みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

枯葉とジョン・ケージ:DVD『ジョン・ケージ』

nomrakenta2007-01-03

10月頃に真っ赤な落ち葉だったのが、
今日みると、当たり前だがまったくもって枯れている。

枯葉色、という色はない。色が退却している様なんである。

枯れ果てて、「葉」という属性が、どんどん抜けていこうとしているのである。

葉の「気配」だけが集積している、ともいってみる。

それはそれとしても、溜まっているとやっぱり何か思わせぶりではある。

明日から仕事なので、今日はおとなしく昨年のうちに買って観なかったDVDを観ることにする。
アップリンク・ファクトリーから出た『ジョン・ケージ』というドキュメンタリー。

ジョン・ケージ [DVD]

ジョン・ケージ [DVD]

リリースされた時から「何故に今?」とは思っていたが、『現代音楽に革命的な思想をもたらし、絶大なる影響を与えたジョン・ケージの軌跡・・・』と裏ジャケに書いてあるのを疑っておいて良かった。
収録時間58分ということからも、内容がケージの作曲活動全ての軌跡を網羅するものでは当然ないことはわかろうものだが、これは1992年8月にケージが脳溢血で帰らぬ人となった折、ケージの主要作品を24日間演奏するイベントだったフランクフルト音楽祭『Anarcic Harmony』が急遽、追悼コンサートとなった折にドイツで作成されたドキュメンタリーと、正確にどこかに印刷していないのはちょっと不親切な気がする。
インゴ・メッツハイマー指揮による『プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲』と『ピアノと管弦楽のためのコンサート』の演奏が収められている。後者のピアノ(といってもまとも奏法ではないが)はデヴィッド・チュードアが弾いていて、これは見ごたえ(聴きごたえ)がある。
プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲』は、1951年作曲で、かなり前にリイシュー盤が出ていたのに、何故か買わなかったもので、ヘンリー・カウエルの内部奏法を発展させたという「プリペアド・ピアノ」の、極端にデュレーションが減衰し、打楽器ともピアノともつかない宙ぶらりんさが魅力的な響きと室内管弦楽が、なんというのか、人間の意志的な志向性(嗜好性)を捨てていて、陽光を得るために全ての葉が、それぞれ別個の位置取りを求めて成長する植物の動きに、もし音楽的な緊張があるとしたら、こんな音楽だろう、といったものになっている(全然伝わりませんね、ごめんなさい)。
ちなみに皆さん(どの?)ご存知の通り、この曲が書かれた一年後、1952年8月のウッドストックで、チュードア演奏による無音の「4分33秒」が初演されたわけである。
『ピアノと管弦楽のためのコンサート』は、演奏者は一人ひとりが「ソロ」という位置付けで、互いに無関係に演奏する。指揮者も中央で両手を使って演奏時間を示す時計の役をするのみである。
ただし、チュードアをはじめ、優れた演奏者がやると、やっぱり緊張感に満ちたものになる。チュードアが電子音のトリガーになっている巨大なスプリングを落として出す轟音を出すさまは、どこか禅僧に喝を入れられているような気分にさせる。
こういう音楽、普通の人は「しんどい」んだろうか。
多様な「表現」自体に罪はないにせよ、慣れきった表現の上をハイドロプレーニング現象よろしく上滑りしている耳にはとってもいいエクササイズだと思うんだが。
演奏にいたるまでの数十分のドキュメント部分が手抜きかというとそんなこともない。
能書き部分はどうでもいいとしても、まだ存命中だったデヴィッド・チュードアが「彼(ケージ)の音楽は、リスペクトされてはいるかもしれないが、本当の理解には遠い」というところの枯れた感じは、後のピアノ演奏シーンでのアナーキーさと相反して味わい深い。
「音楽は、作曲家の表現というエゴを見せつけるものではなく、自然のプロセスこそを反映すべきものなのだ。」
とか、ケージが晩年に吐き捨てたという言葉、
「私の音楽の経験(「私の音楽」ではなく「・の経験」)」は、今にいたるまで全く理解されていない。」
こういう言葉は、それなりに考えてみるべきものだと思う。
ケージが、音楽に注がれていた耳を環境に解き放ったとか、西洋音楽に終止符を打ったとか、そういうことだけの考えをひねくり返しても、出るのはため息くらいだろう。
と、同時にケージが示したような「聴取の詩学」が、現代の多種多様な音楽のための感性の基底を与えたのだという強弁にも実は殆ど宗教的な欺瞞があるように思える。
自分にとってもジョン・ケージという作曲家は、とにかく『小鳥たちのために』という本が好きだった(コレは非常にありがちです)し、学生時代に亡くなったこともあって意識せずにおれなかったけれども、おおっぴらに「好きだ」ともいいにくかったし、捉えようとしてもいつも本体がみつからないような複雑な存在だった。
ただ、プリペアド・ピアノの音色は、聴くたびに「気配」のような音楽を可能にしたんではないかと思えて、自分がとても弱いのだという自覚がある。
右肩の写真を撮ったとき、どうも枯葉とジョン・ケージではベタに嵌り過ぎなんではないのですか?とも思ったが、歩いている間中、街や自然の音が聴こえてくるさまが新鮮だったので今日はこれでいいことに。