おかえりの作法(それぞれの):『トーテム:グブスゴロックス・ポールの返還』@国立民族学博物館
いまや完全に彫り終えられ、まあたらしく横たわったトーテム・ポールの周りを、おおきな体のハイスラの彫刻師数名が順に巡って、ひとつひとつのトーテム動物の顔に、「ホッ、ホッ」と声に出して息をふきかけていく。
真新しいトーテム・ポールに、文字通り息を吹き込むというよりは、眠っているトーテムたちに、そろそろ目を覚ますように促しているように見える。
場所は、ストックホルムの博物館。
カナダ北西海岸の先住民であるハイスラの彫刻師たちは、現地までトーテム・ポールの仕上げをしに訪れており、スウェーデン人の観客が見守るなか、彫り終わったトーテム・ポールに、彼らの伝統的な最後の仕上げをしているのだった。
上記は、今日、国立民族学博物館の講堂で上映されたドキュメンタリー映画『トーテム:グブスゴロックス・ポールの返還(Totem: The Return of the G'psgolox Pole 2003 70分)』の、ほとんど最後の場面である。
なぜ、ハイスラの彼らが、わざわざスウェーデンの博物館でトーテム・ポールを彫っているのか。その理由自体が、この映画のテーマになっている。
1920年代、カナダ政府は、先住民の伝統行事である「ポトラッチ」を禁止する。
それだけでなく、ラッコ猟から始まる交易を通しての天然痘など、西洋渡来の疾病に免疫のなかった先住民たちの共同体は急激な人口減少の危機に晒され、伝来の居住地からの移動を余儀なくされる。その人為的な災厄の大きな波のなかに、ハイスラの人々もいた。そもそもハイスラ自体、そうやって減少してしまった複数の部族がやむにやまれず合流して形成された共同体だった。
廃棄を余儀なくされた村に残された伝統の工芸品、トーテム・ポールなどの多くは、西洋人によって放棄されたものと見なされ、本国に持ち帰られてしまった。その中に、グブスゴロックスのポールもあったのだった。
60年以上の行方不明のあと、グブスゴロックスのポールは、スウェーデンのストックホルムの博物館のメインの展示物として展示されていることが、1991年に判明した。そのときは、すでに、スウェーデンの法律によって国家の財産として登録されていたのだった。
ハイスラの人々は、なによりも自分たちの魂のつながりとしての遺産であることの理解を、博物館側に求め、ポールの返還を要求した。
ここまでは、そりゃそうだろう返してやれよ、と誰しも思えることではあるのだと思う。しかし、3年にわたるスウェーデン側との交渉・協議の末、最終的にハイスラの人々がとった行動は、感銘を覚えずにはいられない。
ハイスラの人々は、博物館に展示されているのと、全く同じ新しいトーテム・ポールを作り、それと交換に、旧いポールを自分たちに返還してもらうことにしたのだった。
そこまでしなくてはいけないのだろうか、と少なくとも僕は思った。
ハイスラの人々は、長く続く協議のどこかの時点で、グブスゴロックスのポールをただ返還してもらうことは、スウェーデンの人々に対しても、自分たちがされたのと同じことをする事になるのだ、ということを理解したのだという。
「返してほしい」という想いは、まず成就すべき前提として、ある。しかし、「返してもらう」だけでは、全く足りないのだ、ということにも、彼らは気づいてしまった。
彼らに流れる「ポトラッチ」の歓待と贈与の精神がそうさせたのだろうか?残念ながら(?)、そんなに単純なものではない。もっと現実的な理由が、スウェーデンの人々を「他者」として交渉する必要が、彼らにはあったからだ。
ポールは、収奪されたのが確かであるのと同時に、60年間もの間、ストックホルムで「保存」されてきたのでもあったからだ。
伝統的なトーテム・ポールのあり方とは、自然のなかに建立され、倒れたらそのまま朽ち果て、母なるブリティッシュ・コロンビアの大地に還るに任せる。それが、北西海岸先住民文化における、本当のトーテム・ポールのあり方であったのだし、そもそも多湿であるブリティッシュ・コロンビアの地で、外気に晒されたポールが60年間もの間、良好な状態のまま、決定的な腐食から逃れられる可能性はなかった。だから、ストックホルムの博物館にあるのを見つけた時の、ハイスラの人々の感情は、アンビバレントなものであることを運命付けられたものでもあったのだとはいえる。
新しいポールの作成過程や、関係者のコメントだけでなく、返還を求める運動自体の中にも、様々な葛藤があったことを、監督のGil Cardinalは描き出してた。
上に書いたように、そもそものトーテム・ポールとは、博物館的な「保存」をするものではなく、自然のうちに朽ち果てるに任せること、朽ち果てれば、また新しいポールを建てること。そういった大きな循環のなかにポールを戻すこと、それこそが、ハイスラの人々の根っこの想いなのだった。しかし、そのような状況で返還を求めることは不可能であり、結局は、ポールを伝統的な生活の文脈から、文字通り、切り離して、「保存」「展覧」する施設が必要となってしまう。そういった彼ら自身の自律した施設がなければ、奪われていくままの時代を経験してきたのでもあったのだ。
このジレンマを止揚することは、日本人である僕らの想像を超えた切実なものだった筈だ。
