みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

身体は軋み、言葉は発酵し、声は滑り出す:鈴木志郎康『声の生地』が萩原朔太郎賞を受賞、エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』

nomrakenta2008-09-05



タワーレコードが、高橋悠治がフォンテックに残した音源を、4枚にまとめてリイシュー。

それぞれ2枚組で2千円なので廉価盤といっていいようなお得感ですが、ジャケットのタイポグラフィーが素晴らしくて頬ずりしたくなる(というのは冗談です)。
特に自作のDisc1.2の絃楽器の作品(特に『鳥のあそび』)の陰影の深い響きに感銘を受ける。



       * * *


もう、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、鈴木志郎康氏の『声の生地』(書肆山田)が第16回萩原朔太郎賞を受賞されました。4月のエントリーでも書いたのですが、後半の『記憶の書き出し』4篇は、鈴木志郎康という詩人の人生が駆け足で綴られているんですが、それは暑苦しかったりベタッとした質感があるものの対極にあります。

語り口は平明というよりほとんど口語でありながら、自分のエントリーを引用すれば(恥)、「この新しい詩集のなかの言葉の重心は、より、はなしことばの声色・トーン・リズムや発声のためらい・言い淀みを、字と字、行と行の「隙間」に(『隙間問題』っていう詩があります)、自由に棲まわせるように書かれてい」るのであって、それは一番自分がよく知っている自分という素材を使った新しい「言葉」とすら言える、と思います。

半年近く経って読み返したら、気になる言葉が最初と若干違ってきていました。
『畳に座れないhiza』という詩は、2006年の作品で、70歳を越えて詩を書くということについて、吉増剛三の詩の調子などを借り受けたりしながら、考えを巡らせる(詩/si/シのことばで、かんがえる)と同時に、身体と切り離せない「ことば」について向き合っていると思います。

わたしは十七歳から詩を書いてきた。
紙の上に万年筆で書いてきた。
それが、紙に文字を書かない詩になった。
手で文字の線を引かない。
画像の文字を見るだけで、
言葉を繋げていく。
記述する。
気体の中に、
浮いたような、
筆跡のない言葉になった。
――『畳に座れないhiza』

と書かれている通り、詩人は現代詩が蒙ってきた環境の激変に戸惑いを隠そうとはしない。と、そこまでは、だれもが納得しそうなことだけれど、もっと重要なのは、このあとの行でも明らかであるように、詩人が「気体の中に、浮いたような、筆跡のない言葉」を「詩」ではない、とは決して言っていないのだ、ということであって、これは下記にコピー&ペーストを数十回反復しても言い過ぎではない重要な点だと思いますが、一回でわかってもらえると信じているので踏みとどまっておく点です。
詩の「ことば」と身体の「ことば」の間に垣根を、もう一度取り崩していこう、ということではないかとも思います。
[rakuten:book:12889466:image]
現代詩というのは、たぶん「なにかを語る」のではなくて「語り方」なのだ、という見方(読み方)が当然あるのだと思うけれど(そういうのをフォルマリズム的な見方というのかもしれないけれど)、この『声の生地』の肉声は、ほとんど心情吐露に近く、現代詩原理主義者ならば、それこそ受け付けられないかもしれないのですが、鈴木志郎康氏は、その戸惑いの真ん中に坐しながら、実のところ手書きによる物質的なエクリチュールでもなく、印刷された文字のフェティシズムでもなく、ことばとことばの間の循環と戸惑いの呼吸が立ち上がるような起点、肉声に寄り添うような滑走する平面に、ことばの新しいテクスチャーを見出していると思う。
言葉に頭があるなら両脇を両手で抑えるようなかたちで、もういちど、自分と読者の正面に、向き直らせようとしていて、その根気のいる作業がここでいう「詩」、なのだ、と。

『声の生地』という書物を通して、生き延びていく言葉の運動があるのであって、それを「詩」と呼べる幸運が、読者の前に投げ出されている。それが、今回の受賞の理由のひとつかなあ、と勝手な夢想してみたりもいたします。

