みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

シニフィアンとシニフィエは仲が悪い:「美大惑星」いきなり外伝、『「関係の空気」「場の空気」』、サーストンのソロ

nomrakenta2007-10-13



「KY」とおもわず人を揶揄する前に、またそう揶揄せずにいられない状況に陥ってしまったとき、もしくは自分がそう形容されたアトモスフィアを感じたら読むべき新書『「関係の空気」「場の空気」』を読了。
まず「関係の空気」は日本人が一対一のコミュニケーションを図る際の、いわずもがなな情報の共有部分のことで、日本語はこの範囲において高い機能性をもつとされる。次の「場の空気」は3人以上のコミュニケーション空間のことで、学校、共同体、会社などなど要するに「公の場」と思えばいい。
論旨の一部を自分なりに要約すると、著者の冷泉彰彦氏は、「です」「ます」を丁寧語として特別視するのではなく、他者の距離を適度にとれる言語として日本語の標準スタイルとしてはどうかと書いている。微妙なニュアンスや暗号、省略で大量の情報を共有できる日本語の高機能ぶりを先ず認めはするものの、その日本語の最大の長所が、場の空気の共有を土台にしているものであり、その「空気」自体の存亡の危機にある今の時代の「日本語の窒息」、これが日本語を悪循環の方向へ押しやっているとしている。
日本語は「関係の空気」ではほぼ完璧に動作するが、「場の空気」の中では硬直した権力化を産む傾向にあるというわけだ。山本七平の『「空気」の研究』についても触れている。

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

といっても暗く重い調子なのではなく、要所要所に置かれた会話例も上手いのかオヤジギャクレベルなのか判然としないある種の軽妙さを保持しながら、読者をぐいぐい具体例で絡め取って結論へと導いていく。新書の見本、といえるのではないか。今日は良い読書ができたなあと、夜の一時過ぎに就寝したのが昨晩のこと。

事物が感応しあうように、距離を保て。
『集落の教え』p.178


集落にあるほとんどのものが、標準語ではない。ほとんどが方言(変形)である。しかし、可視的になっていない標準語がある。
『集落の教え』p.42

眠るといえば夢だが、先日より『美大惑星』の続きが見れないかと、自分でも心待ちにしていたのが、やはりそうは問屋が卸さないようで、今朝見たのもまったく関係のない夢だった。同じ人間の頭の中のことなので、どこかの地下茎でつながっているではないかとは思うのだが。


その世界は、『美大惑星』の廃墟ビルとは若干異なっており、世界全体が坂になっている
とにかく坂の上か下かしか方向感覚というのがないのだ。夢の方向としては、どうやら自分は坂の一番上あたりの温泉に下校時間を過ぎても一人佇んでいたようだったので、そのままどこかを目指して真っ暗な下りの階段を転がるように降りていった。途中階段は地下に潜ったりしたようだ。

ルーズな構造を与えよ。そして、さまざまな径路を生成せよ。
『集落の教え』p.166


境界であって境界でない閾には、特に注意せねばならない。
閾は、出入りするものどもの限界を指し示す。
だから、閾は境界のシンボルである、あらゆる出入りするものどもに対する門である。
『集落の教え』p.144

とにかくでっかい黒い蜘蛛が左手にずっと貼りついていたのに気がついてはいたが、無害な様子なので放っておいたら、下腹部の尖った管から卵を産み付けられていた(この辺、実際の蜘蛛の生態と全く関係がない)ことが判明し、あわててカヌーに乗って水路を巡り、どこかにいる筈の友人の助けを借りにいくという、ちょっとストーリーじみたものであった。


友人宅というのが、二階建ての小売店で、地階が店でその上の階が友人の自宅となっていた。なんの店なのか、これもまた設定責任がないためかよくわからなかったが、照明を落とした暗い店内には大きな水槽が所狭しと並び、キチンと酸素も供給している水槽の中には巨大な土瓶や変な顔だけの彫刻などのオブジェが沈めてあったので、熱帯魚の概念を売る店だったのではあるまいか。

