みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

朗読するブローティガン: Richard Brautigan 『Listening to Richard Brautigan』

nomrakenta2007-01-04


こんなレコードがあったとは。
アメリカ70年代のヒッピー/ビートニク文学を体現した、といわれる作家リチャード・ブローティガンによる朗読CDです。
「もしもし。
やあ、今僕の朗読を録音するところなんだよ。
マイクやらアンプやらスピーカーなんかに囲まれてて
まるで宇宙船の中みたいだよ!
うん、じゃあね。バイバイ。」
というような感じの電話の応答で始まるこのCD、Amazonのユーザー・レビューによると、ビートルズのアップル・レコード傘下の実験音楽レーベル、ザップル・レーベルから発売される筈だった、とのことで、ブローティガンの主要作品『アメリカの鱒釣り』ISBN:4102147020『ビッグサーの南軍将軍』ISBN:430946260X『西瓜糖の日々』ISBN:4309462308の朗読が収録されています。
『Here Are Some More Sounds of My Life』というトラックでは、ブローティガンが歯を磨いたり髭剃したり服を脱いだりする生活音を聞くことができる。

Listening to Richard Brautigan

Listening to Richard Brautigan

こういうCDは、聞いて「どう」と訊かれても困ってしまう代物だが、先ずは、こんなものがあったのかという驚きとむず痒いような感傷の方が勝るので良しとする。
『LovePoems』という詩は十数人の人物によって回し読まれている。
ブロ−ティガンの声は、『アメリカの鱒釣り』表紙の通り優しげなもの。
アメリカの鱒釣り』は、書き手である「わたし」と「アメリカの鱒釣り」という謎の人物との交流を一応軸にしているように僕には読めるんですが、短い章立ての一つ一つがエッセイか散文詩のような形で「アメリカの鱒釣り」の周りを切り取って、整理の悪いスクラップブックをめくるような感覚を起こさせる。高校生の頃に読んでそのまま本棚に挟み込んでいたのを今パラパラやってみると、読み直したくなってきた。この本が「マヨネーズ」という言葉で終わるのが、またいい。
アメリカ本国では、ピストル自殺とともにヒッピー/ビートニク文化の終焉の象徴のようにいわれて忘れ去られたというブローティガンですが、むしろ日本で長く評価された(例えば、かつて村上春樹も影響を口にしたり)のは、著作の殆ど(全て?)を一人で翻訳されている藤本和子さんの仕事が、もはやこの人の以外の訳文のブローティガンを想像できないくらい理想的なものになっていることが間違いなく大きな要因のひとつだと思いますが、作家との会話ではしっかりとこんな言質をとってらっしゃる。

「ビート・ジェネレーションの作家は、あなたの気にいった?」と、鮭のスフレのつけあわせにブローティガンが用意してくれたアスパラガスを食べながら、わたしはたずねる。アスパラガスは色がにじんだ絵つきの粗末な中皿にあざやかな緑色をして、一列に几帳面に並んでいる。そういう細かいことにきちんと気を配るひとだ。
「連中のことは好きになれなかったな」
「共通するものが少ないと感じたの?」
「教育もなく、まずしい出身のわたしが作家になったんだからね。作家の仕事の偉大さは、どれほど苦労して書いたかにかかっている。わたしは長いこと認められなかった、それがわたしが書き続ける燃料になったんだ。」

藤本和子リチャード・ブローティガン』p.58

たしかにブローティガンの小説は、言葉を発する端から世界が微妙にやさしくゆがんでいくような形のもので、ビート・ジェネレーションの狂騒や現実的なものを巻き込んでいくスピード感とは、異なる出発点に立っている。そこがケルアックに「禅ヒッピー」といわれてもピンとこない日本人に受けたんだろうか。

そういえば、かつて、村上龍が『海の向こうで戦争が始まる』を脱稿したとき、リチャード・ブローティガンに「2作目を書き上げたところだ」と言ったら、

大事なのはね、三作目だ。
処女作なんて体験で書けるだろ?
二作目は、一作目で習得した技術と想像力で書ける。
体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まるんだから

と言われてハッとした、という話が、あとがきに書いてある。
台詞がまるっきり村上龍節なので、本当にブローティガンがこう言ったのかどうか怪しいような気もするが、それで書かれた3作目が『コインロッカー・ベイビーズ』だったとすれば、この時の諫言、ものすごい圧搾力があったことだけは確かなのかもしれない。
実はこのあとがきを読んだ頃、リチャード・ブローティガンのことは知らなかったし、読んだこともなかった。
後で『西瓜糖の日々』を読んだとき、ああこの人かと思ったくらいで、今これを書いていて、とてもお恥ずかしい。
またその後当時つきあっていた女の子に借りて読んだ『船を建てる』という漫画に、「リー・メロン」というブローティガンの『ビッグサーの南軍将軍』の主人公の名前が拝借されていたのも、なぜだかよく憶えている。
ところで、ブローティガン自身の3作目がなんだったかというと、この1968年の『In Watermelon Sugar(西瓜糖の日々)』なのである 。『海の向こうで戦争が始まる』と『西瓜糖の日々』は、その表情こそまるで対極にあるような作品だけど、どこか構造が似ているような気もする。

 アイデスの近くでわたしが書いているこの物語も含めて、ここでは、西瓜糖でじつにいろいろなものをつくる。−そのことを話してあげる。
 そう、なにもかも、西瓜糖の言葉で話してあげることになるだろう。


ブローティガン『西瓜糖の日々』p.9

ヒッピーとは無関係だと言ったブローティガンですが、書斎の窓の外になにかのコミューンが崩壊していくさまを静かに見つめながらこの本を書いたんじゃないかとも想像してみたくなる。それこそ西瓜糖の言葉を通してしか覗けない世界とブローティガンの語り口は、甘美なのに何度読んでも肉薄してつかむことができない、もどかしいような感覚がある。そんな魅力のある上質なファンタジーとしてももちろん読めるが、これも言葉の不穏なゆらぎに満ちた現実的なありかたなのかもしれない。