みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

まなざしならい:鈴木志郎康映像作品『比呂美−毛を抜く話』,『眺め斜め』,『荒れ切れ』,『あじさいならい』

nomrakenta2006-12-05


先日、鈴木志郎康さんにお借りできたDVDで、初期の3作品(『日没の印象』(1975)、『草の影を刈る』(1977)、『15日間』(1980))と最近の作品(『野辺逃れ』(1993))を拝見することが出来(詳細はこちら)、両者の間にかなり違いがあることが気になりました。それは、前者が『15日間』を頂点(というか極北)に、<極私的という方法>への周到な準備をつまづきながらも整えていく過程であり、後者『野辺逃れ』では、『15日間』では自己言及的だった方法自体が前景とはならずに、背景に沈潜しているというか、どこか昇華されていて、対象への「まなざし=視線」を獲得しているような、そんな印象だったのです。
今回観ることができた4作品はどれも、他者(外部)を介することで、新しい眼差しを得ることがテーマのようにも思えました。

映像作品の詳細情報は、こちらの鈴木志郎康氏ご自身によるHPのフィルモグラフィーが当然基礎的な情報ですので、こちらをまずご覧ください。

今回拝見できたのは、下記の4作品で、今回も制作年順に観ていきました。

1:『比呂美−毛を抜く話』(詩人・伊藤比呂美)90分(HIROMI - Pulling hairs.1981 16mm 90m)カラー

2:『眺め斜め』(宗教学者中沢新一)52分(Looking obliquely.1983 16mm 90m)カラー

3:『荒れ切れ』(詩人・ねじめ正一)30分(Cut violently.1984 16mm)カラー

4:『あじさいならい』50分(Imitating the flower of Hydrangea. 1985 16mm) カラー

まず、
1:『比呂美−毛を抜く話』(1981年 90分)です。
冒頭、いきなり荒川の河原の映像。
セイタカアワダチソウ、オオアレチノギク・・・外来の帰化植物、草・草・草。
これが無意味なショットではなく、ここで詩人・伊藤比呂美の詩の原風景を暗示するものであることは、次の伊藤比呂美さんが語る「毛を抜く話」で次第に明らかになっていきます。その話は、河原の植生に対する漠然とした愛着から、脅迫観念的に自分の眉毛とか産毛を抜く癖の話になり、雑草の群生と体毛がある意味、おおきな「皮膚感覚」として通底しているんじゃないかと思った。
その「肌」というより絶対「皮膚」と言った方がふさわしい言語感覚は、昔みたメレット・オッペンハイムというシュールレアリスム系の作家の『毛皮の朝食』という、毛がびっしりと生えた朝食用カップのオブジェを思い起こさせましたし、そういった感覚をコトバに翻訳する過程でああいう詩ができるのか、と妙に納得、でした。
さらに、伊藤比呂美さんの上記のような五感を植物に託したようなアニミズム的な身体感覚(「荒草」への拘り・僕の中では、それはこないだ金沢で観た雑草を政治化するドイツのアーティスト、ロイス&フランツィスカ・ヴァインベルガーの印象にもつながってきます)が、伊藤比呂美さんの、数々のエッセイ、例えば1996年の『居場所がない!』では、熊本に移り住んだ伊藤さんが近所の河原の蒲の野原が治水工事で根こそぎなくなってしまうことに対する悲観にもなり、2005年の『河原荒草』ISBN:4783721017、このフィルムの中の朗読で呪詛するように語りかけていた「お母さん」が今や熊本から娘二人を連れてカリフォルニアに移住した詩人本人のこととなり、こんどはその長女の視点から「河原→荒地→河原→荒地」という現代の「二都物語」としてしまう幻想的で圧倒的な「語り」にまでなっています。
そんな伊藤比呂美の詩人としての感性の中核を、そのはじまりの地点から極めて裸の状態で収めたフィルムとしても重要なものといえる気がします。

2:『眺め斜め』(1983年 52分)
冒頭に引用されるカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(北方ロマン主義!)の険しい雲海を眺める後姿・・・「眺める」というのであれば、確かにこの絵の画集を撮ることは的確なことでしょう。
しかし画集のページはたわんでいます。画集の乗ったテーブルの下の箱の曲面には、何か海の映像が映写されています。ちょっと、普通に「眺める」ということではないらしい。
沖縄旅行を軸に「眺める」ことは意識と関係するのでは、というテーマを掘り下げた構成です。その流れでチベット密教で自分から離れて眺める「風の行者」の修行体験をした宗教学者中沢新一さん(若い!)の話を聞く・撮ることがこのフィルムのもう一つの中核です。個人的には話の中に「ポア」という言葉が出た瞬間「ああ来た来た」とちょっと微妙な「ひき」が入ってしまったのですが、