村の中に村を築け。家の中に家を築け。
『集落の教え』p.136

その二階で友人に今後の相談などをしながら、夢時間を過ごしている感覚だったのが、急に友人がカウンター(なぜ自宅にカウンターがあるのか?)の下からショットガンを出し、窓際によって眼下を見下ろし「来やがった。また空き巣だな」と吐き捨てる。窓際から店の前を見下ろすと、確かに暗い路上に怪しい人影が数人まばらに散って店内を指差して忍び込む手はずの確認をしている。え、いやしかしまさか明らかに主人がいるのに?空き巣?といいかける前に、室内はおろかビル全体の明かりが消え真っ暗に。「ほら電気供給を断たれた」となぜか愉しげに友人。すでに奴らの突撃に備えて手馴れた様子で装填を終えやる気まんまんである。しかし、空き巣ならもっと秘密裡に事を起こすのでは?ちょっと夢の進行、待ってみようかと念じてみても、事態は止まらないし夢に止まる理由はない。

時間にせよ、空間にせよ、変化は小刻みである。
『集落の教え』p.154

いつの間にか白煙たなびく友人の持ちビルを抜け出していたが、カヌーは何故か双胴カヌーになっている。乗っているのは自分ひとりなのにである。
水路はいつの間にか増水極まり、両岸にはもう巨大なビル群がマングローブの林のようにそのまま水面から生えるいるように迫っている。この水路、ばかに幅広いのだが、イメージ的にはヴェニスと道頓堀の混淆物であろう。ところどころ椎名誠の『水域』に影響を受けたのがまるわかりの様子で、サカナともつかない水棲動物の魚影(言語矛盾?)がちらつくような気もしていた。

不思議なことに、いずれの集落も島である。
『集落の教え』p.116

ここで道頓堀などの固有名詞を使用すれば、その途端に辺りの情景に見慣れた御堂筋の風景の肌理が侵入するのは明白であって、そうなると夢の夢としての進行はとまる。「夢」としての認識が張り付いてしまうので、夢のなだらかな成長は望めなくなるであろう、そんな計算を確かに頭のどこかでしていたような憶えがある。しかし果たして計算していたのは、夢の中のカヌーに乗った自分らしき人物なのか、夢の進行を俯瞰する物語人称だったのか。そのあたりの興味は尽きない。

ある事柄についての偏愛や執着の強度が、幻想的な様相を誘導する。
『集落の教え』p.160

とりわけ大きなビルにカヌーをつけると屋上は二段階になっていて、その一段目から自分をひっぱりあげてくれる親切な人がいる。手をとってみると、自分をひっぱりあげてくれるのではなくて、ひとの頭を踏んづけて自分がカヌーに乗り込んでくる。自分の席を確保すると開口一番、「さあ行こう」である。
「どこへ?」決まりきったこと。男の口調は断固としてそして清清しい。
「行くのだろう。その、美大惑星』へ」


この最期のあまりに予定調和な『美大惑星』というのは、もちろん今これを書いている時点での「作り」ではある。ただ、これも固有名詞の定まらない不定形な目的地を告げられたことだけは夢の最期にあったことで、そのとき僕は「それはお後がよろしいどころか出来すぎだ」と思ったから、それに近い言葉ではあった筈なのだ。それにしても、どうやらこれが潮時らしい、と僕は目を覚まして、身体を伸ばした。

逃亡者たちは、楽園をつくる。撤退せよ。
『集落の教え』p.52


聖なる方向を設定し、事物の配列の根拠にせよ。
『集落の教え』p.90

最近思うのだが、夢の中ではシニフィアンシニフィエはとても仲が悪いようだ。日頃から無理してくっついているからであろう。
夢の中で意味するものがその責任を放棄して浮遊して意味するもの同士互いに気に入ったものが好き好きに接続・融和していく。その連鎖がおもしろいといえば面白いわけだが、意味されるものは夢の外に置き忘れられていて、あとから無理に意味されるものの鋳型に、夢の印象をあてはめようとする。つまり言語化しようとするわけだが、どうしたって上手くいくわけもない。
もはや夢を分析対象と捉える殊勝さはまったく持ち合わせておらず、ただ壊れたテレビ受像機の映像の乱反射を愉しむ心持である。


それにしても、腕の蜘蛛の卵は一体どうする/どうなるというのだろう?

