない状態で、多少紅いものがちらほら程度。
それでも、いつもの大日の駐車場から上に登っていき、ビジターセンターの広場までくると、見事に紅くなった樹が一本。
夢中になってデジカメをパチャパチャしていると、どうも妙な気配がする。
振り返ってみれば、お猿の群れの移動タイムとかち合ってしまったようで、次から次から出てきてモミジの木の傍にたつ僕の周りを気にせず、わらわらと横断していく。i-podからは、昔のパンク・ロックが流れている(Another Girl,Another Planetも)。なんとなく、すがすがしい気分で下山。


朝靄の中、大日駐車場からビジターセンターへ山道に入ると、ひんやりした空気が気持ち良い。

朝陽を透かした紅葉をうっとりと撮影していると…

お猿襲来。最近、猿が増えすぎたということで、箕面市では猿に餌をやることを「違法」とする決議があった。2010年4月からの施行ですが、ご注意ください。

靄のなかへ、去ってゆくお猿さんたち。



昼ご飯のあと、野暮用で難波へ。
5時に梅田で、Iさんと待ち合わせて、三の宮へ。自分としてははじめて行くジャズスポット「ビッグ・アップル」で倉地久美夫さんを観る予定だったのだった。
ひょうたんのひょうきんなパフォーマンス(ひょうたん総合研究所)の後は、プロジェクターに投影されたエクセルファイルのマクロで音源ソフトのような動きで図形楽譜を動かし、これに合わせて演奏する「月刊かえる」の倉本さんのユニットと、弁士のかた(?)の同時進行パフォーマンス(夕月新三郎+play pot)。手作りな感じが、うれしい。会場には森本アリさんの姿も。なんだか、無くなってしまった新世界ブリッジにいるみたいないい気持ちが。

はじめて観る「かえる目」。細馬宏通(vo,g) 宇波拓(g) 木下和重(vln) 中尾勘二(cl,perc)という豪華な面子、ということを、じつは同行のIさんに教えてもらったのですが。
Vo細馬さんの深い歌声がいいなあと思ったし、他の三人の演奏が、曲はそれぞれ短くさりげない調子なのに、何気ない空気のなかに、親密さと同時に抜き差しならない気配が忍んでくるような気もした。「うた」というのは、ひとつひとつ状況であって、それに対して、平坦な表現だけれども、手抜きのない素晴らしい演奏だった。「かえる目」を評して「おっさんの体にユーミンが宿る」という惹句があったらしいですが、この日聴いた感じを、勘違いも含めて一言でいうと、「ジョン・ケージユーミンのあいだの広大な沃野のどこかで戯れるおっさん達」という妙なものです(僕的には相当、射抜いているのですが(何を?))。おっさんの仮想された上質な、乙女ちっくが表出されているのだとも思った。(おっさんおっさん書いて申し訳ないです)

惑星

惑星

セカンドアルバムのジャケ絵は倉地久美夫さんによるもの。原画が会場に展示してありました。

そして、驚異の弾き語りパフォーマー倉地久美夫さん。去年の「ホープ県」での「ふちがみとふなと」との共演もよかったけれど、このソロも良かった。もともとIさんが倉地さんの大ファンなのだけれども、聴くにつれて、凄まじい生々しさに圧倒される。ライブ観たことないけれども、友川かずきってもしかしたらこんな感じなのだろうか(多分違う)。倉地さんの場合は、生々しいのだれけど、完全な制御がある。その制御を感じるとき、驚きは倍増してしまうのだと思う。倉地さんのギターのうたは、即興性はゼロにも関わらず、どんなパワー・インプロにも劣らず、瑞々しく(スポンテイニアスで)パワフルだと思う。カバーの「at home」(LoveJoy!!)「蘇州夜曲」も心に沁みました。なんでも、倉地さんのドキュメンタリーが首尾よく制作完了とのこと。DVDでるのかな。観たくてしかたない。

I heard the ground sing

I heard the ground sing


そして今日は、京都芸術センターへ、『John Cage 100 Anniversary Countdown Event』を観に。
その前に河原町で降りて、高瀬川を歩くと、河の中に学生の立体作品が等間隔(鴨川の川っぺりに連鎖的に座るカップル的な間隔)で並んでいて楽しかった。