とにかく、ひとりでも多くの人に読んで欲しい、くれたらいいなと思う。そしてとにかく、口幅ったい限りですが、おめでとうございます。


       * * *

今年のはじめに『崩壊ホームレス』という小説を読みながら、中学生の頃に読んだジュネの『泥棒日記』を思い出していたのですが、最近、この怪物作家について何も知らないことをまた痛感して、図書館で伝記を借りて読んでました。

エドマンド・ホワイトという人の『ジュネ伝』。結構前から書店の文学棚に並んでいることに気付いてはいたものの、未だに読む人がいるのかな、程度の感慨で素通りしていたんですが、まさか自分が読むとは思わなかった。

ジュネ伝〈上〉

ジュネ伝〈上〉

この『ジュネ伝』に関しては、日本語で読めるほとんど初で唯一の伝記本なので、よくもまあ、これまで一冊もないのに読まれてきたもんだ、とも思う。
上巻を三分の二程読んだところで、返却時期をとうに過ぎてしまったので、やむなく御返ししてきたんですが、この三分の二で、ジュネという孤児が比較的恵まれた幼年期から一転、施設(メトレ)に入る羽目になり、そこで人格を形成していく、軍隊に入るも、脱走を繰り返し(このあたりの無軌道ぶりは、たしかに読者の理解を超えている)、ヨーロッパ全土を「徒歩」で放浪しながら後に『泥棒日記』として記述されるような生活を送り、監獄に何度もぶち込まれながらその中で文学への素養を蓄積していき、やがてジャン・コクトーという決定的な人物の知己を得ることに繋がる。そしてそこから作家ジュネにまさに転生していく、という重要な過程をほぼ読むことができました。

個人的には、ジャン・ジュネという作家に関しての知識は、文学的なゴシップ程度しかなくて、そもそも村上龍がかなり以前に、ジュネのように言葉の力で価値を転倒させる作家が理想だ、みたいなことを村上春樹との対談で語っていたのを読んで、どんな作家なのかと興味が湧いただけであって、『泥棒日記』自体は、とにかく、語り始めたと思ったら数行後には別の話になっているし、レトリックという形容すら追いつかないような過美な修辞の密林のような文体であるし、しかも語り口がなんとなく、『泥棒日記』までのジュネの作品もそうだが、ジュネという作家自体を知っていなければ、響いてこないような、なんというか、「密談」調であるように思えて、ひじょー〜うに読み終えるのに難渋した記憶があった。例えば『葬儀』という小説も、作家ジュネ自身の人間関係を知っていないと、冒頭から把握できないことが多い、という事実にこの伝記を読みながら気づいた。

興味深いのは、時には「ジュネ」的に都合の悪いところ、例えば、孤児とはいえ最初預けられた家では甘やかされて育てられたことを隠したり、やってもいない犯罪に手を染めたと誇張したりとか、ジュネが自分の作家性をかなり意識し演出しさえしていたらしい記述で、もちろん男娼をしていたり、文学界の話題となり始めた時でさえ、盗みを繰り返して投獄されていたことは本当なのだけど、ジュネの最大の作品はジャン・ジュネという作家だ、という説も結構頷けるものだなあ、という面も真っ向から否定はできないこと(でも、「語り手」自体を楽しむというのが小説の楽しみ方なのだから、それでなんの不都合もないわけである)。

小説を書く前に発表していた長編の詩について、読めたものではない、と言われても平然としているのに、すぐ捕まってしまうのだから泥棒としては最低だ、といわれるとムキになったというエピソードは眉唾だけれど、おもしろい。
気になって付箋しておいたところを備忘録的に以下に抜粋引用。
1939年にジュネは、パリのデパートで、シャツと絹の端布を盗もうとして失敗、何度目かの入獄となるが、ここで内面的な転機が訪れる。

 「それは三九年、一九三九年のことだった。私はブタ箱に一人で、つまり独房の中に入っていた。まず言っておきたいのは、男や女の友達に手紙を書く以外に、私は何も書いたことがなかったということだ。それに、そうした手紙にしても全くの紋切り型のもので、文章は出来合いのどこかど聞いたり目にしたことがあるようなものだったと思う。自分で感じ取ったものではなかった。それから、私は当時チェコスロヴァキアにいたドイツ人の女友達に、クリスマスカードを送った。それを私は獄中で買っておいたのだが、カードの裏のメッセージを書くための欄は、ぶつぶつしていた。そしてこのぶつぶつに、私は大変に心を動かされた。それでクリスマスのお祝いを言う代わりに、私はこの葉書のぶつぶつと、それが連想させる雪について語った。その時から、私は書くことを始めたのだ。私がこれが動き始めを告げる音(クリック)だと思っている。記録するに値するような、カチッという始動音(デクリック)だ。」
― p.194 エドマンド・ホワイト著『ジュネ伝(上)』