だから、ハイスラの人々は、廃棄された元の土地に建立するために、「交換」用の新しいポールの制作と同時に、全く同じレプリカのポールを作ることさえしたのだった。
そのレプリカの、廃棄された「彼ら」の土地への建立のイベントは、祝祭的なムードの中、行われる。レプリカの、その先の長い時間の果てへの放棄とみえる行為自体が、そもそも自然なハイスラの文脈への帰還だったのだから。
また、返還の交渉にあたっても、新しいポールを作り、下彫りまでしたポールをスウェーデンまで空輸し、彫刻師が滞在して仕上げをする、その気の遠くなるような過程にかかる費用を、ハイスラの人々が募金によって賄ったことに関しても、返還を求める「トーテム・ポール委員会」の女性は、スウェーデン政府の対応に対して、怒りを隠さない。
結果的に、60年ものあいだスウェーデンの人々にしても、ハイスラの人々の存外であったのだとしても、グブスゴロックスのポールを大事に愛してきたことには変わりはなかった。そういった人々に対して、言葉と態度で理解を求めることができたのは、交渉にあたった「委員会」ではなく、実際に、博物館で、何日ものあいだ、観客に取り巻かれながらポールを彫った彫刻師の数名であったようにも、自分には思えた。
ドキュメンタリーの終盤近く、老いた彫刻師の親方が、ストックホルムの博物館の古参の学芸員の女性と、それぞれの万感の想いでグブスゴロックスのポールを共に見上げる様子に、それは現れていた。
もはや、徹底的な悪者や、完全なる敵など想定できない(筈である)21世紀と、ハイスラの人々もまた、しっかりと向き合ったのだった。
新しいポールは200年の10月1日にストックホルムの博物館に贈られ、2006年、ついに、グブスゴロックスのポールは、ハイスラの地へ返還された。
じつは、このドキュメンタリー作品はWEBで見ることができます(ただし、翻訳は無し)。
http://www.nfb.ca/film/totem_the_return_of_the_gpsgolox_pole/
上映の前に、雑誌『COYOTE』にも記事を書いている現地に詳しい写真家・赤坂友昭氏によるレクチャーがあり、たとえば、トーテム・ポールに彫られた動物で一番大事なのは、一番上の先っぽにいるものではなくて、一番下にいる動物なのだ、ということを知った。
coyote(コヨーテ) No.16 特集・トーテムポールを立てる「見えないものに価値を置く世界」
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このドキュメンタリーは、かなり「まっとう」なドキュメンタリーなので、音楽も控え目なものだった。
この映像のなりゆきの最後に、自分ならどんな音楽を添えるかな、と考えてみたら、思いついたのは意外にもONJQの『EUREKA』しかなかった。この曲の演奏の、壮絶な激情が、画面上では、あまりにも訥々と語られるハイスラの人たちの想いを補ってくれるように願いたい。
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帰宅後、NHKを観ていたら、新潟の村そのものを現代アートの展示場にしたこの夏のイベントの番組をやっていた。
イリヤ・カバコフによる棚田があり、黒く塗った鉄板を、かつての住民ひとりひとりのシルエットで切り抜いた彫刻が、観客を出迎えるのと同時に、目の前に住む住民自身の生活のなかで確かな位置を占めている、と告白されていた。
ある作家は、集落にただひとり残った老人と話しこみ、その集落の空き家に夜、灯りを点す作品をつくっていた。老人の寂しさを紛らわせること以上に、深い夜闇に美しい明滅が現前していた。
解説の日比野克彦は、アーティスト個人に属する作風を確立することに血道をあげてきた、つまり個人の文脈をつくることのみを目指してきたのが20世紀の現代美術であり、21世紀の現代美術は、ようやく、その文脈を「他者」に、「環境」に、ひらきはじめているのだ、ということを、自分の硬い文とはまったく違う語り口で、熱心に説明しようとしていた。
共に実際の現場を見てコメントしていた篠原ともえも、僕はひさしぶりに見たのだけれど、KINKI KIDSなんかと遊んでいた昔の幼い表情が、しっかりとした女性になった感じで、作品を説明してくれる住民の態度が、自分の家族を褒めるみたいでじんわりときた、みたいなことを、自分のことばで話していた。
新潟生まれのアーティストが、20年後に故郷に帰り、住民にも参加してもらうかたちで現代アートのプロジェクトを指揮するという場面もあった。出身の小学校の後輩たちに白い布にそれぞれの希望を書いてもらい、村から一望できる斜面に大きな「山」の字を書いた。イベントの最後には、かつての同級生総出で、それらの布を燃やし、夜に輝く火文字にしてみせた。作家自身は、東京での美術教師の職を辞めてこのイベントに参加したのらしい。
後のことがちょっと気にかかるとはいえ、故郷への錦の飾り方はいろいろあるわけだ、と感心して見ていた。
それそれでしかできないやり方で、帰還すればよいのだ。そして、そうするしかないのだ。そしてそれが最良のやり方なのだ。
そのこと自体が、故郷に多重な意味を、自律と最終的な包摂の歌を歌わせることになるだろう。
サルビア・レウカンサ(シソ科)
葉脈が、透ける。