みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

小さなユニゾンの諸形態:ルイス・アンドリーセンの『メロディー、開放弦のための交響曲』

nomrakenta2007-12-18


ヤフオクで落としたCDを聴く。
今回はオランダを代表する現代音楽家Louis Andriessenの『Melodie、Symfonie voor losse snaren』

自分としてはアンドリーセンの名前は知ってはいましたが、ただオランダのミニマル音楽の要素を採り入れた作曲家で、過去にはかなり政治色が強かった(手元の『AvantMusicGuide』には「反ブルジョワ的大作曲家」と書いてある)→オランダのフレデリック・ジェフスキ?という程度のイメージしか、実は持っていなかったのですが、これは良い出会い方が出来たかなあという感触です(代表作ではないとか、異論はもちろんありましょうが)。

まず『メロディー』(1972年)。これがかなりおもしろい。
フルートとピアノだけのデュオで26分を延々と。素朴なメロディーをフルートとピアノが寄り添うようにポツポツとユニゾンしながらつながっていきます。
アンドリーセンはこの曲についてこんなコメントを。

ある朝、わたしは隣家から聴こえる魔法のような楽器の音で目覚めました。なにが起こっているのか理解するのに時間はかかりませんでした。それは隣家の息子が、母親にピアノで伴奏してもらいながら、とてもゆっくりとバロック調のソナタを吹いていたのであり、それはユニゾンになっていました。
わたしは自分が耳にしたものを作曲してやろうと決めました。それが相容れない二つの楽器をユニゾンで演奏するための作品であり、反復がないのにも関わらず継続して同じような調子である『メロディー』になったのです。
ライナーノートより

アンドリーセンが耳にした小さな音の信じられないような音像を再現しようという試みは、かなり忠実に追及されているように感じます。しかもそんな掌(たなごころ)に収まるような二つの楽器の出す音の場、その生起を記譜することで再演可能な作品としているところに観念的なおもしろさも感じます。

曲のゆきかたに反復がないというのは本当で、同じフレーズというのは全く繰り返して現れないにもかかわらず、二つの楽器のたどたどしい軌跡はミニマル的な第一印象をもたらします。しかし要素を切り詰めることを目的としたミニマル音楽でないことは作曲家のコメントを参照するまでもなく、最初まさしく遠くから聴こえてくる家族の手習いを漏れ聴いてるようだったのが、数分後、雅楽のような静止した音像になったり、時折フルートがピアノによちよちと追いかけていくようだったりあるいはその逆のように聴こえたりして、決して派手ではないけれどもじっと耳を傾けるに値するヴァリエーションに富んでいます。
それはちょうど、拾い読みしていた市村弘正のエッセイのフレーズともユニゾンになっているような感じでした。

小さなものであることは、大きくなることへの「制約」や拡がろうとする欲望の「制御」の不断の働きにもとづくということである。制約といい制御といい、それは私たちに負性の働きとして受けとられるだろう。内的規律にしたがう「我慢」や外的な「露呈」の禁止が、対立や葛藤を内に含むものであることは明らかだ。小さなものの救出とは、けっしてこのような対立や葛藤の諸面をなし崩したり帳消しにしてしまうこを意味するのではない。制約や制御において表われる他者性を、それはむしろ「積極的なもの」として受けとる。

『小さなものの諸形態』p.62

ミニマ・モラリア?

もう一曲の『開放弦のための交響曲』(1978年)。
演奏前の弦楽オーケストラがめいめいに音出ししているのを聴いているような錯覚が。というのは、学生時代に市民ホールの舞台の仕事の手伝い(の手伝い)をしていたときに、演奏会のリハーサルで聴いた音出しが偶然的にはもったりするのを聴くのが、本番よりも愉しかったという失礼な思い出があるので、決して悪口ではありません。ライナーによれは12人の学生による弦楽オーケストラが個々に違った調性で開放弦で演奏しているとのこと。一人の演奏者は4つの音色しか出すことが出来ず、5つの音色のメロディーを出すのに5人の演奏者が必要になるとのこと。
といって、適当で粗雑な音なのかというと、そうはなっておらず、逆に音の重なりが「偶然合っちゃった」ような新鮮がキープされていたり、オーケストラとは思えないノイジーな演奏があったりと(1978年というパンクの時代を反映していたりするのかもしれない)、意表をついた面白さがあるかと。アンドリーセンも書いているように、まさに音の「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」。映画でいうともちろんフェリーニの『オーケストラ・リハーサル』でしょうか。