さて、『John Cage 100 Anniversary Countdown Event』は、「Child of Tree/Branches」がプログラムに入っていたので、かなり楽しみにしておりました。
プログラムは以下の通り。
・1  0'00'' (1962)
・2  Ryoanji (1983), Branches (1976)
・3  Primitive (1942)
・ニシジマ・アツシ氏と村井啓哲氏による幕間解説トーク
・4  One7 (1990), Piano Duet (1960)
   One 3 (1989), Swinging (1989)
2と4は、複数の曲を同時に演奏していました。
会場に入ると、中央のスペースにセッティングがしてあって、一番手前に「Branches」用のテーブルがあり、その向こうにピアノ(思えば初めて見るプリペアドピアノ)、そのまた向こうに赤い布を敷いた台があり三味線が置いてあり、その横にはパーカッションとものものしいARP機(竹村延和氏用)、それから中央に丸テーブル(HACOさんの「0'00''」用)。


ざっとプログラムを解説を試みてみると、「0'00''」は、音楽的にはそもそも「ゼロ」である日常行為をありったけにアンプリファイして聴かせる演目で、HACOさんは、爪を切りやすりをかける動作を10分ほど音像として異化してみせてくれた。

「Ryoanji」と「Branches」は、2曲を同時演奏。

「Primitive」は、ケージの初期プリペアド・ピアノによる代表的な曲のひとつ、ですが、コンサートでは初めて聴いた。先頃、大阪でマウリチオ・カーゲルをNext Mushroom Projectが開催したときにも観た森本ゆりさんの演奏で、ピアノにしてはパーカッシブ、打楽器にしてはメロディアス、果てしなく手作りであり、未来の楽器の音のようでもあるプリペアド・ピアノの響きが楽しめた。もともと舞踏の伴奏曲なのだけれど、耳の踊りのための音楽だとも言える。

「One7」と「One3」はもともとソロ用のケージ後期の「ナンバー・ピース」。独特な「タイム・ブラケット」という演奏用の「幅」が奏者に与えられるもの。「Piano Duet」は良く知らないが、レコード針用のカートリッジを使った「Cartridge Music」をピアノ用に翻案したものの様子で「Sports:Swinging」は、サティの「スポーツと気晴らし」のなかの「ブランコ」という曲をケージが「ソクラテス」を「チープ・イミテーション」にしてみせたように、極限まで「皮むき」してみせたピアノ曲



プログラムが始まる前に「Branches」をしげしげ観察することができ、興味深かった。
ほとんどオブジェのように見えてしまうサボテン各種の奇妙なかたち。棘というよりは「毛」というようなサボテンまであり、全部で6種類以上はあったように思える。それぞれかなり乾燥させていて、クリップを装着した小さな金属製のアームで、宙づり状態に固定されていた。サボテンの振動を拾うコンタクト・マイクのケーブルもワイヤー製なのか、垂れてずれたりしないようになっていて、丸い共鳴板は、サボテンの棘ではなく胴につけられていた。もうひとつの主要な楽器と指定されている「楽器」である大きな「サヤエンドウ」、あとは、ひょうたん、粉のような小さな種らしきものを入れた容器。コンタクト・マイクやピン・マイクのそれぞれはすべてミキサーに繋がれていた。テーブルの下には、敷き詰められた落葉の塊があり、これもピン・マイクが向けられている。

サボテンを切り取って宙に固定するのは、YouTubeでも実際にケージが演奏しているのもみることが出来るので確かなやり方なのだろうということがわかった。

極力、純粋な振動を得るためにやっているのだろう。鉢植えのままでは、半分以上の音を吸収されてしまっているということだ。

テーブルには、チャンス・オペレーションで決定したらしい、タイム・テーブルのメモが貼ってありました。
テーブルを挟んで、ニシジマ・アツシ氏と村井啓哲氏が座り、厳かな手つきで、並べられた植物たちを擦り、撫で、叩き、秘められた音を解放させ始めると、同時に、「Ryoanji」組である重森三果、竹村延和、両氏の演奏も始まった。
ニシジマ・アツシ氏と村井啓哲氏お二人の「Branches」演奏には、安易さとは遠く隔たった、神経の行き届いた音への配慮があった。テンポも、極めて訥々としたもので、上の映像のケージの演奏にかなり近いものでした。
どの音の粒も活かされていて、生まれたての瑞々しさを失わずに、またその瑞々しさの自身のなかへ消えいっていく連鎖で、合間の沈黙(Silence)のレヴェルを、確実に一段また一段と上げていく。