遠くからは、辺りに溶け込む姿をもて。
近くからは、辺りから際立つ姿をもて。
『集落の教え』p.148


ソニックユース(以下SY)のサーストン・ムーアのソロ新作が出た。で、買って聴いてみた。

Trees Outside the Academy

Trees Outside the Academy

サーストンのソロはこれで2作目だが、以前の『サイキックハーツ』は実はソロとしてカウントはあまりしたくない。本作でもってはじめてのソロアルバムだと思いたい。
冒頭の雅楽のような音色のヴァイオリンにアコギが合流し、凍ったギターの歌をサーストンが訥々とはじめた段階でこの作品が成功していることを確信。
グレアム・コクソンがソロを出したころの事を思い出させる風情(サーストンの方が年季ありますが)。
本作のクレジットをみて驚きなのが、サーストンがほとんどアコギ演奏でエレキはJマスシスに任せてしまっていること。
明らかにギターインプロノイズアルバムを作ろうとはしていない。では何かというと、あまりに臭いがサーストン・ムーアという人間の「ハートの集大成」でいいんじゃないだろか。
いつものSY的な曲調もあるし、ストゥージズへのオマージュめいたリフの引用もある。
サーストンの歌は、実はとても繊細というか思春期以前の過敏さの塊りがそのまま残っているようなところがある。SYの最初期それは暗さとして『She is in a bad mood』のような曲で暴力的に発現していたのだけれど、段々と繊細さそのもので成り立つようになってきたのだと思う。それがSYではバンドの音の間に隠れているとはいわないまでもそれらと拮抗しているため目立たないのが、本作のようにおちついた作りをすると、もっとじわっと前面に出てくる。それも押し付けがましい形ではなく、ささやいたら足早に立ち去ってしまいそうなシャイネスで。
ブックレットの若い頃のサーストンの写真も微笑ましい。特にルー・リードの『メタルマシーンミュージック』のLPを持ってヘッドホンしながらニヤついている少年時代の一枚は、こういう写真があることをどこかで読んだ覚えがあっただけに初めて見て、嬉しい。パティ・スミスのファーストLPをもちながら冷蔵庫の扉を開いて寄りかかっている若いサーストンは18〜20くらいなのか、ものすごいロンゲである。キムの若い写真もある。多分『ソニックデス』辺りまでの時期の写真だと思う。すごいサングラスをかけているからだが、それでもやはり可愛いなあと思う。
特に『Honest James』や『FR/END』といった近しい人のことを歌った「うた」の表情がとても新鮮。もちろんあのサーストン・ムーアにつき、ちょっぴりノイズなところもあるが、こんなフラジャイルな「うた」を、今になってこんなに普通に歌ってみせてしまえる人であることをもっと多くの人に知ってもらいたい。
ものすごく丁寧な作りで、心のこもった「うた」の入った良いアルバムになった。
次のSYのアルバムはどうなるんだろう。

Sonic Death

Sonic Death

Metal Machine Music

Metal Machine Music

*     *     *     *

数箇所で引いた原広司の『集落の教え』のなかの言葉は、特に前後の内容を補足しているわけではありません。集落の特性を詞的に切り取った原広司のフレーズの「かすっていなさ」が、複数周囲に散らばって、そもそもとらえられるわけもない夢のニュアンスなり輪郭なりをせめて暗示くらいはしてくれるんじゃないかと。

複雑なものは単純化せよ。単純なものは複雑化せよ。
その手続きの複雑さが人の心をうつ。
『集落の教え』p.32