みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ナイマンのシュヴィッタース・オペラ『Man and Boy:DADA』

nomrakenta2006-06-24


ブックレットを見ていると、舞台美術、背景に映写されるイメージ共に相当良さそうなのでこれは少なくともDVDで見なければ作品をちゃんと体験したことにはならない。そういう意味での4点です。音楽自体は当然のナイマン節で、期待は裏切らない。

これはマイケル・ヘイスティングス作の2幕仕立ての物語に、マイケル・ナイマンが音楽をつけた2004作のオペラである。
シュヴィッタース・オペラではあるが、メルツ・オペラではない。つまりハリウッド映画のようなちゃんとした筋立てで物語が展開するという意味において。


時代は、第二次世界大戦終結後の1945〜48年の間*1
場所は、ロンドン。
バス停で一枚のバスの切符をめぐって、少年と初老の男が、取り合いを始めることから物語ははじまる。
少年は、バスの切符の完璧なコレクションをつくるため。
男は・・・「とても個人的な理由」:コラージュをつくるため、だ。
見るからに貧乏で重病人でもあるらしい男の名前は、クルト・シュヴィッタース
ナチの迫害からノルウェー経由でイギリスに逃れてきたドイツ人のダダイスト、自称・「総合芸術」メルツの芸術家である。
シュヴィッタースは少年に自作のコラージュを見せるが、理解は得られない。


少年の名は、マイケル。ドイツ軍のロケット爆撃によって、父親を失った母子家庭である。マイケルという名は、もちろん少年時代切符収集をいていたナイマンでもあるし、物語作者ヘイスティングスとしてのマイケルでもあるだろう。


一般的なダダのイメージを観客に印象づけることも忘れておらず、美術館の庭で再会した少年にシュヴィッタースが見せる奇矯な振る舞い(セメントのライオン像にダンボールの耳をくっつけたり鼻を描き足したりして「いつまでもライオンだと思ったら大間違いだ、これは太った猫だ!」とのたまう)は、ダダのトリックスター的な面を上手く描いて物語に弾みをつけて次につなげている。
ここでの音楽も躍動感溢れて素晴らしく、是非映画で観て見たいシーンだ。シュヴィッタース役にはアンソニー・ホプキンス・・・というのはベタ過ぎだろうか。


BBCのラジオでインタヴューされるが、シュヴィッタースはどもって何一ついえないまま終わってしまう。


さて、この時の美術館での監視員との悶着で、風邪をひいて寝込んでしまったマイケルの家にシュヴィッタースが見舞いにいくところから、物語はシュヴィッタースとこの母子家庭との関係に入っていく。
突然の見知らぬドイツ人の訪問に驚き、お茶も出さない、玄関も通さない母親に対してシュヴィッタースはひるむどころか、
「お見舞いに<クシャミ詩>を作ってきました」といきなり<原音ソナタ>を彷彿とさせる音声詩を実演。
そのユーモラスなパフォーマンスで、マイケルと母親の警戒心を一気に解きほぐしてしまうところなどは実際のシュヴィッタースの子供っぽいけど憎めない面をかなり表現していると思う。


母親:「ドイツ人のアリジゴク(V1ロケット)が父さんを殺したのよ。ドイツ人は皆ケダモノだわ」
マイケル:「あの人(シュヴィッタース)もドイツ人だよ」
母親:「ああ・・・そうねえ、あの人は別よ」


と言われるまでには、母子との親睦を深めたシュヴィッタースは、誕生日に自転車を欲しがったマイケルに、誰も乗れない<ダダバイク>を送る。
マイケル:「自転車だ、自転車だ!・・・・これは?」
シュヴィッタース:「友達が持っているのはみんな乗って走るだけの自転車だろう?これは壁にかけて鑑賞する自転車だ!」
マイケル:「・・・・(うつむいて)ありがとう」
<ダダバイク>の写真がブックレットに載っていないのが実に残念ですが、結局これがシュヴィッタースと家族の価値観の違いを決定的にしてしまう。少年は何も言わず部屋から走り出し(グレますわ、そりゃ)、母親には「一体あなたってどういう人なの?!」と言われてしまう。
シュヴィッタースは意気消沈し、やはり自分の価値観は他人を幸福にしないのだ、とすら思い込んでしまう。


その後、母親との子供っぽい恋愛関係のような局面も挟まるが、深夜マイケルと二人で、バスの停留所に忍び込み、マイケルの切符コレクションの最後のワンピースを手に入れたシュヴィッタースは、しかし、そこで収容所めいた無人の停留所の雰囲気に改めて戦慄し、物語に絶えず暗い影を落としていた戦争が様々な形の暴力として自分にもはっきりと刻みこまれている(それは故郷を捨てさせ、生涯をかけたメルツ建築を破壊し、妻を奪い、シュヴィッタースの人生を否定した)ことを再確認し、マイケルにお別れをいう。


最後にマイケルはもう会ってくれなくなった男の家を訪ねるが、逆にシュヴィッタースは、自転車の件で、自分がもっとも大切にしてきた「ダダ的」なものが友達を幸せにしないものだと気付いたのだと漏らす*2


前述したように、作品の二人の創作者であるマイケル(・ナイマンと・ヘイスティングス)をもおそらくは投射したと思われる少年マイケルと、彼らが少年であった時代に英国に亡命してきて生涯を終えた、彼らが影響を受けたことは想像に難くないアヴァンギャルドの生き証人シュヴィッタースという組み合わせは、もしかしたら出会っていたかもしれない二人の夢想、といったところで、もしそれだけなら単純すぎる物語だが、ここで賢明に思えるのは、安易に、少年のコレクションが代表する「秩序」とシュヴィッタースの「混沌」の中に美を見出す態度とを簡単に相互理解に至らせていないという点だろうか(むしろ「ねじれの位置」だあることは嫌というほどに強調される)。

シュヴィッタース:「君は混沌を嫌い、全てを秩序の中に取り戻そうとする。そんなに若いのに。逆に私は全てに混沌を見出し、それを愛する。そこには、つまり乱調には美があるんだ。」

このように、両者は友好的でありながら本質的には「ネジレの位置」にあるまま、物語は終わる。


シュヴィッタース:「ダダですら、捻じ曲げられ悪用される。この一本の歯ブラシを決して邪悪でないものにするには、何が必要だろう?」
マイケル:「・・・歯磨き粉?」


この後ほどなくしてシュヴィッタース心不全で死んでいくにしても、この最後の会話でのすれ違い、あるいは少年との関係には、安易な同化を望まないからこそ希望があるのだ。

そういった希望を成り立たせるシュヴィッタースという芸術家の子供っぽさや抽象性、そして惨めさの全てをひっくるめた人間的な魅力を感じるのに、特に欧州人である必要はないのだ、とつくづく思う。

*1:ハノーヴァーを逃れたシュヴィッタース略歴は41年にロンドンに移住し、44年妻が死に、45年にアンブルサイドに定住。46年脳溢血、47年心臓喘息、大喀血。48年に心不全で死んだ。だから物語の設定は、大体、はやくとも45年から、おそくとも47年くらいだろうと想像できる。

*2:ダダバイクの件の他にも、V1ロケットを真似た音声詩のパフォーマンスで、母親をひどく動揺させている