みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

藤井貞和の朗読を聴けた昨日、瀧道とM−1の今日

nomrakenta2007-12-23


昨日は、京都の立命館大学まで、藤井貞和さんの講演を見に行ってました。
阪急の西院駅に着いてうどんを食べてもまだ時間がある。
学生時代には今出川から河原町までよく歩いたよなあ・・・純粋に金がなくて、などと思い返しつつ、ならばと、西大路通をひたすら北へ。
徒歩で。
雨降ってましたが、1時間くらいの良い運動。

講演の内容は、藤井貞和さんの近著『言葉と戦争』asin:4272430726についてのものでした。

言葉と戦争

言葉と戦争

その講演のはじまりに「根本的な批判もでてくるかもしれません」と前置かれた藤井さんは、むしろ「根本的な批判」をこそ期待し、それと対話したい、と願っておられたのかもしれません。
藤井貞和というほとんど稀な豊かさと驚きをもった日本語の「うた」を書ける(現代詩、とはいわない)人を招いた立命館大学側の方々の暖かさというのか、丁寧さが伝わってきた講演会(藤井さんご自身は紛失してしまわれていたという、『大切なものを収める家』という詩の元になった朝日新聞の記事を講演会の資料として用意されていて、ご本人が嬉しく驚きであっただけでなく、聴講者にも大きな意味のあるものでした)で、質疑応答自体は成功していたとは謂い難かったですが、それでもいろいろ思うところもありました(次回に書こうかと)。とりあえずは、藤井氏の自作朗読を生で聴けたのは、良かった。
同じく近著の『詩的分析』asin:4879957186に署名を頂いたりしてミーハーな欲求を満たし(持参の筆ペンで書いていただいたのでしたが、素晴らしく味のある字でした)、帰路はこの濃密な本の後半と取り組みつつ今年の読書を思い返したりしていました。
『詩的分析』は下記のような、内部に閃光が幾筋も走っていそうな「つぶやき」で始まります。

真には“詩のことば”なんか存在しないかもしれないのだ。あるのは言語の体験であり、容認できるのは構造と出来事との総体にのしかかる、憑き物であったかもしれないのだ。そして現在にもその体験がありつづけると信じよう。
藤井貞和『詩的分析』p.13

構造と出来事。
「構造」と、「出来事」。
「ことば」の両最近接面。
最初のページからこれだから、読み進めるのが実に・・・要は濃密で。



今日は、遅く起き出してから瀧道歩き。まさの茶屋まで抜ける山道が、ここ数日の雨でか「危険」の黄色いテープが張り巡らされていた。
いやいや危ないところならここにくるまでの土砂がくずれて道になっていないところとかいろいろあるでしょ、と思いながら突破。なるほど落ち葉は積もって階段が見分けられないのもあるし、びたびたに濡れて危険信号が出ている。しかし、問題ない。自分の足の裏のこえをききながら(?)降りていく。
ここ最近では珍しくポトポト汗して気持ちよかった。


帰ったらいい時間。
肉が食べたくなって近所のスーパーにいって安ワインと一緒に買って帰る。
テレビでは「M-1グランプリ」。「笑い飯」は手堅くなっていた。でも勝てない。トータルテンボス、すごい。笑えた。しかし、キングコングの畳み掛け漫才がこんなにすごいとは。しかし優勝はサンドウィッチマン。派手さはないけど優勝を争った2組の速度と密度に対しても負けているのかといえば、揺るいでいない。
笑い飯」や「千鳥」といったコンビが未だに新鮮さを保っていることも驚嘆に値するし、特に「笑い飯」はプログレッシブな様を追っていきたいとも思うけれども、ここ数年の漫才は、「正統的な笑い」の強度をもういちど問い直されてきているような気がしたり、しなかったり。
個人的には「トータルテンボス」。「ボイラー室」の反復でつい嵌ってしまい、家人もひく大笑いでしたので、是非優勝して欲しかったです。
キングコング」の決勝用のネタもすごかった。途中で役柄が変わるところ(トータルテンボスのそれも面白かったけれど)の勢いを殺さないスムーズさには驚嘆。これは新喜劇の成果か。

今年の「M-1」はなんだか非常に満足だった。