みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

内面と内言とゴーストと。:鈴木志郎康映像作品『内面のお話』

nomrakenta2007-01-09


(注)右の画像は映像作品とは無関係です。テキストばかりで殺風景なので自分で撮ったものです。
昨年の11月から鈴木志郎康さんに映像作品のDVDをお借りできることになりました。
そして、これまで何回か拙いレビューをゴソゴソと書いてまいりました。
今回は鈴木志郎康さんより合計6枚のDVDをお預かりし、これでほぼ主要作品の全てを網羅的に観ることになるようです。
映画に対しては、大学時代にサークルで8ミリ映画を一回だけ撮ったきりで、あとは受動的きわまりない接し方を長年してきた人間ですので、ひとりの映画作家の作品を、そのはじまりから通時的に観ていく、などという経験は、間違いなく最初で最後の貴重なものでしょう。
そう思うと一本一本、じっくりと観ていきたい。ですので、今回からは1エントリー、1本(或いは2本)で小刻みに書かせていただこうと思っています。

今回はこちらです。
1:『内面のお話1999年/50分/カラー/サウンド/16ミリ A TALE OF INNER TALKINGS

まずはこちらの鈴木志郎康氏ご自身によるHPのフィルモグラフィーをご覧ください。

この映画には、モチベーションとなった一つのテキストがあります。
『詩の包括的シフト』という現代詩の領野と内面の問題を扱ったテキストです。

軽くしなやかで、物事の本質を突いた深みのある文章を書きたい。
「である」や「だ」は止めにしたい。

という、とても実直な書き出しからはじまる僕としては納得できる文章で、入沢康夫の『詩の構造についての覚え書き』くらい重要に思えるのですが、WEB上では反論などがあったようです。
鈴木志郎康さんは、この映画を「ハイブリッド映画」と呼んでいます。
それはCGを駆使しているという方向の意味ではなくて、映画の語り自身が複数である、という意味において、です。
実際のその複数性は、例えば『あじさいならい』などで実践したような、映画(まなざし)の中に他者の映画(まなざし)を取り込んで、なおかつひとつの極私的なゆるやかな(ここはポイントです)まなざしに投射する、というやりかたとも異なっており、映画(まなざし)の中の時間を丸ごと、他者の語りに明け渡す、もっとアナーキーなやりかたといえそうです。

それにしても『内面のお話』というタイトル、これは可能な限り意味深げなものです。
間違いなくある種センチメンタルな部分へ誘っていくテーマでもあるでしょう。
「内面」とはそんな言葉であるような気がします。
「内面」というからには、なにか根源的なものが秘されていて、まさに語り始められなければならないような切迫感があります。
ですが、その「内面」自体が、作家本人によって

内面、内面というけれど、内面というのは実はよくわからない

と、冒頭でいきなり無冠にされてしまいます。そして切り返す言葉で、

しかし、人は嘘をつく。
嘘をつき、また人はそれを本当と思いこむ。
それこそ人に内面があるという証拠ではないか?
また、嘘を本当にすることが作品をつくること

そんな言葉が、フィルムの第一の(そして潜在的な)折り返し点となって、学生による嘘を語るパフォーマンスと「誰かのオレンジ」というこれも学生のショートフィルムを丸ごと取り込んだ形で映画は進みます。
冒頭では、カメラの前で即興的に嘘を話すというテーマで、数人の学生が各々、パフォーマンスしていますが、意図してか意図せずしてか、彼女/彼(女性の方が多いです)らのつく「嘘」が、逆に彼女/彼らの言葉の領野を、見事にさらけ出すことになっていて、「嘘をついているかもしれない現実」より、遥かに誠実に自分自身を語っているように見えるのです。
あ、これが「内面」か、と思いました。
つまり二重三重の方法的なディシプリンをかけることで、結局よりくっきりとした輪郭をともなって見えてくるもの。
「内面」というものはそういうところがあるんじゃないか、と思ったのです。

結果的に、作品のコンセプトに沿った形で意図的に「嘘=フィクション」を語ろうとする人と、自分の「内面」を吐露していく人と、2通りになるのですが、最初、自分の痛みを他人事のように語るその妙に冷静で自嘲的な口ぶりと、断片的な「語り」に違和感を感じたことを告白しておかなければ、それこそ「嘘」になります。
しかし自分自身も、彼女/彼らと何世代も離れてもいないのだ、と思い直すと(僕は1996年まで学生をやっていたのですから)、段々と違った面が見えてきました。
どちらの場合でも、あきらかに学生さんそれぞれの嘘に対する感覚は、作品がテーマ立てしている「内面」と、それぞれが、というより全体的にどこかずれている。
これは腑に落ちることです。
もともと彼女/彼らは、作品が期待する「内面」というものを持ち合わせていないのかもしれませんし、むしろそこからいかに距離を置くかに腐心しているようにすら見えた、というのがこの違和感の源泉であるようでした。
「腫れ物に触る」といいますが、逆に言えばそれだけそれぞれの「内面」を恐れ、かつ大事にしているのかもしれません。隠蔽するその身振りが、かえって饒舌だ、ということもあるわけです。
自分自身の体験にも照らし合わせて考えると、そんな外からの「読み」さえ、それこそ「内面」では期待していたりもする。
しかし、この作品は、そんな齟齬を問いただしたりはせずに、ゆるやかにやりすごそうとしているようにも見えます。もとより「統一」しようとは考えてはいないこの『内面のお話』という作品にとっては、「統一」された印象こそ、考えうる不幸のうち最たるものなのでしょう。
そして「その人、死んじゃえ、いなくなった方がいいって思うくらいキレた」と冷酷に語っていた女の子の「お話」の、実際の「その人」であった実の「父親」が、収録の後突然亡くなってしまうという「現実」の事件が起こります。
これが監督である鈴木志郎康さん自身にも相当な動揺を与えます。この情け容赦なく作品に割り込んで中断してしまう現実の出来事が、この作品に第二の折り返しを要求します。
娘が回想する生前の父の言葉で、次のようなものがあります。

