みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

映画がみる夢:『雨に唄えば』

帰宅したら、BSで『雨に唄えば』をやっていた。
実はこのミュージカル映画の古典を、初めて観るのだった。いい機会なので観てみる。

雨に唄えば 50周年記念版 スペシャル・エディション [DVD]

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冒頭のプレミア上映のシーンからほとんど戯画的な演出だが、これに嫌味が全然なくて、心が和む。なんかフェリーニの映画を観てるときのような夢心地にしてくれるのだ。今の映画でこんな演出をなんの嫌味もなくできるかというと難しいのではないかと思ったり。昔の映画(Wikiをみると1952年)故に同時代性の角がとれているだけなのかもしれないが。

スタンリー・ドーネンという監督は、子供のころに『スペース・サタン』という宇宙ステーションでロボットが自意識持ち人間に刃向かい、あまつさえ人間の女(ファラ・フォーセット)を奪い取ろうとするという、今にしてみれば『2001年』の翻案かとも思う珍妙な味わいのSFがテレビ放映されたときに「あの『雨に唄えば』の監督がつくった異色SF・・・」という紹介(洋画劇場で)がされていたので覚えている。
その後ももちろんジーン・ケリーが雨の中で歌う有名なシーンを何回か切れ切れに見た覚えはあるので、名作ミュージカルとしての認識は当然あった。
なのになぜか今まで観なかった。


で、初めて観て感心したのが、きわめて自己言及的な構成になっていることで、この場合の自己というのは、
①映画がハリウッドのサイレントからトーキーへの移行期を描いていて*1それがまあ映画が持てる題材としては可能なかぎり自己言及的だなあ、と割と平坦かつ直線的に思うのと、
②物語の構成が映画中のいくつかの映画・劇中ミュージカルを含みつつ進行し、ハリウッド映画おなじみの巨大な映画看板(タイトルは『雨に唄えば』)を前にしてドンとリナがキスするラストシーンも、観ようによってはラストシーンまでの全てのシーンが劇中劇であったとの解釈も可能な極めてメタな方法をとっていること。それが映画を観ること自体を複雑に折りたたんでくれていて、幸福な自閉というのか、ものすごく複雑な思考をこれ以上ないエンターテイメントに仕立ててくれている気がして(というかそうなんですが)とてもいい感じなのである。


主人公のジーン・ケリーが初めてのトーキー「戦う騎士」の大失敗を救うべく恋人の幼馴染の協力を得て、ミュージカルに作り変え「踊る騎士」にしてしまおうとする(この辺りも自己言及的だと思うわけです)その段階で、最後のシーンを中世の物語から現代のブロードウェイのダンサー志望の青年の物語にしようと説明しかけて、それがそのまま劇中ミュージカルになだれ込むが、これが一つでかなりまとまっていた。
ケリー扮する無垢なダンサーへの希望に燃えた若者が、ブロードウェイの小屋をドアを叩く。いくつかには無視されるが、3つ目には認められて、いきなりステージに出て喝采を浴びる。そのあとはとんとん拍子で出世するが、ギャングの情婦らしき妖しい女と恋に落ちる。キャリアの絶頂でその女と再開するが、今度は女は冷たい態度で若者ケリーは失望を味わいながら一人ブロードウェイに立ちすくむ。すると、昔の自分とまったく同じ格好をした若者が現れて、昔の自分と同じように期待に胸を膨らませて言う。「踊らせて!」と。それを観たケリーはダンスと歌への初心を思い出す。ここの歌と踊り、そしてケリーの表情がわかりやすく魅力的で素晴らしいのだが、ここまであくまでもケリー扮するドンの提案内容の描写に過ぎず、このシーンが終わると、「・・・というの具合なんだけど、どう?」となる。
撮影所のオーナーの返し方も秀逸で、「見てみないとわからんよ」と言うのである。映画を観ている人はそれを今までまさに観てきたわけなのでこれは笑ってしまうと思う。

こうやって映画の「語り」は、平坦に物語世界の進行をなぞるのではなく、様々な「語り」を自分の中に織り込みながら、この映画全体ももしかしたら何か他の映画に織り込まれている何かなのではないか?というような蠱惑的な可能性を暗示しているようにも思える。
そんなメタフィクションおたくな私を納得させてもくれながら、踊りや歌だけでなく画面の色彩、衣装、舞台装置なども今みても新鮮、という、やはり「名作」は凄い。という普通なオチで申し訳ないんですが、まだ観たことない方は是非。

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ハーヴェイ・カイテルが出てたことを今知りました。

Darklands

Darklands

例のシーンを観ているときに思い出した。
『雨降りでもハッピー』という曲が入っている。

*1:サイレントからトーキーへの移行期は大まかにいって1920年代末〜1930年代初めということで、この映画が1952年だから、今でいえば大体1980年代後半を振り返っているようなものなんですが、80年代末にトーキー移行と同レベルの出来事を映画の世界に見つけることは難しいかも。