たしかに、ある種の画用紙のテクスチャーは畝がボツボツとしていて、見方によっては、雪の積もった畑かなにかに見えそうだ。ここから、あの些細なディテールから延々とレトリックを差延しながら宗教論にまで発展していて矛盾がないという恐ろしい文体が始まるのか、と思えば文句無しにおもしろい。

 ランボーと同じように―彼は十七歳でヴェルレーヌと出会い、ヨーロッパと詩を放棄したときは二十四歳だった―ジュネは三十二歳から三十六歳までの間に、霊感を受けたように五篇の小説を一気に書いた。ランボー同様、ジュネは霊感も苦しい努力も信じなかった。その点について、彼は自分の出版者に向かってこう語っている。「天分というものはない。この言葉は神学の残り物だ。才能というのは神から与えられるかのようだが、天分は意志であり、それは力なのかも知れない。二つの危険が、まだ残っている。コクトーの類のように霊媒としての詩人になって、霊感の源泉のなすがままになってはならないし、また自分の作品を作ろうと望みすぎてもいけないのだ。」

― p.170 エドマンド・ホワイト著『ジュネ伝(上)』

そうなのだ。ジュネって、「小説」はわずか5篇のみしか残していないのである。『花のノートルダム』(コクトーが絶賛)『薔薇の奇跡』『葬儀』『ブレストの乱暴者』そして『泥棒日記』で、ファスビンダーによって『ケレル』というタイトルで映画化された『ブレスト』以外は、ジュネの自伝的色彩が濃いもので、『泥棒日記』に顕著だが、多分に夢想が入り込んだ回想形式といったほうが、おそらくは適当。
コメントの後半は、最大の恩人である筈のコクトーに対して、かなり酷い言い方のように凡人には思えるが、コクトーに対しては芸術的な対立というよりも、先ず、最後の投獄生活(ドイツ占領時代において、生計を得る手段を持たないという理由で終身刑になりかけた)で、目立った援助を受けられなかったことに対する激しい怒りがあるようだ(と、言っても、それまでにコクトーの紹介で作品の出版前に名声を得るなど、かなり良くしてもらっているわけですが)。

 ジュネの作品にとって、読者との(あるいは後には劇場に来る観客との)関係は常に重大な問題だった。ジュネが書くのは誰かのためでもなければ神のためでもないとサルトルは主張しているが、ジュネ本人の証言はこうした意見と矛盾するものだ。何故なら、フランス大衆の内でも最も力を持っている階級に語りかけるために、隠語(アルゴ)ではなく支配階級の言語で書くことを彼は認めているからである。
― p.248 エドマンド・ホワイト著『ジュネ伝(上)』

フランス語の中の別の言語であるかのように、「敵」のふところで異物を生成するようなやり方が、ジュネという文学者だったわけだ。この辺り、やっぱり翻訳で読むには厳しい部分かなあと、益々思いましたが。

 一九四三年の春、ジュネは世間から認められつつあった。戦時中の紙不足のために『花のノートルダム』がきちんと配本されたのは一九四四年になってからだったが、彼は人々の話題になっていた。パリ、それも特に戦時下の芸術関係のパリは狭くてゴシップ好きな世界だったので、コクトーが新しい天才を発見したという話は瞬く間に拡がった。一九四三年三月三日という早い時期に、コクトーは日記にこう書いている。「人々は彼の名前を口にし始めている。恐ろしい早さで名前が知れ渡ってきている。ところが、誰も彼の作品の一行すら知らないのだ。」そして、ジュネが再び刑務所に送られた時には、彼が収監されたという噂が素早く拡がった―ジュネがまだ長篇の詩を一篇発表しただけだったということを考えれば、彼は奇妙な程に有名だったわけである。
― p.253 エドマンド・ホワイト著『ジュネ伝(上)』

とどめのような記述ですね。