みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

箕面の紅葉と六甲再訪、ジュディ・シカゴ『花もつ女』、国立国際美術館で館勝生の絵

nomrakenta2010-11-21

昨日、早起きして瀧道へ。
紅葉見物の賑わいを避けてゆっくり浸りたいなあという気持ちと、タイミング的に自分がいけるのは今週しかないかという読みがあったのです(が、少し早かった)。
前の週に登ったときより谷間は格段に朱に染まっていた。ただ、ところどころまだ緑の葉が残っていたりして、特に瀧の前に張り出した(よく阪急沿線のポスター写真にも写っている)モミジはまだ黒っぽくなって赤くなるのを待っているのかもしれなかった。
そのまま瀧の上に歩いて出て、ビジターセンターのほうまであがっていくと、朝日のなかで静かな紅葉が待っていた。







先々週の土曜日
前日に思い立って、箕面に引っ越ししてきて幼稚園にあがるまで住んでいた神戸の六甲にいってみることにした。
六甲に住んでいたのは、74年から76年の間のわずかな期間のはずなのですが、物心ついた最初の記憶がこの六甲の頃だった。
箕面駅から阪急六甲駅まで正味30分くらい。これしきの距離にもかかわらず、僕は震災のときでさえ、足を向ける気にはならなかった。距離よりも時間が隔てていた。六甲駅を海側に降りると、すぐに八幡神社がある。こどものころにこの境内の小さなお堂でお絵かき教室に通っていた記憶がある。絵を描くのが楽しいという記憶はここから始まっている。


朝日がたゆたう境内を抜けたら、道路を挟んで、かつて住んでいた宮前商店街の鳥居がみえた。この道路と商店街の感じを覚えていた。


淡路大地震でこの商店街もほどんどのビルが居住不可能になって建て直しをしたらしい、僕ら家族が間借りしていた家じたいは、地震の前に建て替えでなくなっていたらしいが、それでも商店街じたいに昔の面影(といっても鮮明なものではもちろんないのですが)がまったくないのは衝撃というよりは完全に拍子抜けだった。

再訪はあっけなく終了してしまったので、そのまま坂をおりてJR六甲道駅へ。
はっと思いだしたが、前職のデザイン事務所でこの駅にきたことがある。イベント会社の忘年会かなんかに下請け会社が掻き集められてこの駅に集合し、バスで山荘まで出発したのだった。
今日は駅前で神戸大学の学生がチンドンをやって、ビラをまいていた。大学でチンドンライブをやるとのこと。チンドンを町中で聴くとしあわせになる。
駅の改札前に小さな古本屋が出店していて、かなり渋い古書が並んでいた。見つけたのが『花もつ女』という1980年にPARCO出版から出ているジュディ・シカゴというウェストコーストの女性アーティストの自伝で、小池一子が翻訳している。きれいに白い蝋紙が被せてあった。

ジュディ・シカゴは、米国フェミニズム・アートの有名な作家らしいのですが、知らなかった。近年、来日もしているらしい。アンディ・ウォーホルを撃った女・ヴァレリーソラナスについても書いてある。

そのころ、ゆっくりと発展しつつある女性運動についての資料第一号がウエストコーストに着いた。それを読んで、私は信じ難い思いだった。ここに、私が感じ続けてきたことを発言している、それも声高らかに話している女性たちがいた。私はそれらの発言を読んで身を震わせた。私が女性アーティストとして私の生命の真実を表現しようとしたとき、常に出くわした抑圧を思い出して震えた。それを言葉に表すことについてのタブーをあまりに内在化させていたので、私はヴァレリー・ソナーラの本と、女性運動の初期の雑誌のいくつかを読んで、ぞっとしたくらいだ。たとえ私がソナーラのことを極端だと思ったとしても、彼女の見解の多くの真実を認め、そして私はそれまでの生涯で何ひとつとして自分に照らしあわせたことはなかったのに、その初期のパンフレットのあらゆる資料に共通項を見出したのだった。
――『花もつ女』p.79

初め、「男性」性の抑圧に耐えている初期の作品が、ミニマルで素材のみの男性的なものだったものが、女性運動の中で覚醒していくにしたがって、絵画表現に戻り、テキストも添えるようになっていく展開。
時代状況が、今読み進めている『フレンチ・セオリー』で描写されているアメリカの70年代の状況と通じていて興味深い。
フレンチ・セオリー ―アメリカにおけるフランス現代思想 (.)

フレンチ・セオリー ―アメリカにおけるフランス現代思想 (.)

このあと、大阪に戻って国立国際美術館で「マン・レイ」展。
個人的には常設展の近代コレクション2のほうが興味深かった。絵画部門で、館勝生が、2009年に物故されていたことを知って衝撃をうけた。1998年のVOCA展を受賞された館勝生は、僕が大阪で「ギャラリー白」などのギャラリーをうろつき始めるようになったころからずっと活躍していた。繰り返されるなにものかが羽化するような形態が好きだった。館勝生の絵画について、たしかに僕ら学生のなかでは、同じモチーフの繰り返しだ、みたいな批判なのか羨望なのかよくわからない感想があった。しかし描くたびごとに息をのませるようなアクションの集積を閉じこめることに画家が成功し続けていたのであれば、なんの問題があったのだろうか?
激しいと同時に残酷で優雅なストロークが、一息の風のように感じられるアクション・ペインティング、という意味では白髪一雄とやっていることは変わらないはずなのだが、とくに2000年代に入ってからタイトルが日付のみになった2点には、奔流のような絵画運動の熱量を、白い画面の余白の中で緊張感をもって配置していくという抑制が感じられた。
それから、自分にとって新しい発見だったのは、エイミー・カーメ・ウングワーレーと法貴信也。ウングワーレーは「私の故郷」という水に映る森をみつめているような画面がなんともいえず、もっともっと見たいと思わせてくれる。

帰宅してから昔もらったDMを引っ張り出してみた。


同じく先々週の日曜日
朝9時に散髪にいったあと、そのまま瀧道〜帰りに山麓線を経由して、イチョウ並木の黄葉を楽しもうとおもっていたら、全部枝を切り落とされていた。かなりショック。来年に期待。家人が駅前に出来たアーティスト・ショップで買ってきたというポーランドのマグカップがとてもいいので、携帯電話でレシピを探してホットワインをつくってみた。グラニュー糖がなかったのではちみつで代用。ナツメグとシナモンシュガーを入れて鍋で一回沸騰させると、まあまあな味でした。