一番感銘を受けてしまったのは、中盤で、ニシジマ・アツシ氏がテーブルから離れて落葉に歩み寄り、静かに落葉を踏みしめる、そのやり方の何気なくも慎重な仕草でした。それに伴った音は、たしかに、生起と消息を全うしているように思えた。



これが、隣の「Ryoanji」組の三味線と打楽器の音と相互浸透をしてとてもいい感じになる。
三味線の弓奏は、リアルタイムのものと、二方向くらいのスピーカーから交互に少し遅れて再生されるものとが少しずつ重ねずらされて、おもしろい効果。いってみれば、「焦点」というものがない演奏だけれども、反対にいろんな焦点を、聴く者がじぶんの中で設定してみたり、やっぱりやめて次の焦点を探してみたり、といった楽しみがあった。


解説トークと休憩を挟んでの第二部は、「One7」「One3」「Piano Duet」の3曲同時リアライゼーション。
「ナンバー・ピース」の実演も初めて聴きましたが、「タイム・ブラケット」って、かなり休止状態の目立つと思った。そもそも「ONE」シリーズは単独の奏者用の曲だが、それを3人の奏者(重森、竹村、Haco)で分け合う形にしていることで、音のバージョンが増えるのと反比例的に間欠的な印象が増したのか。「Piano Duet」は村井啓哲、森本ゆり両氏によるもので、ピアノを従来的な意味では演奏せずに、音を出す現場として捉えて、つないだベース・アンプでそのノイズを増幅するピース。ピアノの弦をジャララーと擦る音や、アンプが雄々しく唸り出す局面は、不適切なのかもしれませんが、「ロック的」なカタルシスさせ伺えた(MC5的な意味です)。


ひとつ、音楽以外で(しかしある意味とても音楽的なものとして)気になったことがあって、僕の対面に、父親に連れられてきたのらしい幼い小学校低学年にもならないような姉弟が座っていて、彼らの反応がおもしろかった。当然彼らにしてみれば、自分が何のコンサートに来ているのかわからない筈であって、演奏プログラムが進行するにつれて、その表情は、退屈から眠気へ急激に移行し、第二部でアンプが唸り声を上げ始めてからは、脅え、耳を塞いでみる仕草となり、最後のピアノの「Sports:Swinging」が終わったとみるや、はっきりとした安堵へと、目まぐるしく変わっていったのだった。そんな彼らでも、「Branches」のセッティングには興味を引かれたようで、近寄ってじろじろ見ていた。

今回は、全編を通して、楽音以外の音への配慮が際立つことで(これは優れた耳をもつ演奏者でないと現出できないことなのだ、多分)どんな音でも起こりうるような、普通の音楽とは別種の豊穣さがあった。


お客さんの多さにも驚いた。200人くらいは会場である講堂に入っていたんじゃないだろか。中央の演奏スペースを取り囲んだ客席は、開演時にはほぼ満席になっていた。ジョン・ケージに興味のある人は多いのだなと思った。


今回は、ニシジマ・アツシ、村井啓哲両氏による「Branches」の素晴らしさに気圧されてしまった感もありますが、自分の「Branches」を探してみよう。



行き帰りの電車で読んでいたのが、藤枝静男の短編集文庫の『悲しいだけ/欣求浄土』。最初の一遍『欣求浄土』と次の『土中の庭』の半ばまで読み終わる。

悲しいだけ・欣求浄土 (講談社文芸文庫)

悲しいだけ・欣求浄土 (講談社文芸文庫)

欣求浄土』は、作者の分身である「章」という男が、テレビのニュースを通してアメリカのヒッピーの映像を観て感心し、ポルノ的アングラ映画を観に行ってテーマについて考えるというものだが、ひたりと死の感覚が、きわめて平静な面持ちで寄り添っているようで、沁みてくる。