「わたし」というものは「わたし」の中にはいない。
自分が誰かと出会ったとき、
その関係の中でこそ「わたし」が生まれる。

彼女は、この言葉を父親が生前、プロの編集者だったことと過度に結びつけているように思えます。この言葉は、他者依存や自己過疎を表明しているわけではないと思うのです。これはとてもデリケートな問題ですし、もちろん僕が観て思った限りの想像で異議を唱えれれる種類のことではないわけですが、つまり僕はそう思いたい、ということだと思います。




ちょっと「お話」を変えてみます。
実は、この作品を観る数日前、アニメの『イノセンス』を観ていました。士郎正宗の漫画を土台にした『甲殻機動隊』というSF作品の続編で、僕は割りとこのシリーズが好きなのです。
頭脳がネットに拡張され人体はほとんど機械化することが可能になったが国家は厳然と存在している、という作品の時代設定の中では、最後に残った個人の個人たるゆえんは「ゴースト」といわれるその個人に特有の「自我」というか「記憶」、「人格」にあたるものになっていて、ベースの犯罪捜査劇の一方で、この「ゴースト」問題が重大なテーマともいえます。実際、前作のラストは、主人公が肉体を捨てて「ゴースト」のみの存在になり広大なネット世界に融合するという、ぶっ飛んだものでした。
このシリーズを観るたびに設定の巧みさに感心するのですが、それはこの「ゴースト」という設定がかなり上手に「自分が自分であることのはかなさ/あいまいさ/隔靴掻痒さ」を掬い上げているなあと思うからです。ここでいう「ゴースト」は「内面」の前提となるものだともいえそうです。「内面」があるかないか、は自分が自分である(あるいはこの人はあの人ではない)と規定できてからの「お話」です。

また、IEプログラマーだったラメズ・ナムという人の『超人類へ!』ISBN:4309906982遺伝子治療やクローニングに関する長い章の後に「接続された脳」とか「ワールド・ワイド・マインド」といった題の章が続いています。
たとえば、こんなことが平然と書いてあります。

神経科学の研究によって、すでに共感に関係する脳の領域について、かなりの量のことがわかっている。扁桃体やそのほかの部分が、他人の感情をモデル化するのに関係していて、それで、他人が何を感じているのかわかるのだ。脳の各部の情報は扁桃体に送られ、このモデルに取り込まれる。人工神経装具があれば、ほかのだれか(たとえば、あなたの愛する人)の感情中枢の情報が、あなたの共感中枢に直接送り込まれる。夫や妻、あるいは子どもがどう感じているのか頭を悩ませなくても、脳同士を結ぶワイヤレスなつながりを通して感じられるだろう。もしもほかの人の感情をあまり感じたくなければ、ボリュームを絞って、ニューラル・インターフェースが共感中枢に送る信号を弱くすればよい。だれの感情を共感中枢に送り込んでだれのは送り込まないか、ソフトウェアに任せてやってもらうということもできるようになるだろう。結果として、ほかの人がどう感じているのかがひじょうに鋭く感じられるようになる。オプションとしては、あなたが選んだ基準によって感覚のボリュームを上げたり下げたりできる、ということになるかもしれない。

ラメズ・ナム著『超人類へ!』p.222

実際そうなると、一番先鋭化して凄い事になるのは、宗教的な体験や感情、そしてもちろんセックスなのではないかと思いますが、まあそれは余談です。
とにかくこんな記述を読んでいると「ゴースト」じゃありませんが、あらためて個人の心とか意識というものが肉体を超えての境界づけを必要とする時代が来るんじゃなかろうか、とも思えてきます。
そこに新しい「内面」の問題が、今度はいかにして「内面」を確保するのか、という問題を含んだ形で出てくるんじゃないかと。

ここでの「内面」は、自分の感情や記憶に立脚した語彙や文脈です。

それは、ヴィゴツキーが、社会に向けた伝達用の「外言」と区別して言った「内言」が自己生成して流通する領土、といっていいかもしれません。ドゥルーズガタリなら「内在平面」とか言ったりするのかもしれません。
そして、ここでは「表現」とは、それを編集して「外言」にしつらえることです。
決して「嘘」のヴェールの奥に秘されたままで安寧としていられるものでもなく、かといって優しさや柔軟性を欠いたものでもありません。
「内面」とは、もちろん外からの絶え間ない干渉と「内面」からの働きかけが相互に浸透してはじめて「編集」されていくもの。
このフィルムは、複数の「お話」(Tales)に対してまったく無防備に自分自身を開け放すという方法で、そんなことを呟いてみせている。
そんな気がしています。

さあ、少しでも「内面」が語れたでしょうか。