「知恵の目」を通して観ると、この世界の根源の無限の生産力を秘めた力は、自由で軽やかであり、決してカオスではないことがわかる。

と知的な「中沢節」で熱弁に入っていくところなどは、無宗教な僕も「ほーう・・・」となりました。
しかし、僕にとってはむしろこの作品の重要な点は下のような、フィルムの冒頭、島が迫ってくる映像にかぶせられた鈴木さんの台詞でした。

島に向かっているということが私のこころを落ち着かせているのは確かだった。海を眺め続けていると、私が海を眺めているのではなくて、逆に海の方が私の心の奥を眺めているのではないかという気がしてくるのだった。

沖縄の「拝所」を撮った、風にそよそよとなびく野原と小さな祠を視線が動くままに捉えた<極私的>なのに優しく力強い静けさをもった映像。これこそ「別の視線」さえ必要としない「眺めること」そのものであるように思えました。
そして、この「眺める」が「斜め」であること、フィルムを撮り、編集して作品にするということは、決して垂直や平行な作業とはならない「斜め」になるのだ、ということ。
「15日間」からの思索をばねにして対象を斜め方向に放り出すことに成功していると思えました。
新しく産まれた赤ちゃんの出産の映像で作品は終わります。

こうして考えてくると、「眺める」ということには、絶えず「生まれ変わりたい」という気持ちが込められているのだということがわかってきた。

3:『荒れ切れ』(1984年 30分)
これは、物語的な構成をとっています。筋は鈴木志郎康さんのフィルモグラフィの解説を読むと納得できます。ジャズの演奏を使った不穏な出だしから、ねじめ正一さん本人による長編の詩の朗読。これが凄まじい。つまづいても構わずそれを爆発させるようにしてスピードに変えていくような肉弾的な朗読が、ハイライトです。
伊藤比呂美さんもねじめ正一さんも、「朗読する」詩人です。発話とライティングに差がない、というか、発話でもってコトバをアンプリファイすることになんの抵抗も感じない詩人たちだったことがよくわかります。
素人目には、自分の産毛を無理やり抜く様やグロテスクな切腹関係の本の内容を事細かに嬉々として語る伊藤比呂美さんは、もしかして、かつて鈴木さんが書いた少女「プアプア」がそのものが現実に現れたかのような錯覚すらしたのではないか、と僕は要らぬ邪推をします。
また、ねじめ正一さんの朗読などは、『プアプア詩』にも接近した猥雑なスピード感をもっているようにも思えます。多分、鈴木志郎康さんは、自分とは違うやり方をとる詩人たちの登場に、とりもなおさず先ずは、カメラという「眼差し」を向けてみることで、語り合おうとしたのではないだろうか、と。

4:『あじさいならい』(1985年 50分)
このフィルムは、『15日間』から5年をおいた日記映画(自分の中に動機を探す)の続編として作成された、ということです。しかし、その5年の間に鈴木さんは、あえて自分以外の他者の語り(それは、詩人であったり宗教家であったり)を取り入れ、<極私>を足場に外界に向けても開かれていったわけです。
冒頭に、鈴木さんがジョナス・メカスの『ロスト・ロスト・ロスト』というフィルムを観て、別のフィルムをフィルムの中に取り込む「入れ子構造」を思いついたと仰るように、
1)吉増剛造さんを含む数人の詩人と沖縄を訪れたときのフィルム(風たなびく城跡での吉増さんの詩を詠ずる声は意外に性急なスピードで金属的響き)や、
2)吹雪の中、黒川能を観に村人が集まる当屋を撮ったフィルム『黒川能ノート』(1980)、
そして3)吉増剛造の詩を真似て、即興で喋りを8ミリフィルムに重ねた作品『剛造ならい』。
どれも単体としてでも、叙情のある短いフィルムですが、これらを劇中画として取り込んで、なにか別の時間の流れ、というか別の「眼差し」を呼び起こそうと試まれています。
その進行は、庭に植えられたアジサイの成長を追いかける事によって、季節の移り変わりによる光線のうつろいをくっきりと感じさせ、

5月の光というのは一種の懐かしさをもっている光なんですね。冬の光だともたせたくなるし。夏の光だと避けたくなる。で、5月の光というのはそういうことがなくて、その中でまあ、酔っているということができる、そういう光だという気がします。
鈴木志郎康さんのナレーション

大きく静かな呼吸のようなアジサイの花の盛衰自体によっても、また、フィルム自体が、うながされ、ゆるやかにつなぎとめられたような流れをもっていて、これは『15日間』に流れている緊張した時間とは、なにか異なる素粒子によっているような印象さえあります。
『剛造ならい』という詩人の擬態をした断片を含んだこのフィルム自体もまた、『紫陽花倣い』として、アジサイの花への擬態として、開かれているように思えました。